梶一郎
梶一郎 九段 | |
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名前 | 梶一郎 |
生年月日 | 1912年6月6日 |
没年月日 | 1978年1月20日(65歳没) |
プロ入り年月日 | 1934年(21歳) |
引退年月日 | 1959年(46歳) |
棋士番号 | 12 |
出身地 | 東京府東京市(現:東京都台東区[注 1]) |
所属 | 日本将棋連盟(関東) →将棋大成会(関東) →日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 土居市太郎名誉名人 |
弟子 | 東公平(観戦記者) |
段位 | 九段 |
棋士DB | 梶一郎 |
順位戦最高クラス | A級(1期) |
2017年8月21日現在 |
梶 一郎(かじ いちろう、1912年6月6日 - 1978年1月20日)は、将棋棋士、九段。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は12。東京府東京市(現:東京都台東区[注 1])の生まれ。
経歴[編集]
元号が明治から大正に変わる前月の明治45年(1912年)6月の生まれである。
1928年、土居市太郎に入門。同年9月に関東の奨励会が創設されている。
プロ入り(四段昇段)は1934年。以降昇段を重ね、戦時中の1943年に八段まで上り詰める。
戦後に始まった第1期順位戦(1946年度)では、A級(八段リーグ)からスタート。4勝9敗の成績で陥落枠7名の中に入り、第2期はB級で指す。
第11期(1956年度)B級2組順位戦で2位(9勝4敗)の成績を収め、B級1組に復帰。
第2回(1957年度)東京新聞社杯戦で高松宮賞を獲得。
第13期(1958年度)B級2組順位戦で、0勝3敗の後の7局を不戦敗とし、1959年、現役を引退。まだ46歳であった。
1978年1月20日、肺炎で[1]死去。享年65。同日付で九段を追贈される。
人物[編集]
- 師匠の土居市太郎の次女と結婚している。
- 梶にはプロ棋士になった弟子はいないが、後に観戦記者となった東公平は、梶門下で奨励会で指し、初段で退会している。
- 第12期順位戦(1957年度)B級1組では12戦中1勝11敗の成績とし、全12局制の順位戦において「この十一敗は新記録?」と自身のコラム(ベテラン閑談「近代将棋」1958年7月号)の中で取り上げている[2]。同コラム内では、梶が「五百何手の最長手数の愚戦[4]を演じたり、三十三手の最短手数で負けたり」したことにも触れ、梶自身が「レコードメーカー」と揶揄されたとも記している[2]。
棋風[編集]
居飛車党で、相掛かりや変則的な矢倉の形の将棋が多い。横歩取り3三角戦法を内藤國雄以前に指している。時折振り飛車も指し、升田幸三を相手に中飛車で戦って勝った一局もある。
昇段履歴[編集]
主な成績[編集]
- 東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦 高松宮賞1回(1957年度 = 第2回)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 平成10年版「将棋年鑑」
- ^ a b 『近代将棋 1958年7月号』近代将棋社/国立国会図書館デジタルコレクション、50–51頁。
- ^
- 「(2ページ目)令和初日の衝撃!! 木村一基―菅井竜也戦はいきなり317手の超長手数だった | 観る将棋、読む将棋」『文春オンライン』2019年5月9日。
- 「新聞に掲載された最長手数の対局を考える」『将棋棋士の食事とおやつ出張所』2019年8月20日。
- ^ 「五百何手の最長手数の愚戦」とは、1939年(昭和14年)に行われた香落ち戦(溝呂木光治七段 対 梶一郎六段)の対局で、双入玉となった本局の手数は560手に及び、下手・梶の「規約勝ち」であった[3]。