サイゴン陥落

サイゴン陥落


上:サイゴンに進軍した北ベトナム軍の進路
下:陥落直前にサイゴンを脱出し、空母ミッドウェイに到着した南ベトナム市民
戦争ベトナム戦争
年月日1975年4月30日
場所南ベトナムサイゴン
結果ベトナム民主共和国及び南ベトナム解放民族戦線の勝利。
交戦勢力
ベトナム民主共和国の旗 ベトナム民主共和国
南ベトナムの旗 南ベトナム解放民族戦線
ベトナム共和国の旗 ベトナム共和国
指導者・指揮官
ベトナム民主共和国の旗 レ・ズアン
ベトナム民主共和国の旗 ヴォー・グエン・ザップ
ベトナム民主共和国の旗 ヴァン・ティエン・ズン
ベトナム民主共和国の旗 レ・ドゥック・アイン
ベトナム民主共和国の旗 グエン・フー・アン英語版
ベトナム民主共和国の旗 レ・チョン・タン
南ベトナムの旗 チャン・ヴァン・チャ
ベトナム共和国の旗 ズオン・バン・ミン 降伏
ベトナム共和国の旗 ヴー・ヴァン・マウ
ベトナム共和国の旗 グエン・フー・ハイン英語版
ベトナム共和国の旗 グエン・フォック・ヴィン・ロック英語版
ベトナム共和国の旗 レ・グエン・ビ 
ベトナム共和国の旗 ラム・ヴァン・ファット英語版
ベトナム共和国の旗 リー・トン・バー英語版
損害
108人戦死 兵士の大半は捕虜もしくは脱走
ベトナム戦争
ベトナム
(越南)
ベトナム社会主義共和国の国章

ベトナムの歴史


主な出来事
仏領インドシナ成立
東遊運動 · 日仏協約
仏印進駐 · 大東亜戦争
マスタードム作戦
ベトナム八月革命
第一次インドシナ戦争
ディエンビエンフーの戦い
ジュネーヴ協定 · 南北分断
トンキン湾事件 · ベトナム戦争
パリ協定 · 西沙諸島の戦い
サイゴン解放
カンボジア・ベトナム戦争
中越戦争 · 中越国境紛争
ドイモイ
スプラトリー諸島海戦


ベトナム共産党
南ベトナム解放民族戦線
共産主義
ホー・チ・ミン思想
中央執行委員会書記長


「国家」
大越
ベトナム民主共和国
ベトナム国
ベトナム共和国
南ベトナム共和国
ベトナム社会主義共和国


人物
ファン・ボイ・チャウ
グエン・タイ・ホック
ホー・チ・ミン
ヴォー・グエン・ザップ
レ・ドゥク・ト
レ・ズアン
グエン・ミン・チエット
グエン・タン・ズン
ノン・ドゥック・マイン
グエン・フー・チョン
トー・ラム


言語
ベトナム語 · チュノム · チュハン
チュ・クオック・グー

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サイゴン陥落(サイゴンかんらく、英語: Fall of Saigon)または1975年4月30日事件ベトナム語Sự kiện 30 tháng 4 năm 1975 / 事件30𣎃4𢆥1975)は、ベトナム戦争の最末期、1975年4月30日北ベトナムによって南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)が接収された出来事である。

「陥落」という表現はアメリカ側や反共志向の強い越僑により使われるもので、ベトナム共産党はこれを「サイゴン解放ベトナム語Sai Gòn Giải Phóng / 柴棍解放)」と呼び、共産主義陣営による南北ベトナム統一が決定的となった出来事としている。また、世界初の分断国家の赤化統一でもある。

概要

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1975年になると、北ベトナムはホー・チ・ミン作戦を発動し、南ベトナムから国民が国外脱出を始めていた。アメリカ合衆国も南ベトナムを見捨てて支援を断った為、北ベトナムの勝利は決定的となった。

北ベトナムの軍隊がサイゴンに到着し、11時30分に南ベトナム大統領官邸(現在の統一会堂)に到着する[1][2]と、北は南の大統領チャン・バン・フォンに対して辞任を要求した。フォンは北側の要求に応じて大統領を辞任し、ズオン・バン・ミンに引き継いだ。これによってミンはベトナム共和国の最後の大統領となった。

アメリカ軍はアメリカ大使館関係者や在越アメリカ人を脱出させるミッション・フリークエント・ウィンド作戦を発動するに当たり、米軍放送から予め告知されていた天気予報のメッセージと共にビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』を陥落前日の29日から頻繁に放送し、在越アメリカ人にサイゴン脱出を呼びかけた[3]

日本ではNHKが午前11時32分に「南ベトナム政府全面降伏を声明」と速報表示[4]。午後7時30分から「サイゴン政権全面降伏」のタイトルで30分間の特別番組[5]ニュースセンター9時で「サイゴン降伏の日」と題したドキュメントを放送した[6]

取り残されたケース

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陥落時点で150人の韓国人が取り残されていた。脱出やボート・ピープルに混じって脱出するケースもあったが一部は取り残された。その多くは1年以内に送還された[7]。しかし韓国人外交官3人は拘禁、さらに韓国に収監されたスパイとの交換を北朝鮮がベトナムに求めた事から拘禁は長期化した。スウェーデンの仲介とWHOを通じた支援の努力により1980年、勾留から5年後に釈放され金浦空港で迎えられた[8]

脚注

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出典

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関連項目

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外部リンク

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