フランソワ・ヴィリエ
フランソワ・ヴィリエ François Villiers | |||||||||
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本名 | フランソワ・サロモン (Francois Salomons) | ||||||||
生年月日 | 1920年3月2日 | ||||||||
没年月日 | 2009年1月29日(88歳没) | ||||||||
出生地 | フランス パリ | ||||||||
死没地 | フランス オー=ド=セーヌ県ブーローニュ=ビヤンクール | ||||||||
国籍 | フランス | ||||||||
職業 | 映画監督、脚本家 | ||||||||
ジャンル | 映画、テレビ映画 | ||||||||
活動期間 | 1945年 - 1989年 | ||||||||
活動内容 | 1945年 助監督 1948年 監督に昇進 1966年 テレビ映画に専念 | ||||||||
著名な家族 | アリュナ・ヴィリエ 娘 ジャン=ピエール・オーモン 兄 ティナ・オーモン 姪 | ||||||||
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フランソワ・ヴィリエ(François Villiers, 1920年3月2日 - 2009年1月29日)は、フランスの映画監督、脚本家である。レジオンドヌール勲章シュヴァリエ章の受章者である。
人物・来歴
[編集]1920年3月2日、フランスの首都パリに生まれる。兄は俳優のジャン=ピエール・オーモンである。
助監督となり、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月18日に公開された、シルヴィア・バタイユ主演、ピエール・カロン監督の『彼らは五人の休暇軍人だった』等に参加する。1948年(昭和23年)、監督に昇進し、『マルセイユの一夜』でデビューする。
10年のブランクを経て1958年(昭和33年)に2作目を監督し、3作目の『河は呼んでいる』が同年の第11回カンヌ国際映画祭でパルムドールにノミネートされたが、受賞は逸した。同作は、翌1959年(昭和34年)のゴールデングローブ賞で外国語映画賞を受賞した。同年の1月、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の1月号で、のちにヌーヴェルヴァーグの旗手とされた当時批評家のジャン=リュック・ゴダールが発表した「1958年のベストテン」で、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『白夜』を第9位に抑えて、同作を第8位に挙げた[1]。
1966年(昭和41年)からはテレビ映画に専念、多くのテレビシリーズを監督した。
1989年(平成元年)、23年ぶりに監督した映画『マニカの不思議な旅』が、第42回カンヌ国際映画祭で観客賞を獲得した。
2009年1月29日、パリ郊外、オー=ド=セーヌ県ブーローニュ=ビヤンクールで死去した。満88歳没。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 『彼らは五人の休暇軍人だった』 Ils étaient cinq permissionnaires : 監督ピエール・カロン、 1945年 - 助監督
- 『マルセイユの一夜』 Hans le marin : 1948年 - 監督
- 『河は呼んでいる』 L'Eau vive : 1958年 - 監督
- La Verte Moisson : 1959年 - 監督
- Pierrot la tendresse : 1960年 - 監督
- Le Puits aux trois vérités : 1961年 - 監督・脚本
- 『明日に太陽を』 Jusqu'au bout du monde : 1962年 - 監督・脚本
- 『マニカの不思議な旅』 Manika, une vie plus tard : 1989年 - 監督・脚本
註
[編集]- ^ Les Cahier du Cinema, Numero 91, Janvier 1959, 1959年1月号。