コーカサス戦争

コーカサス戦争

フランツ・ルボー英語版画 『コーカサス戦争の光景』
1817年~1864年
場所北東コーカサス地域(現在のチェチェンイングーシダゲスタン
結果 シャミール投降、ロシアによる北東コーカサス併合
領土の
変化
チェチェンイングーシダゲスタンがロシアに併合
衝突した勢力

ロシア帝国
スヴァネティ公国

イマーム国英語版

チェルケス国ロシア語版
北コーカサスのハーン国[1]
カジクムフ・ハン国[2]
アヴァール・ハン国

アブハジア公国ロシア語版
指揮官
ニコライ1世,
アレクサンドル1世,
アレクサンドル2世,
アレクセイ・エルモーロフ英語版,
ガジ=マホメド英語版 
ガムザト=ベク英語版 
シャミール
各国のハーン
ハジ・ムラート英語版 
戦力
約 25万 約 7,000 不明、約 500-1000
被害者数
約 4,000 約 5,000 不明

コーカサス戦争カフカーズ戦争ロシア語: Кавказская война)とは、1817年~1864年の間、北コーカサスを支配しようとするロシア帝国コーカサスチェチェン人ダゲスタン人アヴァール人, レズギン人, クムイク人等)・カラチャイ人チェルケス人アディゲ人, カバルド人)・アブハズ人アバザ人ウビフ人等の間で行われた戦争。

歴史

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前史

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ナポレオン・ボナパルトロシア遠征の結果、ティルジット条約が破棄された。ロシア帝国はイギリスと急速に接近することになり、イギリスの仲介によってゴレスターン条約が締結された。ロシア帝国は、19世紀初頭にグルジアアゼルバイジャンガージャール朝ペルシアから併合した。しかし、これらの土地がダゲスタン等の地によって分断されていたことから、ロシア帝国は、この分断を解消するためにコーカサス全土の征服を目指して開戦した。

侵攻

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1816年、特別グルジア軍司令官エルモーロフ英語版アレクサンドル1世の承認を得て平定作戦を開始[3]1817年、コーカサス戦争勃発。 1817年から1821年にかけて、ロシア軍によるプレグラド陣地・グロズヌイ・ヴニェザープナヤ・ブールナヤ要塞の建設を開始。 1822年から1826年にかけ、チェルケス人のザクバニエ族(: закубанских горцев, : zakubanski highlanders)に対するロシア軍の懲罰作戦、ベイ=ブラート蜂起の鎮圧を行った。 1825年アレクサンドル1世死去、同年12月14日に起きたデカブリストの乱によりロシアの第一次遠征(1817年1825年)は終了した。この戦争が42年間という長きに及んだ主な原因は、デカブリストの乱で中断された事にあり、その結果としてガージャール朝ペルシアロシア・ペルシア戦争トルコマーンチャーイ条約)、オスマン帝国露土戦争)がイスラム勢力を支援する介入戦争を開始した。

1826年ロシア・ペルシア戦争勃発。 1827年パスケヴィッチ英語版将軍がコーカサス総司令官に任命された。 1828年露土戦争勃発。 1830年ガジ=マホメド英語版がダゲスタンの初代イマームを宣言し、ジハードを布告。さらに同年、イスラム神秘主義ナクシュバンディー教団イマーム国英語版を建国して軍事・政治制度を整備して強大なロシア帝国に対抗する余裕を与え、ハジ・ムラート英語版のような有能な軍事指導者が活躍する余地を与えることになった。

1831年、ガジ=マホメド軍、タルキ、キズリャル、ブールナヤ、ヴニェザープナヤ、デルベントを奪取。後にロシア軍の反撃が始まり、ダゲスタン山岳部に退却した。ポーランドの11月蜂起で中断され、パスケヴィッチ将軍がポーランドへ転戦。

1832年en:Battle of Gimryの戦闘でガジ=マホメドが死亡。ガムザト=ベク英語版、第2代イマームを宣言。 1833年、ロシアの第二次遠征(1825年1833年)終了。 1834年、ガムザト=ベク、アヴァール・ハン国の首都フンザフ英語版に侵攻。ガムザト=ベクがロシアへの抵抗を拒否したOmar, Pakkou-Bekkheの家族を処刑。その報復でハジ・ムラート英語版らがガムザト=ベクを暗殺した。シャミール、第3代イマームを宣言。 1835年アレクサンドル・バリャチンスキー将軍、コーカサス総司令官に任命。 1837年イマーム国英語版アヴァール・ハン国を併合し、シャミールがダゲスタン(アヴァール・ハン国)のハンを名乗り、ハジ・ムラートを追放。 1839年en:Siege of Akhoulgo1840年en:Battle of the Valerik Riverセミョーン・アタルシチコフロシア語版クバン・コサック部隊ロシア語版1860年クバーニ・コサック軍)に配属される。 1842年en:Battle of Dargo (1842)1843年、それまでロシアに中立の姿勢だったシャミールが、突如アヴァール・ハン国内のロシア軍に対し掃討戦を実施。 1844年ミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフコーカサス総督府英語版1844年-1853年)に任命 1845年アレクサンドル・バリャチンスキー将軍、コーカサス総司令官(1844年-1856年)に任命。en:Battle of Dargo (1845)1851年、シャミールがハジ・ムラートの暗殺を謀ったが、発覚して、ハジ・ムラートはロシア帝国に逃亡。ハジ・ムラートの家族は処刑された。1851年ハジ・ムラート英語版シャミールが不仲になると、ロシア帝国のアヴァール・ハン国への離間工作活動が成功し、イスラム勢力は分裂して弱体化した。

1852年4月24日5月5日)にハジ・ムラートがアゼルバイジャンから逃亡を試みたが、失敗して殺害された。ハジ・ムラートの首は皇帝ニコライ1世のもとに送られた。 1853年クリミア戦争が激化し、ロシア帝国はシャミールに停戦を申し出た。黒海衆はクリミアへ配置転換。クリミア戦争等でたびたび中断され、戦争は長期化した。

1855年、戦闘が再開。1856年、黒海衆・防衛線衆がコーカサス戦争に参加。 1857年A.バリャチンスキー将軍、コーカサス総督(1857年-1862年)に任命。 1859年、シャミール、グニブ山英語版で敗北し(en:Battle of Ghunib)、イワン・ラザレフ英語版による説得に応じてロシア軍に投降する。 1860年、黒海衆と防衛線衆を統合したクバーニ・コサック軍が結成される。 1864年、ロシアによるコーカサスの征服が完了した

影響

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オスマン帝国へのチェルケス人の追放

戦争は、1859年に北コーカサスの東部でシャミールがロシア帝国に投降したとき、又は1864年にロシア帝国がコーカサスの征服を完了したときをもって終結とされる。1859年のシャミール投降後、西部ではなおもコーカサスの先住民チェルケス人が抵抗運動を続け、チェルケス人虐殺が行われた。さらに戦後、西部のムスリム住民を中心にオスマン帝国への人口移動が行われた[4]

1890年頃にはチェチェングロズヌイを中心とする石油化学産業が発展し、ウラジカフカス鉄道ロシア語版: Владикавказская железная дорога: Vladikavkaz Railway)沿線のコサックの町が急速に近代化した。

コーカサス戦争を題材にした作品

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小説

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映画

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脚注

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出典

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  • Michael Khodarkovsky (2014). Bitter Choices: Loyalty and Betrayal in the Russian Conquest of the North Caucasus. Cornell University Press. ISBN 080-1479525 

参考文献

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関連項目

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