ダンプ松本

ダンプ松本
Dump Matsumoto
ダンプ松本 Dump Matsumotoの画像
プロフィール
リングネーム ダンプ松本
本名 松本 香
ニックネーム 極悪女王
アウさん
身長 164cm
体重 100kg
誕生日 (1960-11-11) 1960年11月11日(63歳)
出身地 埼玉県熊谷市
所属 えりオフィス
デビュー 1980年8月8日
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ダンプ 松本(ダンプ まつもと、1960年11月11日 - )は、日本の女子プロレスラータレント女優。本名・松本 香(まつもと かおる)。身長164cm、体重100kg、血液型B型。埼玉県熊谷市出身。えりオフィス所属。「D・松本」と表記されることもある。

人物

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中学時代は、バスケ部、水泳部に所属していた[1]。デビュー前はマッハ文朱の大ファンだった[2]。私立大宮開成高校へ入学。高校一年と二年度には補欠ではあるがアーチェリーでインターハイへ出場した[3]。同校卒。

幼いころから父親の金銭問題・DV・女性問題などで苦労していた最愛の母のために家を買って建ててあげたいという思いで、ビューティーペアに憧れて女子プロレスラーになることを志す[4]

1980年全日本女子プロレスで本名の松本香でプロデビュー[5]1984年の年明けにリングネームをダンプ松本と変更すると、クレーン・ユウと共にヒール軍団『極悪同盟』を結成[6]。のちに加わり一番弟子となるブル中野らとヒールのタッグチームを組み、人気沸騰中だった正規軍「クラッシュギャルズ」(ライオネス飛鳥長与千種が当時結成していたコンビ名)との抗争を繰り広げ、女子プロレスを大いに盛り上げた。長与千種とは2度にわたり、敗者髪切りデスマッチを行った。フジテレビ系列で放送されていた『全日本女子プロレス中継』ではヒールにもかかわらず人気を博し、リングネームの「ダンプ」は、本名時代のファイトを観ていた観客が「あいつ、ダンプみてえだ!!」と口走ったことに由来している。全日本女子プロレスの松永高司会長は、このエピソードを引き合いに出して「スターはお客さんがつくってくれるんですよ」と語ったことがある[7]。ダンプは松永会長からは生前大変に可愛がってもらったとインタビューなどで度々語っている。

得意技はラリアット。そのパワーを利して喉元にぶち当てる一撃は強烈で、相手が空中で一回転したこともあった。

悪役レスラーとしての全盛期は、女子プロレスファンの年齢層が低めで、いわゆるマークアングルを本気で信じる若年層)が多かった。そのため、ダンプのアンチが実家に押しかけ、「ダンプ出て来い!」と玄関を叩きながら大声で叫ぶ、玄関先にダンプを中傷する張り紙を貼る、窓ガラスを割られる、といった嫌がらせを何度も受けた。他にも当時ダンプが購入したばかりの真っ赤な新車のフェアレディZを納車直後に傷つけられる、私物の自転車や原付バイクを破壊されたり、当時の自宅マンションの空き巣被害や街中で罵声を浴びせられる、飲食店や服屋、デパートなどでの入店拒否など、ヒールとしての嫌われぶりは相当で、付いた異名が「日本で一番殺したい人間」であった[8][9]。1985年8月に大阪城ホールで行われた長与との敗者髪切りデスマッチでは、試合終了後に暴動状態となり、500~600人のファンが極悪同盟の選手バスを取り囲んで揺らすという事態まで発展した。ダンプは当時の事を「警備員にまで殴られる始末だった。あの時は本当に殺されるかと思った」と述べている他[9]、2023年に中野のYouTubeチャンネルに出演した際にもダンプは敗者髪切りデスマッチに関して「クラッシュギャルズにおける意思統一がなされていなかった」と指摘した上で、「飛鳥に聞いたところ、長与との敗者髪切りデスマッチは勝手に会社に決められた」「セコンドについている飛鳥の顔を見ると、憎たらしいって顔してて。千種のことを可哀そうというよりも、私がやりたかった顔だった」「長与の髪を切る際は、最後まで坊主にしていない」「今思えば、余計に腹が立つ」と述べている[10]

また、『夕やけニャンニャン』の片岡鶴太郎への襲撃(片岡へのドッキリ)、『毎度おさわがせします』に出演する格闘技素人の中学生男子(という劇中設定)らに技をかけたり殴る蹴るといった「女チンピラ」のような役どころの影響で、女子プロレスを知らない層にも「ダンプ=公私関係なく乱暴者」というイメージがさらに独り歩きした。母親に怖い思いをさせたことで一時は悪役レスラーを続けるか悩んだが、当時はまだ薄給だったため、つらい中でも必死で頑張ったという。努力の甲斐あって、徐々にギャラも上がっていくとデビューから5年後には、深谷市に念願だった新築一軒家を購入して母親にプレゼントしている。2019年8月7日にはダンプが幼少時から確執があった父親が逝去した。殺意まで抱く相手であり、50年の間、口を利かなかった父親だが、晩年の入院中に意識が朦朧とした中で「この人は誰だかわかる?」と看護師に問われ「ダンプ松本」と答えたことから、テレビで自身を応援していたことを悟り、和解に至った。これが父との最後の会話となった[11]。正確には、その4か月前に父が肺炎で入院していた際に、医師から「持ってあと1週間です」と言われた瞬間、憎しみが消えたという。退院後、認知症の症状が見られた父を介護施設に入所させたが、憎んでいた頃とは全く別人となっていた父と初めて二人きりで写真を撮るなど、父に対する態度は既に軟化していた[12]

母親は、リング上での凶行が演技だと知っていても、暴力的な振る舞いに抵抗を感じており、試合会場へ観戦に赴く際は、怪我をさせた対戦相手の元へ毎回謝罪に訪れていた。そうした行動を執る母親へ「試合中の怪我の事で親が出てくるのは恥ずかしいから謝りに行かなくてもいいからね」とダンプはよく話していたという[13][14]。ヒールで世間から嫌われていた為に、母親や妹からは逆にダンプがプレゼントした実家へ1988年の全女引退時までは帰って来ないでとも言われていたという。未成年時の妹はダンプと姉妹という事が周辺に知られると誹謗中傷されたり当時交際していた恋人に別れを告げられるなど投げやりになり不良少女になってしまったとインタビューで語っている。

当初、リング上でダンプが頻繁に用いる凶器は金属チェーンだった。しかし、凶器を振り回す際、誤って自らを攻撃し激しい痛みがあったことや、場外乱闘中のアクシデントで「全日本女子プロレス中継(フジテレビ )」 常連ゲストの松岡きっこが指を負傷するといった経験から、現在まで愛用している竹刀へ変更した。ほかにもフォークハサミ一斗缶なども試合中には多用した。中継試合ではゲスト出演するタレントを威嚇して無礼な態度をとることが定番だった。しかし、ゲストのガッツ石松はダンプの行為に対して本気で怒り、殴りかかる勢いで抗ったため内心は恐怖で逃げ出したかったが、テレビカメラの前だったため平静を装ったという。また、試合前の入場時や試合後に控え室へ戻る際、テレビカメラマンに対する竹刀での攻撃も定番であった(当時、極悪同盟に肩入れしていたレフェリーの阿部四郎も、ダンプに便乗する形で蹴りを見舞ったり物をぶつけるなどカメラマンを攻撃することがあった)。

凶器を多用した試合内容ではあるが、危険度の高い技の使用は控えている。流血した際は麻酔なしで縫合させられ、ダンプ自身が抜糸を行っていた[15]。食事を共にするなどプライベートでも親交のあったプラム麻里子が試合中の事故で亡くなった際、マスコミに対し「最近危険な技が増えてきていて、いつも危ないと思うことがある。いくら体は鍛えられても頭だけは鍛えることができない」と涙ながらにコメントした。

試合中の奇抜なメイクは、ヒールレスラーでありながら笑うとえくぼが出てしまう可愛らしい童顔を隠すために行っていた。デザインはハードロックバンドKISS」のコープス・ペイントを参考にしている。コスチューム代は自己負担だった[15]

ピーク時の1試合当たりのギャラは3万5千円。タイトル戦に勝利すると100~200万円を手にし、平均月収は100万〜300万円であった。ヒールキャラがポピュラーとなり芸能活動を開始しバラエティ番組への出演が多くなると、月収500万円の時もあったという[15]。全盛期には本業のプロレスと芸能活動のギャラを合わせ年収5000〜6000万円ほどが4年間続いた。しかし、母親のために家を購入後は、普段から極悪メンバーなどの後輩と出掛けた際には毎回全ての飲食代を全額支払い、大好きだったパチンコに散財し全女を辞めるまでに殆ど使い切ってしまったと語っている。現在も親交のある後輩の工藤めぐみは「当時のギャラは現金支給で、支払日に一緒に受け取りに行ったときにダンプさんの給料袋の札束が立つほどに厚くて驚いた」と証言している。

リング上ではヒールに徹するが、リングを降りれば涙もろく人情に篤い性格である。後輩たちの悩みや相談などに対し親身にアドバイスし、引率して飲食に連れて行くなど、親分肌でとても面倒見がよく現在も多数のベビーフェイスの後輩をはじめ極悪メンバー以外からも慕われている。また、レスラー以外にも広く人望があり、多くの芸能人など幅広い交友がある。

ダンプの人柄を表す印象的なエピソードがある。1987年の春、ブル中野や小松美加コンドル斉藤北斗晶が、年長の先輩から理不尽ないじめや厳しい指導に対する不満を抑えきれず、青森県八戸市の地方興行中に集団で脱走し、翌日全女の寮へ戻った。そして、先輩たちに気付かれぬよう身を潜めていたところダンプに発見されてしまう。叱責を覚悟し言葉を失っていたところ、ダンプは「おかえり。心配しなくても大丈夫だからね」と優しく声をかけ、皆で思わず抱き合い泣いてしまったという逸話がある。ダンプ自身も、デビュー前や新人の頃、先輩や同期、フロントなどから受けた理不尽ないじめ・しごきに耐えていたと明かしている。後輩には自分が受けた理不尽ないじめ・しごきなどを絶対行わなかったという。極悪同盟としては、悪口・陰口、内緒話、告げ口、人を待たせること、これらの禁止を掲げた[12]

極悪同盟結成以前の全女では、備品や設備の破損を防止する観点から凶器の使用は一切禁止されていたが、結成以降は何を壊しても弁償は求めないから凶器を使ってくれと会社側から要請があった。しかし、不機嫌な際は凶器を用いるパフォーマンスをまったく行わなかった。凶器を使用しなかった意図は、相手レスラーの好感度上昇を阻む目的があった[12]

ダンプは、同じくヒール軍団の一員であった新人時代のアジャ・コングにはあまり目を掛けていなかった(アジャがプロレスデビュー前から熱狂的な長与千種ファンであったことは周知の事実で、アジャ本人はベビーフェイス志望だった)。ヒール役に対してモチベーションの低いアジャは、ダンプのセコンドだった新人時代、試合中凶器を手渡す際にミスをし、殴られたこともあった。2011年には「自分の中ではダンプさんとは合わなかった」とアジャはインタビューで語っている[16]。ブル中野はアジャとの対談にて、アジャとの距離を縮めたいがためダンプから故意にからかわれたり弄られていたと証言している。その際アジャは、希望したベビーフェイスではなくヒールレスラーとして極悪同盟への加入が決まり、渋々取り組んでいたことが普段の態度からも完全に滲み出ていたことに理由があるとして、「自分から嫌われる原因を作ってしまっていたから」と述懐している[要出典]。古参となった2016年のインタビューでアジャは「当時の自分は考えがまだ子供でダンプさんも極悪同盟も悪役だったから大嫌いで、グループ内で露骨に嫌な態度を取り続けていて他の仲間からは嫌われていた。それでもダンプさんは、そんな態度を取っていた自分を気遣っていつも歩み寄ろうとしてくれていたし、陰ながら見守っていてくれていた。1988年にダンプさんが引退した後、その事に気付いてからはとても偉大な人物だと自覚した」と、ダンプを敬愛するコメントを出している。しかし、新人時代に極悪同盟を辞めたいというストレスから、禁止されている飲酒をし酔った勢いで先輩達の制止を振り切りダンプに向かって「鬼は外!」と言い放ちかっぱえびせんを投げつけた事があった。翌日ダンプに殺されると思ったが、ダンプは寛容な態度で一切お咎めが無かった。その出来事から15年後の深夜に泥酔したダンプから電話があり、「アジャちゃんはダンプちゃんの事を嫌いだから、かっぱえびせんを『鬼は外』って投げたんだよね〜?」と当時のエピソードをしっかり記憶しており通話中には冷や汗をかいたとインタビューで語っている。

抗争を繰り広げたクラッシュギャルズの2人はダンプと同期である。長与とはデビュー当時は落ちこぼれコンビでもあった。飛鳥とは全女の寮で新人時代からルームメイトだったため、デビュー前から現在に至るまで公私共に親交が深い仲。しかし、抗争当時の全女ではベビーフェイスとヒールレスラーが公の場での会話や懇意にすることは厳禁だった。そのため、クラッシュギャルズファンに二人との仲を悟られぬよう、プライベートでも徹底してヒールを演じ、引退までクラッシュの2人とは口を利かなかった。また、会社の上役から身に覚えのない互いの悪口を焚きつけられ、一時は長与や飛鳥と険悪な雰囲気になっていたこともインタビューで明かしている[17]。この件は、後年ダンプとクラッシュの2人が話し合った際、会社に仕組まれていたことが判明し誤解が解けたという。また、全女時代は自身のファンに対してもヒールを演じ切り、ファンは要らないと当時のインタビューなどで語っていた。本心はファンに応援されることがとても嬉しかったが、サインや握手を求められても一切応じず、断る際も「暇じゃねぇんだよ!」など、あえて辛辣な言葉を浴びせたという。極悪内ではクレーン・ユウも本来は優しい人柄で、ファンに声を掛けられると手を振るなどの対応をしてしまうため、「ヒールなんだからそういうのはダメ」とダンプは注意していたという。だが、最初の引退間近の1988年頃から、試合では相変わらずヒールに徹したダーティファイトをしながらも[18]地方興行先では公の場でもベビーフェイス選手と親しげに会話したり、サインや握手、写真撮影などのファンサービスにも応じるようになっていった。

現在は極悪支部というファングループも全国各地に点在し、当時とは異なり「ファンサービスも喜んで応じます」とインタビューで語っている。理想のタイプは俳優の中村雅俊。中村の大ファンであることを現役当時から公言している。

1980年代には、生きたニワトリハサミで斬首するパフォーマンスを画策したが、生きたニワトリが手に入らなかったため頓挫してしまった[19]

ダンプ松本の半生を描いたドラマ『極悪女王』が、Netflixにて2024年9月19日から配信[20]

所属

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経歴

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素顔のダンプ松本

1980年 - 前年の全日本女子プロレス新人オーディションに合格するも、プロテストにパスできず、一時は全女の営業車の運転手をしていた[21]。過酷なトレーニングを数多く経験している。先輩の指示で道場に飾られたの甲羅を背負い這いずり回ったり[22]、地方巡業中に移動バスの座席へ座ることも許されず長時間立ち通しだった。おもちゃのお金を渡され買い出しへ行くよう強制されたり、ドライブインでの休憩中、故意に置き去りにされ走ってバスを追いかけるなど、幾つもの壮絶なしごきを受けたこともあったという[15]。その後、8月8日田園コロシアム大会の新国純子戦でプロデビューを飾った。当初はベビーフェイスでのデビューが決まっていたが、元々体格が良く「太っていたからベビーフェイスよりも自分にはヒールが似合っているし、実力で上を目指してベビーフェイスのファンからとことん嫌われるようなヒールのトップになりたい」と、デビュー前から思案していた。その意向を会社に伝えすぐさまヒール軍団へ入った。女子プロファンだった頃のダンプは、ビューティ・ペアジャッキー佐藤の追っかけをするほど熱狂的に崇拝していた。闘病中のジャッキーを頻繁に訪問し、ジャッキー佐藤逝去後は「ダンプは泣き虫で、すぐに大泣きしてうるさいから私の見舞いに来るな!!とよく冗談ながらにジャッキーさんに言われました」と涙ながらにインタビューに応じる姿がワイドショー番組などで放映された。

1983年 - デビル雅美率いるヒール軍「ブラック・デビル」の一員(他のメンバーはデビル雅美、タランチェラマスクド・ユウ山崎五紀など)となった[23]。当時のファイトスタイルは、ニコニコとした顔と丸い体型に合うヒールでありながらコミカルなもので、数年間は全く芽の出ない前座・やられ役の地位に甘んじていたが、1月、地元の熊谷市民体育館にてライオネス飛鳥の持つ全日本選手権に挑戦。飛鳥の負傷箇所である膝を執拗に痛めつけTKO勝ちを収めベルトを強奪する。その後、立野記代、山崎五紀を相手に2度の王座防衛に成功。6月、大宮スケートセンター大会でリターン・マッチに臨んだライオネス飛鳥にベルトを奪い返される。年末のフジテレビ杯争奪タッグトーナメントでは、新人の小倉由美とタッグで出場するも1回戦で敗退。

1984年 - タランチェラの引退、デビル雅美・山崎五紀のヒールからの離脱を機にデビル軍団と袂を分かち、マスクド・ユウ(のちのクレーン・ユウ)と極悪同盟を結成。その直前に本名の松本香から、ダンプ松本へと改名。上役などに伺いを立てず髪を金色に染め上げ試合会場へ登場し、その直後から顔面に派手なペイントを施すスタイルを確立。前年から人気・実力が急上昇していたクラッシュギャルズの対抗馬として名乗りを上げる。レフェリーの阿部四郎と結託し、反則攻撃の「黙認」やクラッシュギャルズに対する超高速フォールカウントなど、贔屓レフェリングのもとに凶器攻撃を多用する徹底的なヒールファイトを展開し、クラッシュファンの少女たちから、憎悪を一身に浴びる存在に。両チームのシンプルな戦いの構図が熱狂を呼び、女子プロレスは全国的なブームへと発展していく。極悪同盟のメンバーは、ブル中野コンドル斉藤ドリル仲前影かほるなど。この時期と前後して、先輩レスラーたちのいじめは嫉妬に変わっていき、会社の上役にダンプへの不満を訴えたが、松永会長は「俺はダンプを取る。不満ならお前たちが辞めろ。」と突っ撥ねてくれたという[12]

1986年 - WWF(現WWE)に短期間の参戦。現地でもブル中野とタッグを組み3月8日にボストンのボストン・ガーデンベルベット・マッキンタイヤー&ドーン・マリー組と、同月16日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでマッキンタイヤー&リンダ・ゴンザレス組と対戦している。ビクターエンタテインメントからミニアルバム『極悪』を発表して歌手デビューし、芸能人水泳大会にライバルの長与千種と出演したり、月刊明星では読者のお悩み相談コーナーもレギュラー担当するなど、本業のプロレスと並行して芸能活動も数多くこなした。

1988年 - 1月4日の後楽園ホール試合後に、全女には秘匿しマスコミを集め電撃引退を発表した[12]。前年の夏頃から待遇等の改善が全くされずなど全女に嫌気が差して引退を希望していたが、全女の売上減少を恐れた上役側の引き止めが強く強行出来なかったと語っている。引退には親友の大森ゆかりも賛同して2月22日に大田区体育館で「ダンプ大森引退特別試合」を開催。当初は大森と組み、クラッシュギャルズを相手に対戦したが、4人全員が場外で流血した上、ダンプが味方の大森に凶器攻撃を見舞うなど収拾が付かずノーコンテスト。しかし、ダンプのマイクアピールに他の3人が呼応し、パートナーを交換、ダンプ&長与組と大森&飛鳥組による5分間のエキシビションマッチが組まれた。そして2月28日、地元である熊谷市体育館でダンプの両親、妹に見守られながら一番弟子のブル、コンドルをダンプ自ら最後の対戦相手に指名。変則ラストマッチを行いプロレスを引退した。引退試合の後、「クラッシュギャルズのファンの皆さん、今までチーちゃん(長与)やトンちゃん(飛鳥)のことをいじめてすいませんでした」と号泣しつつ謝罪する最後のマイクパフォーマンスを行った[24]。引退後は、ダンプの元気で明るくユニークなキャラクターを生かして本格的にタレント、女優として芸能活動を始めた。大森ゆかりと、桃色豚隊(ピンクトントン)というユニットを組み、シングルCD「赤いウィンナー逃げた」を発売。後年のインタビューで「私はその当時、他の選手のような会社から露骨な肩たたきなどはまだされていなかったけど、私が全盛期のうちに引退すれば今後の興行収入などの売上げがガクンと落ちると思い、プロレスは好きだから辞めたくはなかったけど全女を困らせてやりたかったんで引退を決意した。」と引退理由を語っている。ダンプとクラッシュギャルズ全盛期の全日本女子プロレスは年間数十億円もの売上げがあった。会社は相当な利益を得ていたにもかかわらず、経営者である松永一族の浪費、加えて一族の拝金主義のおかげで、ダンプを含む所属選手たちのギャランティーや設備、待遇改善に全く還元されないなど、松永会長以外の上役たちにもかなり不満があったとインタビューでも度々語っている[12]。ダンプの思惑通り、引退後は観客動員数が激減したとブル中野やアジャ・コングら後輩選手が語っている。引退から芸能界への転身にあたり、会社の営業から「お前なんか芸能界で成功するわけがない。3か月も持たない」と罵倒された。ダンプは「3年後に芸能界でまだ生きてたら、道場の前でビールかけをやってやるからよ」と啖呵を切って引退した。数年後、罵倒された営業から全女のイベントを盛り上げるための仕事依頼があった。その掌返しに激怒したダンプは、「3か月持たないって言ったよね、あんた言ったよね!?」と詰問し、「申し訳ありませんでした。」と謝罪を受けたという。なお、ビールかけは芸能界転身から3年後にテレビの企画で実現した[12]

1998年 - 全日本女子OG興行(「メモリアル・オールスター戦〜あの時、君は強かった!!」1998年8月14日、川崎市体育館)におけるエキシビションマッチで、一日限りの限定復帰。共に発起人として参加した大森ゆかりやジャンボ堀とは、全女時代からの親友で現在も親交がある。同年、芸能事務所のマネージャーが借金を抱えたまま蒸発する[12]

2003年 - 本物のヒールを復活させるため、新日本プロレスの「魔界倶楽部」に共鳴し「極悪倶楽部」を結成。吉本女子プロレスJd'マネージャーとして現場復帰。横浜アリーナにおける全日本女子35周年記念興行での限定復帰の直後に、低迷した女子プロレス人気を自身が復帰することで少しでも再燃できればと考えた。古巣である全日本女子の松永高司会長にサーキット参戦を直訴し、サソリと「極悪同盟」を再結成して全日本女子のサーキットに参戦。松永高司会長からコーチとしての復帰を打診され、その予定で北海道巡業に帯同したが、現地に着くと巡業の全試合のメインイベンターに自身の名前が載っており、結局松永家に謀られる形で現役復帰したというのが真相である[12]。一時期プロレスに専念するため、芸能活動を休止した。同時期に、交流がある先輩のジャガー横田や、目を掛けていた後輩の北斗晶がタレント活動を開始する。

2004年 - シャーク土屋の呼びかけに応えてGAEA JAPANに登場し、タッグ戦にてクラッシュ2000(元・クラッシュギャルズ)と対戦。

2006年 - 初の自主興行「極悪血祭り」を新宿FACEで開催。毎回好評で、現在まで不定期で開催されている。

2015年 - 5月23日大田区総合体育館大仁田厚&長与千種を相手にTARUをパートナーに迎え、史上初の男女混合電流爆破タッグデスマッチ「大江戸超花火」を開催した。

多くのファンが試合会場へ足を運び楽しく観覧してもらえるよう、女子プロレス界を再び盛り上げたいという強い思いでレスラーと芸能活動を両立しながら現在も活躍している。レスラーとしてはマーベラスを主戦場としつつ、プライベートでも面倒を見る後輩の堀田祐美子率いる「堀田暴走軍」にも参加。また近年はボディプレスをフィニッシュムーブにもしている。

現役時代から32年近くもの長い期間パチンコ依存症で苦しみ、これまで「都心の高級マンションを購入できる程」の金額をパチンコに費やし、一か月に100万円ほど負けたこともあり、当時は手持ちが無くなるとギャラの前借りをするなどして更にパチンコに費やしていたと語っている[25]

得意技

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全盛期のフィニッシャー。横殴り式に放つ。
全盛期後半のフィニッシャー。
トレードマークである竹刀を始め、チェーン、一斗缶、ドラム缶など多彩な凶器を使って攻撃した。
近年の主なフィニッシャー。

獲得タイトル

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出演

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テレビ

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ラジオ

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テレビドラマ

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映画

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  • まぜこぜ一座殺人事件(2024年10月18日公開予定)[26]

Vシネマ

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OVA

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ミュージック・ビデオ

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  • マーキーズ「とんがり娘」(1991年)

舞台

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CM

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ラーメンの具として、たこ焼き3個が入っている。CM中でのセリフ「おい!」「みんな初めは分かってくれないんだ」「マジだぜ!」が話題になる。CMは複数のバージョンが作られたが、その1本では冒頭に、ノーメイクの素顔で「たこやきが、ラーメンになったのよ!」と明るく商品をアピールする場面もあった。なお、素顔のシーンはリハーサルだと騙されて撮影したものであり、放映開始まで本編での採用はダンプ本人は知らされていなかった。当時ダンプはヒールのイメージを守るため、ノーメイクでのメディア出演を断っていたが、全女側がギャラの上乗せを画策し、ダンプ本人に無断で素顔を出す契約を結んでいた。

ゲーム

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音楽

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坂本龍一44MAGNUM白井良明サエキけんぞうタケカワユキヒデらが楽曲を提供している。
2024年10月2日よりサブスクリプションにて各音楽配信サービスで配信される予定[27]
  • 赤いウィンナー逃げた(1988年、ビクター音楽産業、シングル)
大森ゆかりとのユニット「桃色豚隊(PINK TONTON)」名義。タイトルチューンは作詞:秋元康、作曲:見岳章

書籍

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  • 『ダンプ松本のマジだぜ!』集英社(1986年1月)
  • 『なんたって乙女の底力』スコラ(1988年4月)大森友伽里との共著
  • 『私じゃダメかい!!』ビクター音楽産業(1988年7月)
  • 『どんとこい芸能界!―極悪ダンプの芸能界毒舌言いたい放題! 』日本文芸社(1989年5月)
  • 『おかあちゃん!』主婦と生活社(1991年5月)
  • 『長女はつらいよ―だけど、元気もりもり』同文書院(1994年2月)
  • 『「ザ・ヒール」極悪と呼ばれて』小学館 ダンプ松本、平塚雅人著(2021年1月)

関連作品

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関連人物

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脚注

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  1. ^ ダンプ松本の絶望的な人生を救ったマッハ文朱(2019.12.27)、2020.1.5-last access
  2. ^ ダンプ松本 全日本女子プロレス会長に“脅迫“メッセージ(2019.12.28)、2020.1.5-last access
  3. ^ ダンプ松本 アーチェリーの名門高でインターハイ出場!そしてプロレスへ(2019.12.29)、2020.1.5-last access
  4. ^ ダンプ松本「父親を殺すためプロレスラーになった」 東京スポーツ(2019.12.26)、2020.1.5-last access
  5. ^ ダンプ松本 落ちこぼれ同士だった長与千種との出会い(2019.12.30)、2020.1.5-last access
  6. ^ 松本香の死 そしてダンプ松本誕生(2019.12.31)、2020.1.5-last access
  7. ^ 雑誌『Sports Graphic Number』のミニインタビューにて。
  8. ^ ダンプ松本「日本で一番殺したい人間」とまで言われても、“悪役”を背負い続ける理由(5/9ページ) 週刊女性2020年9月29日・10月6日号 (2020年10月3日閲覧)
  9. ^ a b 【女子レスラー名鑑】ダンプ松本 史上最凶のヒール 長与千種との髪切りマッチは伝説東京スポーツ 2023年3月6日(2023年3月8日閲覧)
  10. ^ ダンプ松本 伝説「髪切りマッチ」の舞台裏を語る「今思うと、余計に腹が立ってきた」スポーツニッポン 2023年5月12日(2024年1月6日閲覧)
  11. ^ ダンプ松本「日本で一番殺したい人間」とまで言われても、“悪役”を背負い続ける理由(9/9ページ) 週刊女性2020年9月29日・10月6日号 (2020年10月3日閲覧)
  12. ^ a b c d e f g h i ダンプ松本、極悪同盟みんなで守った”五箇条”「理不尽ないじめやシゴキは絶対しなかった、させなかった」 テレ朝POST 2021.09.07 (2021年12月3日閲覧)
  13. ^ スポーツニッポンのコラム「母」でダンプ自身が著述。他にテレビ番組でのトークや週刊FLASHの取材でも事実と認めている。
  14. ^ ダンプ松本 Wikipedia「怪我をさせた対戦相手に母が謝罪」真相を本人直撃-光文社・週刊FLASH 2012年5月8日・15日合併号[リンク切れ]
  15. ^ a b c d ダンプ松本 1試合3万5千円だった デイリースポーツ 2015年12月20日
  16. ^ 柳澤健『1993年の女子プロレス』(2011年 双葉社 ISBN 9784575303261 P68)
  17. ^ ダンプ松本 ファンの殺意 長与との確執は刃物沙汰に 東京スポーツ(2020年01月01日)、2020.1.2access
  18. ^ 【スターダム】ダンプ松本が極悪同盟の再結成待ち望む「血だるまにしたいの」天咲光由に毒霧”. 日刊スポーツ (2023年8月19日). 2022年8月19日閲覧。
  19. ^ ダンプ松本「日本で一番殺したい人間」とまで言われても、“悪役”を背負い続ける理由(8/9ページ) 週刊女性2020年9月29日・10月6日号 (2020年10月3日閲覧)
  20. ^ 女子プロレスのヒール、ダンプ松本をNetflixでドラマ化 鈴木おさむ&白石和彌監督がタッグ シネマトゥデイ (2021年11月9日閲覧)
  21. ^ ダンプ松本夢の全女入門!宣伝カーで警察のお世話に(2019.12.29)、2020.1.5-last access
  22. ^ ダンプ松本 女子特有の陰湿ないじめ 長与は泥棒扱い(2019.12.30)、2020.1.5-last access
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  25. ^ ダンプ松本、パチンコ依存症の壮絶過去 月25日通い100万円負けが30年… デイリー 2018年6月21日 2020年7月2日 閲覧 やめられない苦しみと闘う芸能人 日本テレビザ!世界仰天ニュース』 2018年11月13日 2020年7月2日 閲覧 パチンコで数千万円溶かした。目を瞑ると魚群が見えた…【ダンプ松本】【パチンコ依存症】
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  27. ^ ダンプ松本のアルバム「極悪」サブスク解禁、坂本龍一や44MAGNUMメンバーらが楽曲提供 音楽ナタリー 2024年9月19日 2024年9月21日 閲覧
  28. ^ ゆりやんレトリィバァ主演『極悪女王』Netflixで2023年配信 鈴木おさむ×白石和彌がタッグ”. Real Sound|リアルサウンド 映画部. 2022年6月30日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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