ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ
ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ حمد بن عيسى آل خليفة | |
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バーレーン国王 | |
ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ(2017年) | |
在位 | 1999年3月6日 - 2002年2月14日(首長) 2002年2月14日 - 在位中(国王) |
全名 | حمد بن عيسى آل خليفة ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ |
出生 | 1950年1月28日(74歳) バーレーン、リファー |
配偶者 | サビーカ・ビント・イブラーヒーム・アール・ハリーファ |
子女 | |
家名 | ハリーファ家 |
父親 | イーサ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファ |
母親 | ヘサ・ビント・サルマーン・アール・ハリーファ |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ(アラビア語: حمد بن عيسى آل خليفة, ラテン文字転写: Hamad bin Isa Al Khalifa[1], 発音:Ḥamad bin ʿĪsā Āl Khalīfa(ないしはKhalīfah), ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ、1950年7月15日 - )は、初代バーレーンマリク(国王、在位:1999年3月6日 - )。ハリーファ家の君主としては第11代に当たる。バーレーンの政体を絶対君主制から立憲君主制に移行させ、議会政治の復活や女性参政権の確立など、大規模な民主化政策を断行した。
名称
[編集]実名のハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファは、「ハリーファ家のイーサー(口語発音:イーサ)の子ハマド」の意であり、本人のファーストネームである個人名(イスム)はハマドとなる。
称号については、即位直後は伝統的な君主号である「首長(アミール、Amir/Emir)」を用いていたが、2002年に国名がバーレーン国 (State of Bahrain) からバーレーン王国 (Kingdom of Bahrain) に変更されたことで「国王(マリク、Malik)」となった。
イスラーム圏では通常、貴人や年長者・識者に対して、尊称であるシェイク(アラビア語発音:シャイフ)を名前の前に付けて呼ぶが、ハマドの場合はより高位の国王号を有するため付さないのが普通である[1]。
略歴
[編集]以下の略歴はEmbassy of the Kingdom of Bahrainによる[2]。
- 1950年7月15日、イギリス保護国バーレーンで当時の王太子イーサ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファの長男として誕生。
- 1964年6月27日、初等教育の完了に合わせ皇太子となる。
- その後イギリスへ留学し、1968年までレイズ・スクール (en) 、オールダーショットのオールダーショット・スクール、サンドハースト王立陸軍士官学校で学ぶ。
- 1968年 帰国。10月9日、サビーカ王妃と成婚。
- 1969年10月21日、後に王太子となる長子サルマーンが誕生。
- 1971年 バーレーン独立。内閣が組織され、国防大臣に就任。即位までは主にこの役職を務める。
- 1972年 アメリカ陸軍指揮幕僚大学へ留学。翌年卒業。
- 1999年3月6日、父のイーサ首長が急死。後継の首長として即位する。
- 2002年 憲法改正に伴い、バーレーンは王制へ移行。初代国王に即位。
民主化政策
[編集]- バーレーンの政治も参照のこと
1971年のイギリスからの独立後のバーレーンは、1975年に議会を停止し絶対君主制を形成していった。これに対し、1999年3月、首長に即位したハマドは大規模な民主化政策を断行した。
まず1999年6月、特赦令を発布し政治犯の釈放と国外追放処分者の復権を行った。2001年には治安維持法と治安裁判所を廃止した[3]。
最も大きな改革は、2002年の憲法改正である。これによりバーレーンは王制に移行し、二院制の議会が設立され男女平等の普通選挙制も確立された。この時点でハマドの地位も首長から国王へと変化した。これらの民主化に向けた政策は欧米からは高く評価されている[4]。
一方では反ハマド政権の市民数百人を政治犯として逮捕・拘束・虐待などの弾圧をしており[5][6]、度重なる市民デモによる抗議やアムネスティなどの人権擁護団体から政治犯の釈放を求められている[7][8][9][10]。
人物
[編集]地位
[編集]憲法改正後の現在のハマド国王の権限は以下のようなものである。国王位はハリーファ家の世襲制と憲法に規定されている[11]。
- 立法 - 議会上院に当たる評議院議員の任命権を持つ。法律の承認と公布を行う。議会を召集する。国内外の重要事項に関して、国民投票を実施できる。
- 行政 - 首相の建議に基づき大臣を任命する。全ての公務員を任命する。条約の締結を行う。
- 司法 - 自ら議長を務める高等裁判評議会の建議に基づき裁判官を任命する。戒厳令を発布できる。
- 軍事 - 国防軍の最高司令官を兼任する。全ての将兵の任免権を持つ。
信仰
[編集]イスラム教スンナ派を信仰する。しかし、国王及び内閣の多数のポストを占めるハリーファ家がスンナ派である事実は、シーア派住民の割合が高いバーレーンにおいて治安上の不安要素になっており[4]、シーア派の反政府デモ・抗議集会と治安部隊の衝突が度々発生している[12]。
その他
[編集]趣味は鷹狩・ゴルフ・釣り・テニスなど[2]。ワールドカップへの初出場を目指すサッカーバーレーン代表には国を挙げた援助を行っている[13]他、中東地域では初のF1誘致にも成功し、自身のスポーツへの興味を国威高揚に役立てている。また皇太子時代から設立・発展に携わり、現在も最高司令官を務める国防軍への思い入れは強い[2]。
バーレーンで発行されている10ディナール紙幣に肖像が使用されている。
家族
[編集]第一夫人はいとこに当たるサビーカ王妃であり、他にも妻がいる。子女は5男1女の6人がいる。
脚注
[編集]- ^ a b 名前の日本語カタカナ表記にはメディアにより揺れがあるが、本項目では駐日バーレーン王国大使館と日本国外務省の表記に従った。
- ^ a b c “The Monarchy” (英語). Embassy of the Kingdom of Bahrain. 2009年1月18日閲覧。
- ^ a b “在バーレーン王国日本国大使館:概観”. 在バーレーン王国日本国大使館. 2009年1月18日閲覧。
- ^ a b “在バーレーン王国日本国大使館:政治・外交”. 在バーレーン王国日本国大使館. 2009年1月18日閲覧。
- ^ “バーレーンで、多数の政治活動家が逮捕”. iran Japanese Radio. (2013年11月17日) 2013年11月18日閲覧。
- ^ “バーレーンで、政治犯4名に対し終身刑判決”. iran Japanese Radio. (2013年11月3日) 2013年11月21日閲覧。
- ^ “バーレーン政府の反体制派が抗議デモを実施”. iran Japanese Radio. (2013年10月31日) 2013年11月21日閲覧。
- ^ “バーレーンで反政府デモが実施”. iran Japanese Radio. (2013年11月2日) 2013年11月21日閲覧。
- ^ “バーレーンで、人々が、反政府デモを実施”. iran Japanese Radio. (2013年11月7日) 2013年11月21日閲覧。
- ^ “アムネスティが、バーレーンの政治犯の釈放を強調”. iran Japanese Radio. (2013年11月10日) 2013年11月21日閲覧。
- ^ “バーレーン王国大使館:国王”. 駐日バーレーン王国大使館. 2009年1月18日閲覧。
- ^ “海外安全ホームページ”. 日本国外務省. 2009年1月18日閲覧。
- ^ “バーレーン国王からサッカー選手26人に新居のプレゼント”. Web-Tab. 2009年1月18日閲覧。
- ^ “バーレーン王国大使館:女性”. 駐日バーレーン王国大使館. 2009年1月18日閲覧。
- ^ “Crown Prince meets UAE’s Minister of Foreign Affairs”. Bahrain News Agency. (2014年12月6日) 2014年12月8日閲覧。
- ^ “F1バーレーンGP、マッサが今季初優勝”. Web-Tab. 2009年1月18日閲覧。
- ^ “M・ジャクソン、バーレーン王子と法廷外和解”. Reuters.com. 2009年1月18日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
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