エドワード・ペリュー (初代エクスマス子爵)
初代エクスマス子爵エドワード・ペリュー(英: Edward Pellew, 1st Viscount Exmouth,GCB、1757年4月9日 - 1833年1月23日[1][2])は、イギリスの海軍軍人。提督、連合王国海軍副提督、バス勲爵士(GCB)。アメリカ独立戦争、フランス革命戦争、ナポレオン戦争に従軍した。弟イズレアル・ペリューも海軍軍人。「ペルー」と表記される場合もある。
ペリューは勇気と指導力を兼ね備えた士官かつ紳士として知られ、その勇気、指導力、能力によって名声と地歩を勝ち得た。彼はその臨機応変さと決断力とでナポレオン戦争の時期の海軍士官の模範となった。ペリューはホレイショ・ホーンブロワーの物語と「ジャック・アブソリュート」の物語に登場する。
生涯[編集]
少年時代[編集]
ペリューは、ドーバーの運搬船の船長であるサミュエル・ペリューの次男としてドーバーで生まれた。その家系は古くはノルマンディーに発し、数世紀にわたってコーンウォール西部に定着したものである。1764年にエドワードの父が亡くなると、家族はペンザンスに移転し、ペリューは数年間トゥルロのグラマースクールに通学した[3]。彼は血の気の多い少年であり、校長に嫌われていた。彼は14歳のときに学校を飛び出して海軍に入った。
初期の経歴[編集]
ペリューは1770年に海軍に入り、ジョン・ストット艦長の軍艦「ジュノー」に乗組んでフォークランド諸島に赴いた[4]。1772年にはストットに従って軍艦「アラーム」に移り、3年にわたって地中海艦隊で勤務したが、他の士官候補生との待遇差に関するもめごとを艦長との間で起こし、マルセイユで艦を下ろされてしまった。彼はその地で父親の旧友である商船管理者と出会い、リスボン経由で帰国することができた。彼はその後フィレモン・ポウノル艦長の軍艦「ブロンド」に乗組んだ。「ブロンド」は1776年の春にジョン・バーゴイン将軍をアメリカへ運んだ。10月、ペリューはダクレス海尉の指揮下、もう一人の士官候補生ブラウンと共に、シャンプレーン湖上のテンダー[注釈 1]「カールトン」に分遣された[4]。11日からの激しい戦闘(バルカー島の戦い)においてダクレスとブラウンが共に負傷し、指揮権がペリューに移った。彼は持ち前の勇敢さによって船を重大な危地から脱出させた。この働きの報酬として、彼はその場で「カールトン」の指揮を命じられ、イングランドに帰った際には海尉に昇進する約束を得た。1777年夏、ペリューは少数の水兵を率いてバーゴイン将軍の下でサラトガの戦い[注釈 2]に従軍し、部隊の生き残りと共に捕虜になった。サラトガでバーゴイン将軍が降伏すると、彼は本国へ送還された。
ペリューはイングランドに戻ると海尉に昇進し、1778年1月9日にポーツマス軍港の警備艦「プリンセス・アミーリア」に配属された。彼は外洋で活動することを望んだが、彼はサラトガでの降伏の経験を引きずっているため前線での勤務に適さないと考えられていた。その年の終わりまでに彼は「ライコーン」に配属され、1779年の春にニューファンドランドへ出動し、その冬に帰還した。そして、昔の上官であるポウノル艦長の指揮する「アポロ」に転属した。1780年6月15日、「アポロ」はオーストエンデ沖でフランスの大型私掠船「スタニスロウス」と接近戦を行った。艦長ポウノルはマスケット銃の射撃を受けて死亡したが、ペリューは戦闘を続行して「スタニスロウス」のマストを打ち倒し、中立国の海岸まで運んだ。18日、サンドイッチ卿は彼に『私は、貴官の勇敢で士官の範たる行動の報酬として、ただちに貴官に昇進を告げることにいささかの躊躇も感じない』と書き送った。そして、7月1日、ペリューはスコットランド東岸での任務のために雇用されたスループ「ハザード」の指揮を任され、6か月にわたって任務についた[4]。1782年3月にペリューは「ペリカン」の指揮を委ねられた。それは小さく低いフランスの拿捕船で、彼はそれを評してよく『キャビンに座っている主人の髪を甲板の召使が整えることができる』と言っていた。4月28日には、彼はブルターニュ沿岸の哨戒で3隻の私掠船を捕獲し、海岸まで運んだ。これらの戦果への報酬として、彼は5月25日に勅任艦長に昇進し、「Artois」の一時的な指揮を命じられた。彼はその艦で7月1日にフリゲート級の大型私掠船を捕獲した。
1786年から1789年まで、彼はフリゲート「ウィンチェルシー」を指揮し、冬にはカディスやリスボンの近海に帰りつつ、ニューファンドランド海域で任務に就いた。その後、ミルバンク海軍中将の旗艦艦長として、同じ海域で軍艦「ソールズベリー」を指揮した。1791年には半給休職となり、農場でささやかな生計を立てていた。その頃、彼はロシア海軍の指揮をとることを打診されたが、それは断った。1793年にフランスとの戦いが開始されたとき、彼はすぐに指揮艦を要求し、36門フリゲート「ニンフ」を任された。彼はきわめて短期間の間に出動準備を終えた。彼は水兵の補充が困難なことを予想し、約80人のコーンウォールの鉱夫を徴募してあったのである。
艦長時代(フランス革命戦争)[編集]
1793年6月18日、「ニンフ」は2隻のフランス・フリゲートがイギリス海峡に現れたという知らせを受けてファルマスから出航した。19日の夜明け、「ニンフ」はフランスの36門艦「クレオパトラ」を発見した。指揮するのは、フランス海軍に残った数少ない旧体制(アンシャン・レジーム)に属する艦長、ジャン・ムロンだった。「ニンフ」の的確な急襲により、「クレオパトラ」のミズンマストと舵輪は破壊された。そして操艦のできなくなった船は、「ニンフ」に横付けされ、激しい斬り込み戦の末に捕獲された。致命傷を負ったムロンは、最期の苦しみの中、命令書を飲み込もうとしたが、秘密の信号書の処分には失敗した。暗号は無傷でペリューの手に落ち、ただちに海軍本部に送られた。「クレオパトラ」は戦争開始後最初に捕獲されたフリゲートとしてポーツマスに運ばれた。そして6月29日、ペリューはチャタム伯爵の仲介で国王ジョージ3世に謁見し、ナイト爵に叙された。
1794年に彼は西部方面フリゲート戦隊の指揮官(代将)となった。1795年に、彼は、彼の乗艦のうち最も著名であるフリゲート「インディファティガブル」を指揮することとなった。
ペリューは泳ぎもうまく、多くの人命を救ったことでも知られている。もっとも印象的なできごとは1796年1月26日、軍隊を輸送していた東インド会社の貿易船「ダットン」がプリマス・ホウの下で座礁したときのことである。海が荒れていたために、乗員と兵士は岸にたどり着くことができなかった。ペリューは綱を持って残骸から泳ぎ出し、それを命綱として、船に乗っていた者のほとんどすべてを救助した。この功績により、彼は1796年3月18日に準男爵を授けられた[5]。
ペリューの最も有名な戦闘は1797年1月13日、フリゲート「アマゾン」と共に巡航していたときに起こった。彼らはフランスの74門戦列艦「ドロワ・ドローム」(「人権」の意)を発見した。常識では1隻の戦列艦は2隻のフリゲートに勝ると考えられている。しかし、荒天下においてはその操船術の優位性によって、イギリスのフリゲートはフランス戦列艦の優勢な火力に立ち向かうことができた。1797年1月14日の早朝、3隻の船は、Audierne湾内の防波堤に吹き寄せられた。「ドロワ・ドローム」と「アマゾン」は座礁したが、「インディファティガブル」は巧みな操船によって脱出することができた。
提督時代と叙爵[編集]
ペリューは、1804年に少将に昇進した。彼は、東インド諸島方面の司令長官に任命されたが、ペナンに向けて出航するまでに6か月かかったため、着任は1805年のことになった。1809年に東方から帰ると、1811年から1814年まで地中海艦隊の司令長官を務め、また1816年に再任された。
1814年に、ペリューはエクスマス男爵に叙された[1][6]。彼はバーバリ諸国に対して英蘭連合艦隊を導いて出撃し、1816年のアルジェ砲撃に勝利して、市内にいた1,000人のキリスト教徒奴隷を解放した[4][7]。この功績により、彼は1816年12月10日にエクスマス子爵に位階を進めている[1][8]。イングランドに帰還した彼は1817年から1820年までプリマスの港湾司令官を務めた後、現役を引退した。その後も彼は上院に出席して活動を続け、1832年、名誉職の「連合王国中将」に任命された[1]。
ペリューは1812年にデヴォン州テインマスのビトン・ハウスを購入し、1833年に亡くなるまでそこを家とした。テインマス博物館は、彼が収集した広範囲の工芸品のコレクションを所有している[9]。
家族[編集]
1783年5月28日にスザンナ・フロードと結婚した[4]。夫妻は4人の息子と2人の娘をもうけた[1]。
- エマ・メアリ・ペリュー:1785年1月18日生-1835年3月3日没、ローレンス・ハルステッド提督と1803年結婚。
- ポウノル・バスタード・ペリュー:1786年7月1日生-1833年12月3日没。海軍軍人、後に第2代エクスマス子爵。
- ジュリア・ペリュー:1787年5月31日生。
- フリートウッド・ブロートン・レイノルズ・ペリュー:1789年12月13日生-1861年7月28日没。提督、ナイト爵。1808年に長崎で起きた「フェートン号事件」のフリゲート艦「フェートン号」の艦長。
- ジョージ・ペリュー:1793年4月3日生-1866年没。後にノリッジ司教。政治家ヘンリー・アディントン (初代シドマス子爵)の3女シャーロッテと結婚。子のヘンリーは、1922年にポウノルの男系が途絶えたのを受け、第6代エクスマス子爵を襲爵。
- エドワード・ウィリアム・ペリュー:1799年11月3日生。牧師。
ペリューに由来する地名[編集]
オーストラリア、カーペンタリア湾のサー・エドワード・ペリュー諸島は、1802年にそこを訪ねたマシュー・フリンダーズが、ペリューにちなんで名づけたものである。他にもオーストラリアの地名にはペリュー岬(ペリュー諸島に隣接)とエクスマス湾とがある。ジャマイカのペリュー島もエドワード・ペリューの名を取ったものである。
フィリピンの東にあるパラオは、以前はペリュー諸島またはペルー諸島とも呼ばれたため、しばしばエドワード・ペリューに由来すると言われることがあるが、これは1783年、まだペリューが名を上げる前にキャプテン・ヘンリー・ウィルソンによって名づけられたものであり、土着の名前ベラウが英語的に訛ったものと考えられている。
小説等への登場[編集]
ペリューは、セシル・スコット・フォレスターの小説「ホーンブロワーシリーズ」のいくつかの巻でフリゲート「インディファティガブル」の艦長として登場する。テレビシリーズでは、ロバート・リンジーによって演じられ、原作より重要な役割を与えられている。彼はまた、C・C・ハンフリースの小説『Jack Absolute』に士官候補生として登場する。パトリック・オブライアンの小説「オーブリー&マチュリンシリーズ」の『風雲のバルト海、要塞島の攻略』(第7巻)、『The Reverse of the Medal』(第11巻)などで彼は脇役を演ずるが、彼本人が登場するのは『The Yellow Admiral』(第18巻)と『The Hundred Days』(第19巻)だけである。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Exmouth, Viscount (UK, 1816)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2021年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月11日閲覧。
- ^ Cokayne, G. E. (1926). Gibbs, Vicary & Doubleday, H. A.. eds. The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat). 5 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. p. 225
- ^ Nicholas Carlisle, A concise description of the endowed grammar schools in England, vol. 1 (1818), p. 151
- ^ a b c d e Christopher D. Hall. "Pellew, Edward, first Viscount Exmouth". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/21808。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ “The "Dutton" and Captain Edward Pellew”. The Encyclopaedia of Plymouth History (2011年1月11日). 2013年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月12日閲覧。
- ^ "No. 16898". The London Gazette (英語). 14 May 1814. 2021年2月13日閲覧。
- ^ 岡部, いさく 著、小川 光二 編『英国軍艦勇者列伝』(初版)大日本絵画、東京都,千代田区、2012年。ISBN 9784499230865。
- ^ "No. 17175". The London Gazette (英語). 21 September 1816. 2021年2月13日閲覧。
- ^ “Teignmouth & Shaldon Museum”. Devonmuseums.net (2006年). 2008年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年12月2日閲覧。
参考文献[編集]
- アルフレッド・セイヤー・マハン (1902) "Pellew: The Frigate Captain and Partisan Officer" in: Types of Naval Officers: Drawn from the History of the British Navy, Chapter VII, London : Sampson Low, Marston & Company, プロジェクト・グーテンベルクにより参照可能。(2007年6月10日現在)
- Osler, Edward (1854) Life of Admiral Viscount Exmouth, London : Geo. Routledge & Co., 235 p., プロジェクト・グーテンベルクにより参照可能。(2007年6月10日現在)
- C・N・パーキンソン (1934) Edward Pellew, Viscount Exmouth, Admiral of the Red, London : Methuen & Co., 478 p.
外部リンク[編集]
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Viscount Exmouth
- Edward Pellew (1757–1833) at Three Decks - Warships in the Age of Sail.
- Hutchinson, John (1892). “Edward Pellew”. Men of Kent and Kentishmen (Subscription ed.). Canterbury: Cross & Jackman. pp. 99-100
- Marshall, John (1823). “Right Hon. Viscount Exmouth”. Royal Naval Biography. 1, part 1. London. pp. 209-228
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