フレディ・スペンサー
フレディ・スペンサー | |
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2016年 | |
グランプリでの経歴 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
活動期間 | 1980 - 1993 |
チーム | ホンダ、ヤマハ |
レース数 | 72 |
チャンピオン | 500cc - 1983, 1985 250cc - 1985 |
優勝回数 | 27 |
表彰台回数 | 39 |
通算獲得ポイント | 610.5 |
ポールポジション回数 | 33 |
ファステストラップ回数 | 24 |
初グランプリ | 1980 500cc ベルギー |
初勝利 | 1982 500cc ベルギー |
最終勝利 | 1985 500cc スウェーデン |
最終グランプリ | 1993 500cc イタリア |
フレデリック・バーデッド・"フレディ"・スペンサー・ジュニア(Frederick Burdette "Freddie" Spencer Jr., 1961年12月20日 - )は、アメリカ合衆国ルイジアナ州出身の元モーターサイクル・レーシングライダー。1983年にはロードレース世界選手権(WGP)500ccクラスで、史上最年少チャンピオン、1985年には同じくWGPの500cc、250cc両クラスでシリーズチャンピオンを獲得した。
略歴
[編集]デビューから世界グランプリ登場まで
[編集]幼年期からダートトラックレースなどに親しみ、1978年に本格的に二輪ロードレースへの参戦を開始。モトグッツィ、ヤマハ、カワサキなどのライダーを経て1980年にUSホンダと契約。アメリカ国内のレースで活躍した。この年には鈴鹿8時間耐久ロードレースにもホンダのワークスマシンで出場している。同じ年にオートバイレースの最高峰、世界グランプリのベルギーにて500ccクラスにスポット参戦し、グランプリデビューも果たす(この時のみ車両はヤマハのTZ500)。
1981年にはホンダNR500でイギリスGPにスポット参戦。予選10位、決勝でも果敢な走りで5位まで上がってリタイヤと鮮烈な印象を残し、NR500の世界GPにおける最高成績を記録した。
世界グランプリ・フル参戦
[編集]1982年、ホンダ・ワークスから世界GPへのフル参戦を開始。同年からホンダはNR500(4ストロークエンジン)に代え、2ストローク3気筒エンジンの新型マシンNS500を実戦投入しており、スペンサーはこの車両を駆って同年のスペインGPで初のPPを獲得[1]し、ベルギーGPで世界グランプリ初勝利を遂げる[1]。その後も1勝を挙げ、ランキング3位を獲得した。
1983年にはヤマハのケニー・ロバーツと、年間12戦のうち6勝ずつ分け合う激しい戦いを展開。最終第12戦サンマリノGPではケニーが優勝して対戦成績を五分に戻したが、獲得ポイントはスペンサーが2ポイント上回っており、500ccクラスのチャンピオンを獲得した。この時点でスペンサーは21歳8ヶ月であり、2013年にマルク・マルケスに破られるまでロードレース世界選手権の最高峰クラスにおけるシーズン制覇の最年少記録であった[2]。
1984年からホンダはV型4気筒エンジン搭載のNSR500を投入したが、エクゾーストを通常燃料タンクの位置に通す車両の独創的レイアウトの影響によるトラブルが多く、シーズン5勝をあげるもランキングは4位にとどまり、エディ・ローソン(ヤマハ)にシーズンタイトルを奪われた。ちなみにスペンサーはこの年、NSR500と前年の車両NS500をコースによって使い分けていた。
1985年シーズンは前年の成績を挽回すべく、WGP500cc、250ccの両クラスにダブルエントリー。500ccクラスでは全12戦中11戦に出走し7勝をマーク。250ccクラスでは全12戦中10戦に出走しやはり7勝を収め、両クラスとも最終戦を待たずして年間チャンピオンを確定。'70年代以前には同一年に複数のタイトルを獲得する例も多く見られたが、世界GPにおける「Wタイトル」はこの年のスペンサーが現在までのところ最後の記録であり、500ccと250ccのWタイトルは世界GP史上スペンサーのみである。なお90年代後半にダブルエントリーが認められなくなったため、この記録を破ることは現在不可能。
右手首故障
[編集]シーズンオフには肉体改造を試み翌1986年の開幕戦・スペインGPに登場。予選ではポールポジションを獲得し、決勝レースもスタートからトップを独走した。しかしスペンサーはレース中に右腕に故障を発症してピットインし、そのままリタイア[3]。以後のレースでもリタイアが多く、スペンサーはシーズン途中で戦線を離脱し、結局1986年は獲得ポイントなしであった。
1987年、復活をかけたデイトナのスーパーバイクレースにおいてVFR750を駆り予選最速タイムを叩きだすが、前走車の転倒に乗り上げてしまい転倒骨折、本戦には進めなかった。[4]世界GPの開幕戦・鈴鹿(日本GP)では予選初日の第1回目セッションを5周しただけで手首の状態が良くない事を理由にエントリーを取り消し。スペンサーがレースに戻ったのはシーズン中盤戦以降であった。ポイント獲得はスウェーデンGPでの7位完走・4ポイント獲得の1回のみであり、ランキングは500ccクラス20位であった。
1988年にはスペンサーに対するロスマンズのスポンサードが復活し世界GPにフル参戦する予定だったが、オーストラリアでの開幕前テスト走行でやはり右手首の腱鞘炎の痛みが消えていない事が確認され、3月16日に現役引退を発表。開幕戦・日本GPの会場である鈴鹿サーキットを、ゼッケン19をつけたロスマンズカラーの最新型NSR500で1周ゆっくりと手を振りながら引退記念走行を行った。
カムバック
[編集]約1年後、スペンサーは手首の手術を行った結果、状態はほぼ万全に近くなったとして引退を撤回。1989年にはジャコモ・アゴスチーニ率いるマールボロ・ヤマハチームに加入し、YZR500で世界GPに参戦した。しかし思わしい結果は出なかったため、シーズン途中でチームを去ることになった。帰国後には背中の手術もしている。1992年当時、フレディの腕の不調の原因は白蝋病、と言われていた[5]。
1990年のデイトナではVFR750Rでスポット参戦。翌1991年、1992年とAMAスーパーバイク全戦に参戦し1991年に1勝、1992年に1勝を挙げた。1992年のホンダの勝利は彼だけだった。
1992年には日本の鈴鹿8耐にミスタードーナツホンダRVFで参戦。最新ワークスマシンではなかったにもかかわらず予選3位と驚異的なタイムを記録、決勝は転倒を喫しながらも4位で完走した。その後、かつてのパートナーだったアーヴ・カネモトの協力で、南アフリカGPの数日後にキャラミでNSRをテストする機会を与えられ、ここでも好タイムをマークした。
1993年にはヤマハ・モーターフランスチームから世界GP500ccに参戦するも、やはり好結果を残すことは出来ず、同年をもって世界GPからは完全に引退した。
1995年にAMAスーパーバイクレースにドゥカティから参戦し、ラグナセカで優勝。1996年に二度目の引退を発表し、以降は7月22日(木曜日)に転倒[6]して右手首を骨折し、ドクターストップがかけられ、決勝への出場を断念した1999年の鈴鹿8時間耐久ロードレース(代役は武田雄一)を除いてレースへの参戦は無い。
近況では、アメリカのラスベガスでバイクのライディングスクールを経営していたが、世界不況の煽りを受け現在は休業している。2008年には鈴鹿8時間耐久レースの特別イベントとして、かつて1985年にWGPチャンピオンを取ったマシンNSR500でデモラン走行を行い8耐に来た観衆を大いに沸かせた。また、2019年以降は国際モーターサイクリズム連盟のスチュワードパネル委員長にも就任している[7]。
フレディー・スペシャル
[編集]スペンサーが直接開発に携わった1984年〜1986年型NSR500は、当初ワークス系チーム内でもスペンサーにのみ与えられており、"フレディー・スペシャル"と呼ばれた。
なお、1986年シーズンはチームメイトのワイン・ガードナーもNSR500でレースに出走。以後はNSR500がワークスライダーとサテライトチームに供給されている。
特徴
[編集]バイクを長い手足(身長178cm)の下で自在に操り、コーナー終盤の立ち上がり加速を重視するライディング・スタイルが特徴とされる。アメリカ国内レースの頃からファーストラップから驚異的なタイムでライバルを引き離し、2位以下に大差をつけての独走優勝というレース展開が多く、“ファスト(速い)・フレディー(Fast Freddie)”と呼ばれた。
スペンサーの走法は、キャンバーアングル(バンク角)の変化によるマシンの向き変えが鋭く、ダートトラックレースの走法であるパワースライドを用いて両輪差を駆使し、定常円旋回している時間が極端に短いのが特徴だった。また他のライダーに比してエンジンの高回転域まで使用することでも知られた。
1983年のフレディについて、おなじNS500を操るチームメイトだった片山敬済と片山のチーフ・メカニックを務めていた杉原真一は次のように語っている。「フレディの膝の動きはバランサーだ。別に路面がデコボコしているわけじゃないのによく動く、バランサーだな」(片山敬済)[8]。「フレディはわりとすべっても平気だよ。よく感知できないっていうか。エッ!! すべってたの、ってカンジだ」(杉原真一)[9]。また、片山は、フレディが自己流なライディングをしていると言われていることに対して、「フレディは、タイヤがすべっていることはよくわかっているよ。ちゃんとコントロールしているんだよね」(片山敬済)と話している[10]。
宗教上の理由から飲酒喫煙はせず、カフェインの摂取も忌避していたが、ドクターペッパーを愛飲していた[11]。全盛期となった1985年シーズンには、ヨーロッパ各国を巡る世界GP開催地に美しい婚約者サリー・ジョベール(1985年のミス・インターナショナルの準ミス)がずっと帯同していた(のち婚約解消)。
ヘルメット
[編集]15歳のノービス時代から日本のアライヘルメットを愛用しており、レプリカモデルのヘルメットがファンやホンダ車ユーザーの人気を集めた。このデザインは元々SHOEIやBELLがOEM生産していたUSホンダ[12]の純正アパレルブランドHONDALINE HELMETSの商品の一つであったが、1980年にHONDAと契約したスペンサーはそのヘルメットのカラーリングで1981年頃から世界GP125CCクラス等に出場した。直後にデザインバランスが修正され、所詮アメリカホンダカラーの為、80年代のオーストラリアのマルコム・キャンベル(Malcolm Bruce Campbell)等他のプロライダーにも使用例があったが、スペンサーは成績を上げ国際的な名声を得たため、アライのスペンサーレプリカとして世に広まった。グラフィックデザイナーは当時アライヘルメットの米山氏。のちに独立し、スタジオ・コメを開設している。有名な所では平忠彦氏や佐藤琢磨選手[13]。初期は白地に頭頂部が赤、青ラインのトリコロールで、1985年から白地に頭頂部が紺、赤ラインのロスマンズ用カラー、1989年ヤマハ移籍時の白地に頭頂部が赤、黒ラインのマルボロロゴ入りカラーなどの変遷があった。2015年現在でもスペンサーのレーシングスーツメーカーの南海部品の発注で最新モデルの帽体のモデルや、同じカラーリングのジェットヘル等も販売されている。
人物
[編集]フレディは敬虔なモルモン教徒である。1983年シーズン半ばにある雑誌のインタビューに次のように語っている。
「僕の走り自体は神にすべてコントロールされている。僕は神に守られているのだ。そこには恐怖心など何もない。ただ、ひたすら神を信じて走ればいいだけのことなのだ」(フレディ・スペンサー)[14]
主な戦績
[編集]ロードレース世界選手権
[編集]- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
鈴鹿8時間耐久ロードレース
[編集]年 | 車番 | ペアライダー | チーム | マシン | 予選順位 | 決勝順位 | 周回数 |
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1980 | 8 | バージニオ・フェラーリ | アメリカ・ホンダ | ホンダ・RS1000 | 11 | Ret | 3 |
1992 | 33 | 鶴田竜二 | ミスタードーナツ・オクムラ・ホンダ | ホンダ・RVF750 | 3 | 4 | 204 |
脚注
[編集]- ^ a b 20歳5ヶ月での初PPと20歳7ヶ月での初勝利は当時の最年少記録。2013年にマルク・マルケスが両記録とも20歳3ヶ月で達成し更新。
- ^ それまでの最年少記録はマイク・ヘイルウッドの22歳(1962年シーズンに達成)で、2007年シーズンにはケーシー・ストーナーが21歳11ヶ月で達成している。
- ^ 前年の雨中のダッチTT(オランダGP)でオープニングラップに後続から来たクリスチャン・サロンの無理な突っ込みによる転倒に巻き込まれ、受け身を取れず右手首を転倒したマシン(ソノート・ゴロワーズ・ヤマハYZR500)に挟まれるという不遇に遭ったことが、後々の腱鞘炎に発展したとの説がある[誰によって?]
- ^ その予選タイムは翌年のケビン・シュワンツよりも速かった。
- ^ 『グランプリ・ライダー』(p239)より。
- ^ “1999 Suzuka 8 Hours”. www.honda.co.jp. 2021年3月21日閲覧。
- ^ Sports, Dorna. “Spencer appointed Chairman of the FIM MotoGP™ Stewards Panel” (英語). www.motogp.com. 2021年3月17日閲覧。
- ^ 『片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』(p129, p130)より。
- ^ 『片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』(p121)より。
- ^ 『片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』(p163, p164)より。
- ^ 1983年当時、冷蔵庫にはドクターペッパーがぎっしり入っていた —『グランプリ・サーカス』〈ちくま文庫〉(p245)より。
- ^ “スペンサーカラーには銀×青もあった! 40周年に発売”. young-machine.com (2018年5月10日). 2023年1月25日閲覧。
- ^ “ヘルメットのオリジナルデザイン・ペイント スタジオ コメ”. www.studiokome.com. 2024年8月13日閲覧。
- ^ 『天駆ける』(p134)より。
参考文献
[編集]- 泉優二『グランプリ・ライダー』〈ちくま文庫〉筑摩書房、1993年9月22日 第1刷発行、ISBN 978-4480027788
- 泉優二『グランプリ・サーカス』〈ちくま文庫〉筑摩書房、1993年8月24日 第1刷発行、ISBN 978-4480027467
- 泉優二、竹島将『片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』CBS・ソニー出版、1984年4月21日 発行、ISBN 978-4789701358
- 片山敬済『天駆ける - 速く走りたい魂を持った君たちへ』〈COSMO BOOKS〉コスモの本、1991年8月21日 第1刷発行、ISBN 978-4906380176