サクラシンゲキ

サクラシンゲキ
欧字表記 Sakura Shingeki[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1977年3月5日[1]
死没 1994年8月20日(18歳没)[2]
ドン[1]
アンジェリカ[1]
母の父 ネヴァービート[1]
生国 日本の旗 日本北海道静内町[1]
生産者 藤原牧場[1]
馬主 (株)さくらコマース[1]
調教師 境勝太郎[1]美浦
競走成績
タイトル 優駿賞スプリンター賞[1](1981年)
生涯成績 26戦9勝[1]
獲得賞金 1億9366万3600円[1]
勝ち鞍
重賞 スプリンターズステークス 1981年
重賞 京王杯オータムハンデキャップ 1980-81年
重賞 函館3歳ステークス 1979年
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サクラシンゲキ(欧字名:Sakura Shingeki1977年3月5日 - 1994年8月20日)は、日本競走馬種牡馬[1]

典型的な逃げ馬で逃げ一辺倒の戦法の個性派として人気を集めた。第1回ジャパンカップでは、一度もハナを譲ったことのないことで評判の逃げ馬、カナダ代表のブライドルパースを上回る逃げを展開。そのレースぶりから「日の丸特攻隊」と評された[2]1981年優駿賞スプリンター賞

兄弟に、1986年天皇賞(秋)を制したサクラユタカオー繁殖牝馬としてサクラスターオーを産んだサクラスマイルがいる。

生涯

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デビューまで

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アンジェリカはネヴァービート産駒で、祖母にスターロッチを持ち、競走馬として21戦2勝の成績を残した[3]。引退後は、生まれ故郷の北海道静内町藤原牧場で繁殖牝馬となった。人の背中を噛みつくほどの荒い気性であった[4]。初年度は、ミンシオが配合され、初仔の牝馬が誕生[注釈 1]。続く2年目には、イタリア生産の輸入種牡馬ドンが配合された。ドンの祖父、アンジェリカの曽祖父は共にナスルーラであり、その配合から産まれる仔には、ナスルーラの血が18.75パーセントを占める「奇跡の血量」であった[4]

1977年3月5日、藤原牧場で2番仔である鹿毛牡馬(後のサクラシンゲキ)が誕生、牧場の種付け台帳には「骨格品位良好」と評された[4]。同じ年に牧場で生産された8頭の中で最も評判が高く、また生産馬ハードバージ皐月賞優勝した直後だったこともあり、「皐月」に母名を組み合わせた「サツキアンジェリカ」という幼名が与えられた。母に似て気性が荒く、2歳時の追い運動では、先頭でいることを好んでいた[4]

全演植がオーナーである株式会社さくらコマースに購買されて「サクラシンゲキ」と命名され、全の主戦である美浦の境勝太郎厩舎に入厩した[4]

競走馬時代

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3歳(1979年)

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8月3日、函館競馬場新馬戦(芝1000メートル)に、境厩舎所属の東信二が騎乗し、3番人気の支持でデビューした。スタートから逃げに出て、後方に4分の3馬身の差をつけて逃げ切り先頭で入線、レコードと同じタイムでの勝利であった[5]。2戦目のすずらん賞でも、逃げに出て7馬身差の勝利。キタノダイオーが12年間保持していたレコードを0.1秒更新して2連勝とした[5]。9月16日、函館3歳ステークスに、1番人気に推されて出走。スタートから単独で逃げていたが、中途で追い上げる1頭と並ぶ場面も見られた。しかし、直線コースで差を広げて再び先頭となり、後方待機の追い込み勢を1馬身封じて、3連勝とした[5]

北海道から美浦トレーニングセンターに帰還したが、9月27日に放馬し転倒。左後ろ肢の球節剥離骨折し、その後出走することなく3歳を終えた[5]

4歳(1980年)

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1月26日、東京競馬場オープン競走で復帰。以降、弥生賞や皐月賞にも挑戦したがいずれも敗れて4連敗。その後5月3日、東京競馬場のオープン競走(芝1600メートル)で復帰後初勝利を挙げた後には、東京優駿(日本ダービー)にも挑戦した[5]。東京優駿ではハナを奪って逃げ、最後の直線半ばまで先頭を保ち続けて4着となった。騎乗した小島太は「日本中の目が逃げたオレの馬に集中したはずだ。よく粘ったよ。」と振り返った[5]

一休みして秋は、9月7日の京王杯オータムハンデキャップで復帰、1番人気で出走した。再び逃げてスローペースを演出すると、後続の追い上げなくそのまま逃げ切り勝利[5]。後方に2馬身半離して、1年振りの重賞勝利を果たした。快勝したことに全は、セントライト記念の結果次第で菊花賞に出走することを決意した[5]。しかし、セントライト記念ではキタノリキオ―にハナを奪われ逃げることができず、5着に敗退、菊花賞参戦は幻になった[5]。その後、オールカマーダービー卿チャレンジトロフィーと連戦するも、勝利には至らず[5]中山競馬場のオープン競走(芝1600メートル)で逃げ切り勝利したのち、有馬記念に参戦。プリテイキャストを上回る逃げを展開したが、オーバーペースとなり10着に敗退した[5]

5-6歳(1981-82年)

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1月25日、ダートのオープン競走3着を叩き台として、2月22日のスプリンターズステークスに出走、単枠指定制度の対象となる中、1番人気に推された。逃げに出て、先頭で直線に入ると、再び加速。後方に6馬身差をつけて先頭で入線して勝利した[5]。騎乗した東は「僕はただつかまっていただけです。今のサクラシンゲキならだれが乗っても勝てますね」と振り返っていた[5]。その後、4月26日の京王杯スプリングハンデキャップでは、残り200メートルでシンボリフレンドにかわされて2着敗退。6月7日の安田記念では、トップハンデを担ったが、タケデンとジュウジアローにかわされ3着敗退。どちらも1番人気に推されたが、2連敗となった[5]

夏休みの後、9月6日の京王杯オータムハンデで復帰。1番人気に推されて変わらず逃げに出て、失速することなく逃げ切りを果たした[6]。外から追い上げたメジロクラウンをアタマ差退けての勝利、2連覇を果たした[6]。10月17日のオープン競走でも逃げ切り勝利を果たすと、第1回ジャパンカップの日本代表に選出された[6]

ジャパンカップ参戦に当たり、騎乗する小島は「たとえ勝てなくても日本の快速馬の面目をかけてハナを切っていく」と逃げ宣言。カナダ代表でこれまで出走したすべてでハナを切るブライドルパースとの逃げ対決となった[6]。スタートから先手を主張するブライドルパースを抑え、単独で飛ばし前半の1000メートルを57.8秒で通過するなど、超ハイペースを刻んだ。最後の直線に入っても先頭であり続け、直線中間でアメリカ代表のメアジードーツ、カナダ代表のフロストキングなどにかわされたものの9着となった[6]ホウヨウボーイモンテプリンスなど日本代表の凡走ぶりに対して、ハイペースで豪快に逃げ外国調教馬相手に食い下がった唯一の日本代表として、サクラシンゲキに称賛が集まり「日の丸特攻隊」と表された[6]。続いて有馬記念に出走し、再び逃げたものの、直線で伸びず9着に敗れた。

スプリンターズステークスを制した成績面に、逃げたジャパンカップという話題性も加えて、年度代表馬選考委員会から優駿賞スプリンター賞が進呈された[6]

6歳も現役を続行し、連覇を狙ってスプリンターズステークスで始動。単枠指定の1番人気に支持され、逃げに出たが桜花賞優勝馬ブロケードにかわされ2着敗退[6]。マイラーズカップでも単枠指定の1番人気の支持だったが、カズシゲにクビ差かわされ再び2着に敗退。続く宝塚記念でも8着となった[6]

夏休みの後、調整を続けて秋シーズンを戦うはずだったが、静内町の牧場がサクラシンゲキの種牡馬シンジケートを結成したため、10月初旬に引退を発表。10月31日、天皇賞(秋)当日の東京競馬場、昼休みに引退式が行われた[7]。1980年の京王杯オータムハンデキャップ優勝時のゼッケン「10」を着用し、小島太が騎乗して直線コース600メートルを駆け、中でも最後の200メートルは10.8秒で走った[7]

種牡馬時代

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競走馬引退後は、北海道静内町のアロースタッドで種牡馬となった[7]。サクラシンゲキ会というシンジケートは、50株総額1億5000万円で結成された[7]。かつて藤原牧場でサクラシンゲキの育成を担当した本間一幸が、アロースタッドに戻っても担当した[7]

1994年8月17日、食欲がなくなったことから検査を受けたところ、腸の動きが悪いことが判明[2]。体調改善に取り組んだが、8月20日盲腸の破裂により死亡[2]。9月2日に火葬納骨された[2]。北海道新ひだか町の桜舞馬公園(オーマイホースパーク)にはサクラシンゲキの祈念碑が建てられている[8]

競走成績

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以下の内容は、netkeiba.com[9]、JBISサーチ[10]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬)
1979.08.03 函館 3歳新馬 芝1000m(良) 8 5 5 005.30(3人) 01着 00-58.2 0東信二 52 (ホースメンボールド)
0000.08.24 函館 すずらん賞 芝1200m(良) 10 7 7 003.20(2人) 01着 R1:10.8 0東信二 52 (リンドタイヨー)
0000.09.16 函館 函館3歳S 芝1200m(良) 8 6 6 001.30(1人) 01着 01:11.8 0東信二 52 (リンドタイヨー)
1980.01.26 東京 4歳オープン 芝1600m(良) 6 3 3 001.80(1人) 03着 01:39.3 0東信二 56 コンパニオン
0000.02.10 東京 東京4歳S 芝1800m(良) 9 7 7 008.20(3人) 04着 01:51.5 0東信二 56 リンドタイヨー
0000.03.02 中山 弥生賞 芝1800m(重) 10 6 6 007.00(2人) 06着 01:54.0 0東信二 55 トウショウゴッド
0000.04.13 中山 皐月賞 芝2000m(不) 16 8 15 028.2(11人) 10着 02:14.5 0小島太 57 ハワイアンイメージ
0000.05.03 東京 4歳オープン 芝1600m(稍) 5 1 1 005.20(2人) 01着 01:36.3 0小島太 56 (サーペンプリンス)
0000.05.25 東京 東京優駿 芝2400m(良) 28 2 6 020.00(7人) 04着 02:28.7 0小島太 57 オペックホース
0000.09.07 中山 京王杯AH 芝1800m(良) 11 8 10 003.20(1人) 01着 01:47.6 0小島太 54 (ホクトダンデイ)
0000.09.28 中山 セントライト記念 芝2200m(稍) 11 4 4 005.90(3人) 05着 02:17.4 0小島太 56 モンテプリンス
0000.10.12 東京 オールカマー 芝2000m(良) 12 8 11 006.90(4人) 05着 02:01.1 0小島太 56 ブルーマックス
0000.11.16 東京 ダービー卿CT 芝1800m(良) 11 5 5 004.70(2人) 02着 01:48.5 0小島太 54 ニチドウアラシ
0000.12.06 中山 4歳上オープン 芝1600m(良) 6 2 2 002.00(1人) 01着 01:34.9 0小島太 55 (ニットウフレッシュ)
0000.12.21 中山 有馬記念 芝2500m(良) 12 8 11 025.30(9人) 10着 02:36.3 0東信二 55 ホウヨウボーイ
1981.01.25 東京 5歳上オープン ダ1600m(良) 10 3 3 003.80(1人) 03着 01:38.3 0小島太 57 キタノリキオー
0000.02.22 中山 スプリンターズS 芝1200m(稍) 10 4 4 001.80(1人) 01着 01:09.5 0東信二 56 (コンパニオン)
0000.04.26 東京 京王杯SH 芝1400m(稍) 9 4 4 002.00(1人) 02着 01:23.5 0小島太 59 シンボリフレンド
0000.06.07 東京 安田記念 芝1600m(良) 13 7 11 002.70(1人) 03着 01:37.2 0小島太 59 タケデン
0000.09.06 中山 京王杯AH 芝1800m(良) 8 3 3 002.60(1人) 01着 01:48.4 0小島太 59 (メジロクラウン)
0000.10.17 東京 4歳上オープン 芝1400m(良) 10 2 2 002.30(1人) 01着 01:21.6[11] 0三浦繁美 56 (コンパニオン)
0000.11.22 東京 ジャパンC 芝2400m(良) 15 5 8 029.7(12人) 09着 02:26.9 0小島太 57 メアジードーツ
0000.12.20 中山 有馬記念 芝2500m(良) 16 3 6 035.20(9人) 14着 02:38.8 0小島太 57 アンバーシャダイ
1982.02.28 中山 スプリンターズS 芝1200m(良) 9 6 6 002.60(1人) 02着 01:09.3 0小島太 59 ブロケード
0000.03.14 阪神 マイラーズC 芝1600m(稍) 14 6 10 002.00(1人) 02着 01:34.7 0東信二 58 カズシゲ
0000.06.06 阪神 宝塚記念 芝2200m(良) 15 6 11 023.90(6人) 08着 02:13.6 0小島太 57 モンテプリンス
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

種牡馬成績

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主な産駒

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ブルードメアサイアーとしての産駒

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血統表

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サクラシンゲキ血統グレイソヴリン系 / Nasrullah3×4=18.75%) (血統表の出典)

*ドン
Don
1966 芦毛
父の父
Grey Sovereign
1948 芦毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Blue Gem Baytown
Clang
父の母
Diviana
1957 黒鹿毛
Toulouse Lautrec Dante
Tokamura
Desublea Niccolo Dell'Arca
Durera

アンジェリカ
1970 黒鹿毛
*ネヴァービート
Never Beat
1960 栃栗毛
Never Say Die Nasrullah
Singing Grass
Bride Elect Big Game
Netherton Maid
母の母
スターハイネス
1964 鹿毛
*ユアハイネス
Your Highness
Chamossaire
Lady Grand
スターロツチ *ハロウェー
コロナ F-No.11-c


脚注

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注釈

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  1. ^ 後のマヤノポート(5戦0勝)

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p "サクラシンゲキ". JBISサーチ. 2021年6月21日閲覧
  2. ^ a b c d e 『優駿』1994年10月号 73頁
  3. ^ "アンジエリカ". JBISサーチ. 2021年6月21日閲覧
  4. ^ a b c d e 『優駿』1989年7月号 39頁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『優駿』1989年7月号 40頁
  6. ^ a b c d e f g h i 『優駿』1989年7月号 41頁
  7. ^ a b c d e 『優駿』1989年7月号 42頁
  8. ^ "北海道新聞 観光地情報「サクラシンゲキ号祈念塔」". 北海道新聞. 2007年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月22日閲覧
  9. ^ "サクラシンゲキの競走成績". netkeiba.com. 2021年6月21日閲覧
  10. ^ "競走成績:年度別累計成績/主な成績|サクラシンゲキ". JBISサーチ. 2021年6月21日閲覧
  11. ^ 1981年有馬記念の競馬エイトの馬柱で確認。
  12. ^ "ヒデリュウオー". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  13. ^ "アドバンスモア". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  14. ^ "ニシヤマショウ". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  15. ^ "ハヤブサモン". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  16. ^ "トーワルビー". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  17. ^ "ヤマタケサリー". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  18. ^ "コクサイシンゲキ". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  19. ^ "ユーワビーム". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  20. ^ "ヒロパルダ". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  21. ^ "サイキョウボーイ". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  22. ^ "パッシングマーク". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  23. ^ "ヤマノセイコー". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  24. ^ "フレアリングルーラ". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  25. ^ "サカモトデュラブ". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  26. ^ "ゴーテンジョウ". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  27. ^ "サカモトサクラ". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  28. ^ "イチコウキャプテン". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧
  29. ^ "ブルーロビンソン". JBISサーチ. 2021年7月25日閲覧

参考文献

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  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1989年7月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 41】潔い進撃者 サクラシンゲキ」
    • 1994年10月号
      • 「【今月のトピックス】"日の丸特攻隊"の愛称は永遠に ―サクラシンゲキ、急死」

外部リンク

[編集]