トニー・ペレス

トニー・ペレス
Tony Pérez
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地  キューバ
シエゴ・デ・アビラ州シエゴ・デ・アビラ
生年月日 (1942-05-14) 1942年5月14日(82歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1960年
初出場 1964年7月26日
最終出場 1986年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
殿堂表彰者
選出年 2000年
得票率 77.15%
選出方法 BBWAA選出

アタナシオ・ペレス・リガル(Atanasio Pérez Rigal, 1942年5月14日 - )は、キューバシエゴ・デ・アビラ州出身の元プロ野球選手選手(一塁手)。右投右打。 1960年代1970年代にかけて、持ち前の強打でシンシナティ・レッズの黄金期を支えた。

息子は日本NPB阪神タイガースにも在籍したエドゥアルド・ペレス[1]

経歴

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出生から渡米まで

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ペレスは1942年5月14日キューバシエゴ・デ・アビラ州シエゴ・デ・アビラ砂糖キビ農家に生まれる。少年時代より家の手伝いもしており、一方でペレスの実父がサトウキビ農家・会社中心で野球チームを結成していたことから野球に親しみ、ペレスも10代になってからは父のチームでショートストップを守るようになっていた。

1960年、17歳のペレスのいる会社チームを視察していたシンシナティ・レッズのスカウト・トニー・ペチェコの目にとまり、契約。レッズ傘下のマイナーチーム・ハバナ・シュガーキングス[2]でプレーすることになったが、同時にボーナスとしてアメリカ行きのビザマイアミ行きの飛行機のチケットをペレスは得ていた。

渡米後、マイナーリーグ時代(1960年 - 1964年)

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契約してそのままアメリカに渡ったペレスは、タンパのレッズのスプリング・トレーニングに参加。その後マイナーでプレイすることになり、傘下のD級チーム(ニューヨーク州ジュネーブにあった)にて二塁手としてデビューする。その後6月に、後にチームメイトになるピート・ローズが二塁手に入ったため、ペレスは三塁手にコンバートされたが、同年は104試合出場して打率.279、6本塁打の成績だった。

1961年もジュネーブのチームでプレーし、121試合出場、打率.348、27本塁打の好成績を挙げ、1962年はB級チームにて100試合出場、打率.292、18本塁打、74打点を記録し、1963年はAA級マコン・ピーチズにて69試合出場、打率.309、11本塁打、48打点を記録したあと、 AAA級サンディエゴ・パドレス[3]にて8試合出場、打率.379、1本塁打、5打点を記録した。

1964年、引き続きパドレスから始動し、この年より一塁手にコンバートされたペレスはパシフィックコーストリーグのMVPを受賞しており、打率.309、34本塁打、107打点を記録していたところで、同年7月26日、ついにレッズに昇格。ダブルヘッダー第2戦でメジャーリーグデビューを果たす。

シンシナティ・レッズ時代(1964年 - 1976年)

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レッズ初年度の1964年から1966年の3シーズンの間はプラトーンをチームで行っていたこともあり、ペレス以外にも一塁手が2人いて出場しては控えが続いた。それでも1965年シーズン開幕第2戦にてペレスの打ったメジャー初本塁打は満塁本塁打だった。

1967年よりマイナー時代に守った三塁手にコンバートされると、これよりレギュラーに定着。156試合に出場して打率.290、26本塁打、102打点を記録し、持ち前の打撃で主力打者となる。この年MLBオールスターゲーム初出場を果たし、MVPに選ばれた。

1970年は打率.317、40本塁打、129打点といずれも自己最高の成績を残す。その翌1971年にはアメリカ合衆国国籍を取得した。

1972年より再び一塁手にコンバート、そしてこの当時はレッズの黄金時代である「ビッグレッドマシン」の異名をとるほどの最強チームの1つで、アメリカ野球殿堂入りの名監督スパーキー・アンダーソンの下、ペレスのほか、大リーグ最多安打記録保持者のピート・ローズ(三塁手)や、いずれも後に殿堂入りしたジョー・モーガン(二塁手)、ジョニー・ベンチ(捕手)、そして強打者ジョージ・フォスターや名遊撃手デーブ・コンセプシオン等のスター選手を擁し、1975年1976年と2年連続でワールドシリーズ制覇を果たしている。

3球団所属時代(1977年 - 1983年)

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1977年、一塁手を若いダン・ドリーセンに譲り、モントリオール・エクスポズ(現在のワシントン・ナショナルズ)に交換トレードで移籍。この移籍について、アンダーソン監督は「ペレスがチームリーダーでチームの支柱だった。本当に手放したくなかった。」とコメントするほどであった。なお、1970年から1979年までの10年間で954打点を記録したが、これは大リーグ全体でチームメイトのベンチに次ぐ記録であった。 エクスポズ在籍時のペレスは3シーズンで打率.281、46本塁打、242打点を記録した。

1980年にフリーエージェントでボストン・レッドソックスに移籍。同年は打率.275、25本塁打、105打点を記録し、ルー・ゲーリッグ賞も受賞している。

1983年フィラデルフィア・フィリーズに移籍、ここではかつてのチームメイトのローズ、モーガンと共に地区優勝・リーグ優勝を果たしワールドシリーズに出場するが、ボルチモア・オリオールズに敗れる。

レッズ復帰・引退(1984年 - 1986年)

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1984年に古巣のレッズに復帰。復帰後、1986年シーズンまでに現役を引退する意向を表明する。翌1985年5月13日の対フィリーズ戦にて史上最年長の満塁本塁打を放つ[4]。同年はローズが監督兼任としてレッズに復帰しており、また同年9月11日にローズが4192本目の安打を放ち、通算安打記録更新にも立ち会った。翌1986年シーズンを最後に現役を引退した。

引退後

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監督として現場に立つペレス(1993年のスプリング・トレーニングにて)

現役引退後は1987年よりレッズのコーチに就任し、1993年にはレッズの監督に就任し、1年間のみ指揮をとった。

ペレスのレッズ在籍時の背番号「24」。
シンシナティ・レッズの永久欠番2000年指定。

2000年にはキューバ人選手として初のアメリカ野球殿堂入りを果たし[1]、同年、古巣レッズはペレスの在籍時の背番号24』を永久欠番に指定した[5]

2001年フロリダ・マーリンズの監督に就任し、1年務めた後、マーリンズのゼネラルマネージャー特別補佐を2017年まで務めた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1964 CIN 12 28 25 1 2 1 0 0 3 1 0 0 0 0 3 0 0 9 0 .080 .179 .120 .299
1965 104 307 281 40 73 14 4 12 131 47 0 2 2 1 21 5 2 67 10 .260 .315 .466 .781
1966 99 278 257 25 68 10 4 4 98 39 1 0 2 3 14 2 2 44 12 .265 .304 .381 .686
1967 156 644 600 78 174 28 7 26 294 102 0 3 0 7 33 10 4 102 15 .290 .328 .490 .818
1968 160 690 625 93 176 25 7 18 269 92 3 2 1 7 51 13 6 92 19 .282 .338 .430 .769
1969 160 704 629 103 185 31 2 37 331 122 4 2 3 7 63 7 2 131 20 .294 .357 .526 .883
1970 158 681 587 107 186 28 6 40 346 129 8 3 0 7 83 13 4 134 15 .317 .401 .589 .990
1971 158 664 609 72 164 22 3 25 267 91 4 1 0 3 51 5 1 120 13 .269 .325 .438 .764
1972 136 576 515 64 146 33 7 21 256 90 4 2 0 6 55 15 0 121 9 .283 .349 .497 .846
1973 151 647 564 73 177 33 3 27 297 101 3 1 0 6 74 10 3 117 13 .314 .393 .527 .919
1974 158 667 596 81 158 28 2 28 274 101 1 3 0 8 61 7 2 112 17 .265 .331 .460 .791
1975 137 574 511 74 144 28 3 20 238 109 1 2 0 6 54 6 3 101 12 .282 .350 .466 .816
1976 139 586 527 77 137 32 6 19 238 91 10 5 0 4 50 9 5 88 10 .260 .328 .452 .779
1977 MON 154 633 559 71 158 32 6 19 259 91 4 3 0 9 63 15 2 111 14 .283 .352 .463 .816
1978 148 590 544 63 158 38 3 14 244 78 2 0 1 5 38 9 2 104 10 .290 .336 .449 .785
1979 132 537 489 58 132 29 4 13 208 73 2 1 0 7 38 4 3 82 14 .270 .322 .425 .748
1980 BOS 151 635 585 73 161 31 3 25 273 105 1 0 0 8 41 11 1 93 25 .275 .320 .467 .786
1981 84 336 306 35 77 11 3 9 121 39 0 0 0 3 27 0 0 66 9 .252 .310 .395 .705
1982 69 215 196 18 51 14 2 6 87 31 0 1 0 0 19 3 0 48 6 .260 .326 .444 .769
1983 PHI 91 285 253 18 61 11 2 6 94 43 1 0 0 3 28 1 1 57 9 .241 .316 .372 .687
1984 CIN 71 149 137 9 33 6 1 2 47 15 0 0 0 1 11 2 0 21 8 .241 .295 .343 .638
1985 72 207 183 25 60 8 0 6 86 33 0 2 0 2 22 1 0 22 2 .328 .396 .470 .866
1986 77 228 200 14 51 12 1 2 71 29 0 0 0 3 25 2 0 25 6 .255 .333 .355 .688
MLB:23年 2777 10861 9778 1272 2732 505 79 379 4532 1652 49 33 9 106 925 150 43 1867 268 .279 .341 .463 .804
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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一塁(1B) 二塁(2B) 三塁(3B)




































1964 CIN 6 51 0 1 2 .981 - -
1965 93 525 40 6 55 .989 - -
1966 75 530 23 6 46 .989 - -
1967 18 134 5 0 12 1.000 1 2 8 0 1 1.000 139 113 221 13 13 .963
1968 - - 160 151 343 25 33 .952
1969 - - 160 136 342 32 35 .937
1970 8 36 6 0 4 1.000 - 153 131 286 35 34 .923
1971 44 168 4 2 16 .989 - 148 113 304 18 26 .959
1972 136 1207 68 9 111 .993 - -
1973 151 1318 85 13 131 .991 - -
1974 157 1292 75 6 111 .996 - -
1975 132 1192 72 9 113 .993 - -
1976 136 1158 73 5 110 .996 - -
1977 MON 148 1312 110 11 88 .992 - -
1978 145 1181 82 11 116 .991 - -
1979 129 1114 65 11 81 .991 - -
1980 BOS 137 1301 87 10 150 .993 - -
1981 56 519 37 4 63 .993 - -
1982 2 5 1 1 0 .857 - -
1983 PHI 69 514 40 1 36 .998 - -
1984 CIN 31 186 12 2 17 .990 - -
1985 50 340 22 2 34 .995 - -
1986 55 398 29 7 46 .984 - -
MLB 1778 14481 936 117 1342 .992 1 2 8 0 1 1.000 760 644 1496 123 141 .946
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

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記録

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背番号

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脚注

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  1. ^ a b Right Name, Wrong Genes: The Top 50 Less Talented Relatives of Superstars”. bleacherreport.com (2010年9月7日). 2012年3月25日閲覧。
  2. ^ 当時はキューバ危機発生前だったため、アメリカとキューバの交流はあった。
  3. ^ 当時はレッズ傘下のマイナーチーム。のち1969年にメジャー参入してサンディエゴ・パドレスになる。
  4. ^ 2004年フリオ・フランコが46歳で満塁本塁打を放って記録を更新。
  5. ^ 後年、レッズに移籍するケン・グリフィー・ジュニアマリナーズ時代に親しんだ背番号『24』がペレスの欠番となったため、父・ケン・シニアの『30』をつけた逸話がある。

関連項目

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外部リンク

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