ベニート・ムッソリーニ
ベニート・ムッソリーニ Benito Mussolini | |
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イタリア王国 首席宰相及び国務大臣 (国家指導者) | |
任期 1925年12月24日 [注 1] – 1943年7月25日 | |
君主 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 |
前任者 | 自身(第59代首相) |
後任者 | ピエトロ・バドリオ |
第59代イタリア王国首相 (閣僚評議会議長) | |
任期 1922年10月31日 – 1943年7月25日 | |
君主 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 |
前任者 | ルイージ・ファクタ |
後任者 | 首席宰相及び国務大臣へ改組 |
イタリア帝国元帥首席 (大元帥・統帥権) | |
任期 1938年3月30日 – 1943年7月25日 | |
前任者 | 創設 (エマヌエーレ3世と共同就任) |
後任者 | 廃止 |
初代イタリア社会共和国統領 | |
任期 1943年9月23日 – 1945年4月25日 | |
前任者 | 創設 |
後任者 | 廃止 |
国家ファシスト党統領 | |
任期 1921年11月9日 – 1943年7月27日 | |
共和ファシスト党統領 | |
任期 1943年9月18日 – 1945年4月25日 | |
個人情報 | |
生誕 | 1883年7月29日 イタリア王国 エミリア=ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県プレダッピオ市ドヴィア地区 |
死没 | 1945年4月28日(61歳没) イタリア社会共和国 ジュリーノ・ディ・メッゼグラ |
死因 | 処刑(銃殺刑) |
国籍 | イタリア人 |
政党 | イタリア社会党 (1901-1914) 自発的革命行動ファッショ (1914) 革命行動ファッショ (1914-1919) イタリア戦闘者ファッシ (1919-1921) 国家ファシスト党 (1921-1943) 共和ファシスト党 (1943-1945) |
協力政党 | 国民ブロック (1921-1924) 国民リスト (1924-1926) |
配偶者 | イーダ・ダルセル ラケーレ・グイーディ |
子供 | アルビーノ ヴィットーリオ ブルーノ ロマーノ エッダ アンナ・マリア |
出身校 | フォルリンポーポリ師範学校修了 |
職業 | 教師、新聞記者、政治家、軍人、独裁者 |
宗教 | カトリック(形式上) 無神論者 |
称号・勲章 | 聖アヌンツィアータ勲章 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章 マルタ騎士勲章 バス勲章 ドイツ鷲勲章 大勲位菊花大綬章 |
署名 | |
兵役経験 | |
所属国 | イタリア王国 |
軍歴 | 1914-1945 |
最終階級 | 軍曹(第一次世界大戦) 大元帥(第二次世界大戦) |
戦闘 | 第一次世界大戦 第二次世界大戦 |
ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(イタリア語: Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリアの政治家、独裁者。
イタリア社会党で活躍した後に新たな政治思想ファシズムを独自に構築し、国家ファシスト党による一党独裁制を確立した。
概要
[編集]王政後期のイタリア政界でイタリア社会党(PSI)の政治家として活躍、第一次世界大戦従軍後に同じ退役兵を集めてイタリア戦闘者ファッシおよび国家ファシスト党(PNF)を結党し、そのドゥーチェ(統領)となる。イタリアの政治学者ジョヴァンニ・アメンドラの全体主義、フランスの哲学者ジョルジュ・ソレルの革命的サンディカリスムなど複数の政治思想を習合させ、新たな政治理論としてファシズム(結束主義[1])を構築した。国家ファシスト党によるローマ進軍によって首相に任命され、1925年1月3日の議会演説で実質的に独裁体制を宣言し、同年12月24日に従来の首相職[注 2]より権限の強い「首席宰相及び国務大臣」[注 3](イタリア語: Capo del governo primo ministro segretario di Stato)を新設し、同時に複数の大臣職を恒久的に兼務することで独裁体制を確立した。
1936年5月5日、ムッソリーニがエチオピア帝国の併合を宣言するとローマの群衆は「イタリア万歳」「ムッソリーニ万歳」の声で称えた。征服によりヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王(サヴォイア家)が帝位を兼ねる[2]と(イタリア植民地帝国)、「帝国の建国者(イタリア語: Fondatore dell'Impero、フォンダトーレ・デッリンペーロ)」という名誉称号をサヴォイア家から与えられた[3]。サヴォイア家の指導下にあった軍の掌握にも努め、大元帥(帝国元帥首席)に国王・皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と共同就任して統帥権を獲得した。十数年にわたる長期政権を維持していたが、明暗を分けたのは第二次世界大戦に対する情勢判断であった。当初、第一次世界大戦のような塹壕戦による泥沼化を予想していたことに加え、世界恐慌による軍備の脆弱化から局外中立を維持していた。だが一か月間という短期間でフランスが降伏に追い込まれる様子から、準備不足の中で世界大戦への参加を決断した[4]。
1943年7月25日、連合国軍の本土上陸に伴う危機感からファシスト党内でクーデターが発生して失脚し、一時幽閉の身となったが、後にナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの命令によって救出された。胃癌により健康状態が悪化していたために一旦は政界から引退したが、ロベルト・ファリナッチと対立したヒトラーの要請によって表舞台に復帰した。以後、ドイツの衛星国として建国されたイタリア社会共和国(RSI)および共和ファシスト党(PFR)の指導者を務めるが、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚する。1945年4月25日、連合国軍に援助されたパルチザンに拘束され、法的裏付けを持たない略式裁判によりメッツェグラ市で銃殺された。生存説を退けるために遺体はミラノ市のロレート広場に吊されたのち、無記名の墓に埋葬された。
終戦後にネオファシストや保守派による正式な埋葬を求める動きが起き、カトリック教会によって故郷のプレダッピオに改葬された。現代イタリアにおいても影響力を持ち、共和ファシスト党(PFR)を事実上の前身とするネオファシスト政党「イタリア社会運動」(MSI)、MSIが合流した国民同盟(AN)、自由の人民(PdL)、イタリアの同胞(FdI)などが国政で議席を獲得している。
生涯
[編集]少年時代
[編集]出自
[編集]1883年7月29日、ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)はサヴォイア朝イタリア王国エミリア=ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県の県都フォルリ近郊にあるプレダッピオ市ドヴィア地区に、鍛冶師アレッサンドロ・ムッソリーニと教師ローザ・ムッソリーニの長男として生まれた[5][6]。メキシコ合衆国の初代大統領で独立の英雄のベニート・フアレスにちなんでベニート、親しい間柄にして尊敬する国際主義的な革命家であったアミルカレ・チプリアニにちなんでアミルカレ、イタリア社会党の創設者の一人であるアンドレア・コスタにちなみアンドレーアとそれぞれ父の尊敬する人物の名前をもらっている[7]。三人兄妹の長兄として二人の弟妹がおり、次弟はアルナルド、長妹はエドヴィージェという名であった[8]。
ムッソリーニという家名はブレダッピオでよく見られるもので、現在でも同地にはムッソリーニ姓を持つ人々が複数居住している[9]。家系については少なくとも17世紀頃にはロマーニャに農地を持つ自作農として教区資料に記録されている[10]。父方の祖父ルイジ・ムッソリーニも小さな土地を開墾する農民であったが、若い時は教皇領の衛兵でもあった[11]。ほかにムッソリーニ家はボローニャで織物(モスリン)を扱う商家であったとする記録も残っている[12]。それ以前の祖先の出自については著名人の常として多様な説が提唱されているが、一番信憑性があるのは13世紀頃からボローニャからロマーニャへ落ち延びた貴族の末裔という説である[13]。独裁者として君臨した際には権威づけのために多くの学者や側近がこの説を裏付ける努力をしたが、当のムッソリーニはそうした権威の類には興味を持たなかったようである[14]。ムッソリーニは自身が農民や商人の子孫であり、鍛冶屋の子であることを誇りにしていた[15][12]。
父アレッサンドロは熱心な社会主義者で第二インターナショナルのメンバーであり[5]、社会主義と無政府主義と共和主義が入り混じった独特な思想を持っていた[16]。祖父ルイジが農地を失ったために鍛冶屋へ奉公に出され、やがて一人前の鍛冶師となって生計を立てた。貧しい生まれながら独学で読み書きなど教養を身に着け、1889年にプレダッピオ市議会の議員に選出されて以来、一度の落選を挟んで1907年まで市会議員や助役を務めている。幼い時から父の助手として鍛冶仕事を手伝う生活を送ったこともあって[17]、ムッソリーニは父から強い影響を受けて社会主義と、第一インターナショナルにも参加していたジュゼッペ・ガリバルディやジュゼッペ・マッツィーニら愛国主義的な共和主義に傾倒し[18]、後年にもムッソリーニは王政打倒とイタリア統一の両立を目指したガリバルディたちを賞賛する発言を残している[16]。父から受け継いだ「政治の目標は社会正義の実現である」という政治的信念は生涯変わらなかった[19]。
母ローザはプレダッピオに小学校が建設された時に同地へ赴任した教師で、教育環境の向上を訴えて小学校建設にも協力していたアレッサンドロと知り合い、やがて結婚した。アレッサンドロは無神論者であったのに対して、ローザは敬虔なカトリック派のキリスト教徒であったので、教会と対立していた当時のイタリア王国の習慣に基づいて民事婚と教会の結婚式を二度行っている[20]。母ローザから強制されたカトリックへの帰依はムッソリーニにとって苦痛であり、母と同じく教会に通っていた弟アルナルドに対して、むしろ父と同じ無神論を選択していた[21]。
教会との対立
[編集]少年期のムッソリーニは喧嘩っ早い性格で、腕っ節の強さで村の少年たちのリーダーになっていた[21]。しかし性格自体は寡黙で、後年もそうであったように周囲に心を開かず、仲間と群れることを嫌って一人で行動することも多かった[22]。勉学の面では教養深い両親の間に生まれ、田舎町の生まれでありながら正確な標準イタリア語を話すことができた[22]。長男が教会を嫌うことは敬虔な母ローザの悩みの種であったが、プレダッピオに建設された義務教育部分のみを担当する二年制学校で勉学を終わらせるのは惜しかったこともあり、ファエンツァにあるサレジオ修道会系のイスティトゥート・サレジアーノ寄宿学校[23]で勉学を継続した[22]。寄宿学校ではラテン語や神学などを学んだが、この時期はムッソリーニにとって最悪の時期であった。
イスティトゥート・サレジアーノ寄宿学校では学費の大小によって生徒の待遇が異なり、庶民(下層民)・平民・貴族によってクラスが分けられ、寝食など全てで差別されていた[23]。ムッソリーニは「社会の不公平さ」を実感し、また偽りの平等を説く教会を憎んだという。教師の側もムッソリーニを警戒し、風紀委員を通じて監視下に置いていた。こうした状況から学業成績こそ「鋭敏な知性や記憶力に恵まれている」「どの科目も一読するだけで暗記している」「試験成績では他の生徒を圧倒している」と高く評価されていながら、学校から脱走し、教師にインク瓶を投げつけ、上級生をナイフで刺し、堅信礼やミサを妨害する問題児になっていった[23][24]。手に負いかねた修道会は五年生の時に退校処分とし[注 4]、ムッソリーニはフォルリンポーポリにあった宗教色のないジョズエ・カルドゥッチ寄宿学校に転校した[25]。後に父アレッサンドロは修道会に学費を払うことを拒否して裁判になっている[24]。
転校した寄宿学校はノーベル文学賞を受賞したイタリアを代表する詩人ジョズエ・カルドゥッチの名を冠した無宗教式の寄宿学校で、彼の実弟であるヴァルフレード・カルドゥッチが校長を務めていた。カルドゥッチ兄弟はムッソリーニ親子と同じく共和主義と愛国主義の両立を政治的信念としていて、またイタリア統一の障害となった教会を嫌う世俗主義者でもあった。ムッソリーニは父との会話で自身の居場所を見つけたと報告し[26]、以前とは一転して優秀な成績を収めて卒業した[26]。卒業後は周囲の勧めから、下層階級にとって最も身近な栄達の手段であった教員免状を取得すべく、同じカルドゥッチ一族が運営するフォルリンポーポリ師範学校の予備課程に入校した。
師範学校への入学
[編集]予備課程(師範予備学校)は三年制であり、卒業生は四年制の師範学校に編入する資格が与えられた[27]。学費を節約するために寮には入らず、平日は町の民家に下宿して、休日はロバで父と実家に戻る生活を送っていた。師範予備学校一年生の時には第一次エチオピア戦争の敗北という衝撃的な事件が起き、学内も騒然となった[27]。この時、ムッソリーニは社会主義者としての植民地戦争への反対よりも、愛国主義者として国家の威信が辱められたことへの憎悪が勝り、学内で行われた戦死者への追想集会では「我々が死者の復讐を果たすのだ!」と演説している[27]。1898年、師範予備学校を修了して師範学校の正規課程に進んだ[27][17]。
師範学校時代は一定の成績は維持していたものの、以前ほど抜きんでた成績を取ることはなく、教員課程より読書に没頭する日々を送った[27]。相変わらず周囲との交流も嫌って孤独を好み、しばしば師範学校の鐘楼に登って哲学、政治学、歴史学を中心に様々な分野の書物を読んでいた。一方で政治集会が開かれる際には雄弁に持論を語り、説得力ある演説家として一目置かれていた。学内では穏健な世俗派としてイタリア共和党を支持する者が多く、彼らはそれを共和党員を示す黒いネクタイを身に着けていたが、ムッソリーニはより急進的なイタリア社会党の支持者として赤いネクタイを身に着けていた[28]。
師範学校の最終学年では再び好成績を上げるようになり、選考を経て奨学金300リラを学校側から送られるなど優等生として扱われた[28]。校長ヴァルフレードも兄ジョズエに自慢の生徒として紹介し[29]、1901年1月27日にフォルリンポーポリで開かれたジュゼッペ・ヴェルディを追想する市民集会に師範学校代表として演説する機会を与えている[30]。ここでムッソリーニは本来の予定にはなかったイタリア統一の大義と、同時にその理想を実現できない王国政府を非難する政治演説を行い、市民から喝采を浴びている。この演説は話題を集め、イタリア社会党の機関誌『アヴァンティ』にムッソリーニの名前が掲載された小さな記事が載り、最初の政治的名声を得ることになった[30]。
1901年7月8日、ムッソリーニは師範学校を首席卒業し[31]、政府から教員免状を付与された[6][7]。
青年時代
[編集]ファシズム |
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スイス放浪
[編集]政治経歴からすぐには赴任先が決まらず苦労するが、やがてイタリア最大の川であるポー川のほとりにあり、イタリア社会党の町長が選出されているグァルティエリという町に赴任することになった[32]。町での教師としての評判は上々で、イタリア社会党の集会でも演説役を任されている[33]。しかしこのまま田舎町で過ごすことに嫌気が差してか、見聞を広めるべく教師を退職してスイスに移住した[5]。スイスでは土木作業や工場労働で生計を立てる日々を送り、貧しさから橋の下や屋根裏部屋に寝泊りしたこともあった。不安定な放浪生活と引き換えに「ヨーロッパの小さなアメリカ」であるスイスで様々な人々から知遇を得ることができた。
その中で特筆されるのはウラジーミル・レーニンの秘書を務めたウクライナ人女性アンジェリカ・バラバーノフとの出会いであった[34][35]。当時から難解さを知られていたマルクス主義を完全に理解できている人間は社会主義者や共産主義者の間ですら限られていた。ムッソリーニは狂信的なマルクス主義者であるバラバーノフからマルクス主義の教育を受け、社会主義理論についての知識を得た[34]。またレーニン自身もムッソリーニの演説会に足を運んだことがあった[34]。レーニンはムッソリーニを高く評価し、後にイタリア社会党が彼を除名した際には「これでイタリア社会党は革命を起こす能力を失った」「あの男を追放するなんて君らはバカだ」とまで叱責している[36]。レフ・トロツキーも同時期のレーニンと同行していて、ムッソリーニと面識があったとする説もある[37]。
放浪中の生活体験はイタリア語とともに話されているドイツ語・フランス語などの多言語能力を習得する良い機会にもなった[38]。語学を生かして様々な文献を読み漁ってジョルジュ・ソレル、シャルル・ペギー、フリードリヒ・ニーチェ、エルネスト・ルナン、ギュスターヴ・ル・ボンらの思想を学び[39]、ローザンヌ大学の聴講生としてヴィルフレド・パレートらの講義に出席するなど、政治学への興味と教養を高めていった[40]。特にソレルの思想には多大な影響を受け、後に「ファシズムの精神的指導者」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」とまで賞賛している[5][5][41]。ムッソリーニは本格的に政治運動へのめり込み、スイスのイタリア語圏で労働運動に加わった[42]。ローザンヌでイタリア系移民による労働組合の書記を務め、イタリア社会党系の機関紙『ラッヴェニーレ・デル・ラヴォラトレーレ(労働者の未来)』の編纂に参加し、アメリカ合衆国内のニューヨーク党支部の機関誌『プロレタリアート』からも依頼を受けて寄稿している[43]。
1903年、チェゼーナの農学校を卒業した弟アルナルドとスイスで同居するようになり、二人でイタリア語教師として働いたり記事を執筆したりしていた。同年に発生した大規模なゼネストに参加してスイス警察にマークされ[44]、1904年4月、ローザンヌ市滞在中に書類偽造の容疑で拘束されて国外追放処分を受けるが[42]、イタリア社会党だけでなくスイス社会党も反対運動を展開したために滞在が急遽許可された[40]。この時に右派系の新聞から「ジュネーブにおけるイタリア社会党のドゥーチェ(統領、指導者)」と批判的に呼ばれた。程なくこの「ドゥーチェ」という綽名は好意的な意味合いで彼を指す際に用いられるようになった[45]。徴兵義務期間を海外で過ごしたことを理由に今度はイタリアで欠席裁判による禁固刑が宣告されたが、サヴォイア家の跡継ぎとなるウンベルト2世の誕生を祝って恩赦が布告された[46]。
帰国後の活動
[編集]1905年1月、イタリアに帰国したムッソリーニは自ら兵役に応じると申し出て、王国陸軍の第10狙撃兵(ベルサリエーリ)連隊に配属された。入隊間もない1905年2月17日、母ローザは危篤状態となり急遽プレダッピオに戻ったが、2日後の2月19日に亡くなった。軍隊では反体制派の人物としてその真意が疑われて監視を受けたが、間もなく模範兵として評価されるようになる[47]。兵役の間も勉学を続け、ドイツロマン主義、ドイツ観念論、ベルグソン、スピノザについて研究した。1906年9月、兵役を終えて除隊し、オーストリアとの国境に近いヴェネツィア北東の小さな町トルメッツォで教師に復職した。1907年11月、中等教育課程の教員免状を取得すべくボローニャ大学で筆記試験と口頭試問を受け、合格して外国語(フランス語)の教員免状を取得した[48]。
1908年3月、ジェノヴァ近郊のオネーリアにある寄宿学校からフランス語教師として雇用され、歴史学と国語・地理学も担当した[49]。政治活動ではオネリア社会党支部の地方機関誌『ラ・リーマ』の編集長に抜擢され[50]、王政支持者の新聞『リグーリア』と激しい論戦を交わす一方、愛国小説として名高い『クオーレ』の作者エドモンド・デ・アミーチスの功績を讃える記事を執筆している[49]。兵役後から暫くは理論家(イデオローグ)としての活動が目立っていたが、やがて直接行動にも身を投じた。1908年後半に政府に自身を監視するように挑発的な文章を『ラ・リーマ』に掲載し、そのまま故郷のプレダッピオを含むロマーニャ地方での革命的サンディカリスム(急進組合主義)が扇動した農民反乱に参加した。暴動の中で脅迫や無許可の集会などを理由に三度警察に拘束されている[51]。1909年2月、ドイツ語を話せたことからイタリアを離れてオーストリア領トレント党支部の労働会議所に派遣され、また機関紙『労働者の未来』へ編集長として復帰した[52]。
未回収のイタリアの一角を占めながら、イタリア系住民の運動がさほど組織化されていなかったトレントでムッソリーニは政治運動を展開し、半年の間に100本以上の記事を掲載するという猛然たる勢いで反オーストリア・反カトリック・反王政を説く左派的な民族主義を喧伝し、キリスト教民主主義のイタリア語新聞『トレンティーノ』を「オーストリア政府の手先」として非難した。熱烈な扇動によって『労働者の未来』の購読者は大幅に増え[52]、オーストリア政府から発禁処分を受けている[53]。この時、ムッソリーニと対峙した『トレンティーノ』の編集長はイタリア共和国の初代首相となるアルチーデ・デ・ガスペリであった[54]。1910年、トレントでの功績を引っ提げて帰国するとミラノ市の党本部からフォルリ=チェゼーナ県党支部の新しい機関誌の設立を任され、『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ(階級の闘争)』紙を出版した[55]。
この頃からムッソリーニは社会党の政治活動に専念するようになったが、全面的に社会党の路線を支持しているわけではなかった。元々ムッソリーニは少年期から多様な思想を学んでいたことから教条的な政治家ではなく、積極的に他の思想を取り込んでいく政治的シンクレティズムを志向する政治家となっていた。一例を挙げれば反平等主義的な選民主義を説いたフリードリヒ・ニーチェから選民主義と反キリスト思想の影響を受けている[56]。ニーチェの選民思想は明らかに社会主義の一般的な理念から離れており、ニーチェに理解を示すムッソリーニは社会主義者にとって異端の存在であった[56]。ムッソリーニは(社会主義の一派である)マルクス主義の決定論や社会民主主義の改良主義の挫折によって社会主義全体が道を失い始めていると感じており、ニーチェの思想による社会主義の補強を試みた[56]。また先に述べたように、ソレル主義に代表される革命的サンディカリスムにも接近していた[57]。
イタリア社会党での台頭
[編集]ムッソリーニは社会党指導部が掲げる社会民主主義に基づいた議会制民主主義には、特に明確な反対姿勢を持っていた。党内穏健派の下院議員レオニーダ・ヴィッソラーティが政権関与の代償に共和制移行を棚上げする行動に出たことでその不信は決定的となった。ムッソリーニはヴィッソラーティの解任を求める論説を『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ』に掲載して、要求が拒否されるとフォルリ党支部の党員を率いて離党した。党指導部に急進派を切り崩されたために追随する支部は現れず、孤立する結果となってしまったムッソリーニ派を救ったのがイタリア・トルコ戦争であった[58]。
1911年に勃発したイタリア・トルコ戦争に対しては、右派も左派も政府との協力体制を望んで植民地戦争に好意的な姿勢を採っていた。そうした中で、ムッソリーニのみが不毛な植民地戦争から腐敗した国内体制の打倒に転じさせるべきだという主張を貫き、政府との協調路線に傾斜する指導部に不満を持っていた社会党員内での再評価に繋がっていった。ムッソリーニは民族主義に肯定的だったが、今の政府は戦争を使って内政から目を逸らさせようとしているに過ぎないと見抜いていた。『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ』における論説でナショナリストは海外ではなくまず祖国を征服すべきだと訴え、「プーリアに水を、南部に正義を、あらゆる場所に読み書きを」と主張した[58]。政府からの監視と投獄にも臆さずに批判を続け、反政府運動と指導部批判で再び頭角を現した[59][60]。
党指導部は勢い付いた反対派を抑えるべく、ムッソリーニとフォルリ党支部の党籍復帰を認めて反政府運動に舵を切った。党内での社会民主主義者や改良主義者といった穏健派は主導権を失い、急進派が党内で力を付けていった。その立役者であるムッソリーニは未だ30歳にもなっていなかったが、レッジョ・エミリアで開かれたイタリア社会党の第13回全国党大会では急進派の指導者として演説し、完全に党員の心を掌握した。周到な利害調整で中立派の幹部党員もムッソリーニ支持に動き、党大会で改良主義の追放を求める動議が多数の支持を受けて可決され、ヴィッソラーティやイヴァノエ・ボノーミら党指導部の改良主義者は立場を失って離党した[61]。党大会後は南イタリア各地を訪問し、経済的格差に苦しむ南部の救済を重要な政治的テーマとするようになった[62]。
1912年12月1日、ムッソリーニは刷新された党指導部から改良主義派であった下院議員クラウディオ・トレヴィスに代わり、党中央の日刊紙であり最大の機関誌である『アヴァンティ』編集長に任命された[59]。『アヴァンティ』編集長は党全体の政策決定について意見する権利もあり、党指導部の一員となったに等しかった[62]。大衆運動において議会より宣伝を重んじていたムッソリーニは、編集長着任から2年足らずで『アヴァンティ』の発行部数を2万部から10万部にまで急増させた[59]。『アヴァンティ』紙面では社会民主主義ではなく革命的サンディカリスムの論調が展開され、急進派による党の改革を推し進めていった[62]。党を掌握した若手政治家に古参幹部の間では嫉妬や危険視する意見が上がり、改良主義派はもちろん、当初は協力していたアンジェリカ・バラバーノフら革命派からもムッソリーニを抑えようとする動きが出始めた。
1913年5月、革命サンディカリスト系のイタリア労働組合連合(USI)によるゼネストを支持し、逆に社会党系の中央組合組織を紙面で非難して穏健派から反党行為で解任決議が出されたが、一般党員の激しい反発で決議は取り下げざるを得なくなった[63]。加えて初めての男子普通選挙である1913年イタリア総選挙で急進派が主導する社会党が躍進し、17.6%の得票を得て第三党に躍り出たことからムッソリーニの権威は党内で不動のものとなった[63]。ムッソリーニ自身は議会政治そのものを軽視していたことから議会選挙には大して熱意を払わず、当選が確実であったミラノ選挙区の補欠選挙に出馬を請われると亡命中であった父の盟友チプリアニを代わりに推薦して実質的に拒否している[63]。彼はあくまでも多数の合議ではなく、少数の政治的エリートが指導する体制でしか理想社会の建設はありえないという姿勢を崩さなかった。
第一次世界大戦
[編集]社会党除名
[編集]1914年、帝国主義的な利害衝突の果てに第一次世界大戦が勃発した際、各国の社会主義者は祖国の戦争遂行に必ずしも反対しなかった。そればかりか幾つかの組織は戦争への参加を歓迎すらした[64]。一部の社会主義者の間では愛国心や自国社会の防衛などから、他国に対する戦争に賛同する動きが展開された(社会愛国主義、社会帝国主義)。ドイツ、フランス、イギリス、ロシア、オーストリア・ハンガリーで高まる国家主義の流れに加わるこうした社会主義者たちが現れていた[65]。イタリアでは熱狂的な民族主義者である詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオがイレデンティズムを掲げて参戦運動の先頭に立ち[66]、自由主義政党のイタリア自由党がダンテ・アリギエーリ協会と共に参戦運動を行っていた[67][68]。また戦争を賛美する未来派の詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティは国際行動参戦ファッショを組織したが、これは政治用語としてファッショ(結束)というスローガンが用いられた最初の例となった。
その中でイタリア社会党を中心とする社会主義系の諸派は参戦主義と平和主義に分かれて対立した状態に陥っていた[69]が、主流派でありムッソリーニが属する社会党は開戦前夜に戦争反対を議決してゼネストと暴動を決行した(赤色の一週間)[70]。ムッソリーニは戦争が民族意識を高めると好意的に見ていたが[71]、国力や軍備に不足があると考えていたこともあり[注 5][72]、党幹部として一旦はこの決定に従った[73]。サンディカリスト、共産主義者、共和主義者、アナーキストまで全ての革新勢力が社会党に助力したこの暴動は軍によって鎮圧された。イタリア社会党には腐敗した旧体制を一変させる組織力や気概がないという懸念が証明されてしまい、ムッソリーニも暴動は混沌を生んだだけだと指摘している[74]。
同年の夏に大戦が始まるとイタリアは局外中立を宣言した。左派内では革命的なサンディカリストの勢力が革命行動ファッショを結成して積極的に参戦を訴えたが、イタリア社会党は社会愛国主義の広がりによって欧州で挫折しつつあった国際主義と反戦主義を未だに主張していた[75]。1914年10月18日、ムッソリーニは社会党の路線を見限って『アヴァンティ!』に参戦を主張する長文論説「絶対的中立から積極的効果的中立へ!」を発表、党内で持論を説き始めた[71]。
ムッソリーニはオーストリアやハプスブルク王朝との戦いをイタリアの宿命とする国家主義・民族主義者の主張を支持し[73]、ハプスブルク家(およびホーエンツォレルン家)を中心とする中央同盟を「反動的集団」として糾弾することで社会主義者の参戦運動を正当化した[76]。ムッソリーニを含めたイタリアの反教権的社会主義者にとってはバチカンが親オーストリア=ハンガリー帝国であるという通念もあった[77]。また封建的なハプスブルク家やホーエンツォレルン家、更にはオスマン帝国のスルタン制を崩壊せしめることは異国の労働者階級を解放することに繋がり、国際主義的にも社会主義を前進させられると主張した[76]。連合国にも封建的なロシア帝国のロマノフ家が含まれているという反論には、「戦争による動員が君主制への権威を削ぎ落し、同地の社会主義革命を後押しするだろう」と返答している。
10月20日の党中央委員会で論説の否決に対して『アヴァンティ!』編集長を辞任した[78]。11月18日、独自に社会主義日刊紙『イル・ポポロ・ディターリア』を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開した[78]。同紙は発行部数8万部に達した。資金源には様々な噂や中傷が飛び交い、ボローニャの日刊紙イル・レスト・デル・カリーノ編集長フィリッポ・ナルディや[78]、ゼネラル・エレクトリック、フィアット、アンサルディといった大資本[78]、さらにはイタリアへの参戦工作を行っていたフランス・イギリス政府からの資金援助、そして当時の外相アントニーノ・カステロ (サン・ジュリアーノ侯爵)からの援助があったと見られている。11月24日、イタリア社会党はムッソリーニに除名処分を行った[78]。
参戦運動
[編集]参戦論への転向はしばしば「経済的理由」「栄達への野心」などが理由であると批判的に語られるが、実際には戦争を革命(現体制の転覆)に転化するというこれまで通りの思想のためであったと歴史家レンツォ・ディ・フェリーチェは指摘している[78]。そもそもムッソリーニは最初から民族主義者にして参戦論者であり、現実的な軍備や外交を見て反対していたに過ぎない[72]。日和見主義という批判はムッソリーニの離党後の混乱に危機感を抱いた社会党指導部の中傷による部分が大きいと考えられている。事実、ムッソリーニ除名前の1914年には5万8326名が存在した社会党員はたった2年後には半数以下の2万7918名にまで急減している[79]。これは祖国の戦争について「支持も妨害もせず」という空虚なスローガンで乗り切ろうとした社会党に不満を持っていったのはムッソリーニだけではなかったことを示している[79]。
もしイタリア社会党が社会愛国主義を掲げて参戦論を主導すれば政権を得ていた可能性すらあった[79]。レーニンが指摘するようにイタリア社会党は革命を起こす機会を自ら捨ててしまった。
社会党除名後もムッソリーニは基本的な政治的立場は革新主義であるという立場を維持し[78]、先述の「革命行動ファッショ」という「革命」という言葉を冠した組織(ファッシという言葉は社会党時代にも使っていた)に加わって参戦運動を展開した。これが戦後に設立された「イタリア戦闘者ファッシ」の土台となる。社会党指導部の誹謗中傷に対してもムッソリーニは毅然と対決姿勢を見せ、時にはフェンシングによる決闘という古風な方法で対峙したことすらあった。その一人は因縁のあるクラウヴィオ・トレヴィスで、『アヴァンティ』編集長に復帰して『イル・ポポロ・ディターリア』と激しい論戦を繰り広げた末のことだった。死人が出かねない勢いでの両者の切り合いとなり、途中で仲裁が入って引き分けとなった[80]。
従軍
[編集]1915年5月24日、イタリアが秘密協定に基づいて連合国側で参戦すると、ムッソリーニは他の参戦論者たちの例(参戦論者の多くは持論の責任を果たすため、積極的に従軍した)に習い、徴兵を待たず陸軍へ志願入隊しようとした。政治経歴に加えて年齢が三十代前半になっていたことから入隊審査は長引いたが、この戦争が総力戦であるとの認識が広がると軍も思想や年齢を問うことはなくなり、1915年8月31日に念願の召集令状を受け取った[81]。より年上の参戦論者ではダンヌンツィオが52歳、かつての政敵で参戦論についてはムッソリーニに同調していたヴィッソラーティが58歳という高齢でそれぞれ従軍を許可されている。師範学校出身者は士官教育を受ける権利があったが、過激な思想を警戒するアントニオ・サランドラ首相の判断で認められなかった。
1915年9月3日、かつての兵役時代と同じくベルサリエリ兵として第11狙撃兵連隊第33大隊に配属され、厳寒のアルプスで塹壕戦や山岳戦を経験した。1915年11月15日、パラチフスを患ってベルガモの軍事病院へ後送されたが、翌月には前線へ戻った[82]。ムッソリーニは絶え間なく続く戦闘と砲撃の中で過ごし、前線の山岳戦闘や塹壕戦で勇敢な戦いぶりを示した。1916年3月、伍長に昇進してイソンヅォ戦線の南部に移動して斥候部隊に異動し、砲撃や機関銃の銃火を掻い潜りながら敵部隊の偵察任務に従事した。1917年2月、軍曹に昇進。上官の推薦状において「彼の昇進を推薦する理由は軍における手本とするべき行動――勇敢な戦い、落ち着き払った態度、苦痛に対する我慢強さ、軍務に対する熱意と秩序ある行動を見せたことによる」と称賛されている。過酷な塹壕戦が各国の兵士たちに連帯感を持たせ、思想や立場を超えて愛国心や民族主義が高まりを見せた。イタリアでは退役兵たちが全体主義を牽引した「塹壕貴族」(トリンチェロ・クラツィーア)の母体となった[83]。
1917年2月23日、ムッソリーニは塹壕内で起きた榴散弾の爆発事故で重傷を負った[59]。周りにいた兵士が死亡していることを考えれば奇跡的な生存であったが、ムッソリーニの全身には摘出できない40の砲弾の破片が残り、後遺症の神経痛に悩まされることになった[82]。負傷中の病院には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレが訪問しており、これが後の主君と宰相の最初の出会いとなった。共和主義者であるムッソリーニと不愛想で知られていた国王の会話は当初淡々としたものであった。見かねた軍医が間に入って治療の際にムッソリーニが麻酔を拒否して痛みに耐えたというエピソードを教えると、初めて国王は柔らかい笑みを浮かべて「健康になることを祈っている。イタリアには君のような人物が必要だ」とねぎらい、ムッソリーニも「有難うございます」と素直に答えている[84]。退院後は前線復帰を望んだものの、片足に障害が残ったことから一年間の傷病休暇を命じられた。
傷病兵としてミラノに滞在している間は『イル・ポポロ・ディターリア』の運営に戻り、チェコ軍団についての記事を執筆している。
ファシズム運動
[編集]イタリア戦闘者ファッシ
[編集]60万名以上の戦死者を出す熾烈な戦いの末、イタリア王国は戦勝国の地位とトレンティーノ、南チロル(アルト・アーディジェ)、ヴェネツィア・ジュリア、イストリア半島の併合を勝ち取った[85]。しかし国民はスラブ系とイタリア系住民が混淆したダルマチアの併合が民族自決論の前に阻まれたことを「骨抜きにされた勝利」と感じ、自国政府や旧協商国への批判を強めていた[85]。また英仏のような賠償金を獲得できず、大戦による戦費の浪費によって訪れた不況は労働者の間で社会主義の台頭を後押しした。ムッソリーニは戦勝で民族主義が高まる一方、社会不安が広がる情勢に危機感を抱いていた。1917年、ムッソリーニは参戦運動以来の繋がりがあったイギリス政府から初代テンプルウッド子爵サミュエル・ホーアを通じ、政界進出に向けた資金援助を受け始めた[86]。政治活動においてムッソリーニは「祖国に栄光を与える、精力的で断固たる態度を持った人物」の登場が必要だと説いた[87]。
ムッソリーニは主流派の社会主義に幻滅しており、後に「思想としての社会主義は既に死に絶え、悪意としての社会主義のみが残っていた」と回想している[88]。大戦後のイタリア社会党は国内情勢の不安定化やロシア革命の影響などから旧来の議会主義を軽視して、農村地帯での地主や資産家に対する暴動や略奪を指導したり、社会党系の労働組合に参加しない者を集団で排斥するなど政治的に先鋭化して反対勢力と武力衝突を繰り返していた。それでいて旧来の議会民主主義と改良主義を掲げる穏健派の離党を防ぐために革命や抜本的改革への意欲自体は乏しいという優柔不断な組織になっていた。後に社会党急進派から分派してイタリア共産党を結党するパルミーロ・トリアッティが「新しい社会への一歩ではなく、ただの無意味な暴力行使だと人々に受け取られている」と厳しい指摘を行っている[89]。
1919年3月23日、自身と同じ復員軍人や旧参戦論者を中心とする新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ」(Fasci italiani di combattimento、FIC)を設立し、200名が参加した[87](300名との説もある[77])。創設メンバーは左翼的色彩が強かったが[77]、支持基盤は先の農村地帯で社会党と対峙していた小地主(自作農)の保守派だった。中流階級である小地主たちは大戦に応召された時に下士官や将校などを勤めていた場合が多く、大戦中に率いていた退役兵たちを呼び寄せて自発的な自衛組織を作っていた。やがて退役兵でも特に勇猛を知られていたアルディーティ兵たちの黒シャツの軍服が共通の服装とされた。こうした農村部における自衛組織は「行動隊」として戦闘者ファッシに組み込まれ、運動の実力行使を担う準軍事組織として影響力を持った。
同年、FICを通じて開始されたファシズム運動の説明として、ファシスト・マニフェスト(ファシストについての宣言)を出版した。この宣言が出された初期段階のファシズムは国家サンディカリズム(国家組合主義)とフューチャリズム(未来派)の強い影響を受け、社会問題の解決を階級闘争ではなく階級協調に求める部分に特徴があった。幻滅を感じつつあった社会主義の「良い点」を取り込む姿勢もあり、ヴィルフレド・パレートの影響を受けるなど習合的な政治運動であった。ほかにアルディーティ兵のアナキスト的な価値観も行動隊を中心に継承されている。共和主義的な観点からは王権の縮小、上院の廃止、女性参政権、政教分離などを主張した。古典思想ではプラトンの「国家」が挙げられ[90]、一党独裁による寡頭支配についての理論的根拠となった。
こうした諸思想の中で最も多大な影響を与えたのは革命的なサンディカリストであったジョルジュ・ソレルの思想である。ムッソリーニはソレルを「ファシズムの精神的な父」と呼び、ソヴィエト連邦のヨシフ・スターリンと共に哀悼の意を表明している。
対外的な主張としては旧来のイレデンティズムを拡張した、生存圏理論の一種として地中海沿岸部の統合を目指す不可欠の領域が唱えられた[91]。ムッソリーニは資源に乏しいイタリアが不完全な大国から完全な大国となり、また膨大な失業者を救うには新規領土の獲得以外に方法はないと考えていた。イタリア民族にとっての父祖となるラテン人が作り上げた「ローマ帝国」を引き合いに出し、ヴェネツィア・ジュリアを筆頭とした地中海世界を今日の帝国(イタリア植民地帝国)が再統合する大義名分とした[92][93]。「不可欠の領域」に基づいた同化政策は政権獲得直後の1920年代、新規編入されたイストリアのスロベニア系住民と南チロルのオーストリア系住民に対して最初期にイタリア化政策として実施された。
ムッソリーニによるファシズム運動は革新的であり、保守的でもあった。こうした古典的な分類に収まらない政治運動を右派・左派ではなく第三の道(今日的な意味での第三の道とは異なる)と呼称する動きが存在した。
ジョリッティ政権との協力
[編集]イタリア戦闘者ファッシによるファシズム運動が開始されたが、当初ムッソリーニは創設者ながら積極的に組織運営に関与せず、部下に実務を任せていた[77]。1919年11月16日、設立年の年末に1919年イタリア総選挙が実施されたが、この時点ではまだ農村部の運動を十分に取り込んでおらず支持者は北イタリア、それもミラノなど都市部に限られていた[94]。同年の選挙ではイタリア社会党とキリスト教民主主義を掲げて結党されたイタリア人民党の競り合いに注目が集まり、「戦闘者ファッシ」は特に存在感を示せず、当選者は現れなかった[94]。集まった創設メンバーの90%が2、3年で脱退し[77]、党内の左派勢力が退潮していった。ムッソリーニ自身も党内右派の主張に舵を切り、政治主張から反教権主義を取り下げるなどの修正を加えた[95]。ただし後述するように、ムッソリーニ個人は社会主義者時代から晩年まで一貫してキリスト教を蔑視していた。また党内左派の主張を完全に捨てたわけではなかった。農村地帯の小作人による農地占拠に続いて都市部でも「工場占拠闘争」が始まると[94]、ストライキより過激なこの労働運動に条件付きながら協力を表明している[96]。
また選挙の結果は全てムッソリーニとファシズム運動にとって不利な訳ではなかった。保守派と革新派という違いはあっても人民主義を掲げ[注 6]、サヴォイア家によるリソルジメントを否定する二つの党[注 7]の躍進は、伝統的に政治を主導してきた自由主義右派・左派に著しい危機感を覚えさせた。このことはサヴォイア家や長老政治家たちがファシスト運動に力を貸そうとする動きを作り出した。第一党となった社会党は反教権主義からカトリック教会を後ろ盾とする人民党と連立が組めず、自由主義右派・左派とも妥協できずに最大政党ながら議会内で孤立して政権を獲得できなかった。また穏健派中心の議会勢力が拡大したことに急進派の反発も強まり、最大綱領派と呼ばれる最左翼勢力が離党してイタリア共産党を結成、パルミーロ・トリアッティ、アントニオ・グラムシ、ニコラ・ボムバッチらが参加した。残された社会党の穏健派(改良主義者)でも資本家と労働者の協力を説いたジャコモ・マッテオッティら最右派勢力が第三インターナショナルの批判を受けて除名され、統一社会党を結党して独自活動を始めた。こうして社会主義の大同団結から始まった旧イタリア社会党はマルクス・レーニン主義、社会民主主義、改良主義、ファシズムの潮流に分かれて衰退した[97]。
1919年9月、国政の混乱に乗じてガブリエーレ・ダンヌンツィオがフィウーメ自治政府(現リエカ)での伊仏両軍の武力衝突を背景に自治政府を転覆させる事件を起こした(カルナーロ=イタリア執政府)[94]。ダンヌンツィオが本国政府を動かすべく首都ローマへ執政府軍を進軍する動きを見せると、ムッソリーニは反乱を支持して戦闘者ファッシを戦力提供する密約を結び[98]、『イル・ポポロ・ディターリア』で呼び掛けて集めた義捐金300万リラを提供した[99]。しかしダンヌンツィオはムッソリーニとカリスマ的な民族主義の指導者という点では似通っていたが微妙に思想上の信念が異なり、盟友というより政敵という側面の方が強かった。政務面でも「政治は芸術である」を持論とするダンヌンツィオは長期的視野を全く持たず、その反乱は勢いを失えば無力であることをムッソリーニは知っており、ダンヌンツィオから催促の手紙が届くまでフィウーメでの会談には応じなかった[99]。
1920年6月、長老政治家の筆頭であるジョヴァンニ・ジョリッティ元首相が再び政府首班となると、富裕層攻撃の政策や社会党への懐柔工作によって農民や工場労働者の占拠闘争を終焉させた[100]。続いて国際社会との関係改善に乗り出すべくユーゴスラビアとイタリアの間でフィウーメ自由都市化を定めたラパッロ条約を締結したが[94]、この際にムッソリーニ率いるイタリア戦闘者ファッシは条約締結を一転して支持し、ダンヌンツィオ派を裏切る形となった。これ以外にも執政府内で条約を巡って対立が相次ぎ、足並みが揃わない状況を好機と見たジョリッティは軍による強制排除に乗り出し、12月24日の総攻撃でカルナーロ=イタリア執政府は崩壊した[94]。ムッソリーニは最初からジョリッティ政権と内通しており[98]、ジョリッティとの協力を通じてダンヌンツィオ派を国粋運動から排除しつつ、政府内への人脈を得るというマキャベリズム的な権謀術数であった。以降、ダンヌンツィオ派の国粋運動はファシズム運動の一翼という形で吸収されて消滅し、権威を失ったダンヌンツィオは二度と政界の主導権を握れなかった。
都市部の組織が政権との結びつきを深める一方、農村部では先述の自作農による民兵組織をイタリア戦闘者ファッシの行動隊として取り込み、組織立った形で社会党や小作人の農地改革を求める動きに対抗させていった。大規模農業が中心であり、故に小作人の支持を得る社会党が地盤としていたエミリア・ロマーニャ州などポー川流域では特に激しい衝突が繰り返された[94]。行動隊による「懲罰遠征」と称したテロが繰り返され、徐々に社会党組織の党勢は退潮していった。1920年11月、州都ロマーニャで社会党から選出された市長の就任式に銃で武装した行動隊が突入し、多数の死者が発生している[94]。仲裁する立場にある警察は社会党の反警察活動が仇となり[注 8]行動隊を支持してむしろ協力する姿勢を見せていた[94]。ポー川流域での勢力拡大を受けて、他の地域でもファシズム運動を支持する動きが広がり、ムッソリーニの政治的権威は益々高まっていった。
国家ファシスト党
[編集]1921年5月15日の1921年イタリア総選挙では与党の統一会派としてイタリア自由党、イタリア社会民主党、イタリア・ナショナリスト協会による国民ブロックが結党され、ジョリッティ政権の仲介でムッソリーニのイタリア戦闘者ファッシも国民ブロックに参加した[94]。国民ブロックは全体票の19.1%となる約126万票を獲得する勝利を得て、第1党のイタリア社会党と第2党のイタリア人民党に続いて第3党となり、自身もミラノ選挙区で当選した。議会では代議院の535議席中105議席を与えられ、そのうちの35議席が自身を含めたファシスト運動に賛意を示す議員であり、20議席がファシズムに理解を示すナショナリスト協会出身であった。ファシズム派が多数を占めた国民ブロックはやがてムッソリーニの支持基盤として機能していくことになる。また各加盟政党は国民ブロックとは別に単独擁立した候補も出馬させており、双方を合わせて与党連合は半数を超える275議席を確保した[101]。ジョリッティは選挙勝利から2か月後の7月に首相職を勇退した為、国庫大臣を務めていたイヴァノエ・ボノーミが政権を引き継いだ[101]。
国政に進出したムッソリーニは退役兵・民兵団体の緩やかな連合体であったイタリア戦闘者ファッシを正式に政党化すべく組織再編を進め、またリグリア州で大規模な官憲による行動隊への取り締まりが行われたことから合法路線に転じ、主敵であった社会党とも和解交渉を進めていった[94]。同時に共和主義をファシズムの政治理論から排除し、王政維持を認めるなど穏健化も進めていった[94]。しかし集権化と対話路線はイタロ・バルボなど各民兵団体を代表するファシスト運動の「地方指導者」(ラス、Ras)からの猛反発を受けた。彼らはまだムッソリーニを絶対的指導者とは認めず、また穏健路線や修正主義にも不満であった。一時はファシスト運動が空中分解する可能性もあったが、ムッソリーニが指導者の地位を自ら退く行動に出ると誰も運動を取りまとめることができず、結局は地方指導者たちがムッソリーニの復帰を嘆願する結末となった。
最高指導者としての担当能力を示す駆け引きによって地方の指導者層を抑え、1921年11月9日にローマのアウグストゥス廟前で開かれた全国大会で「イタリア戦闘者ファッシ」を「国家ファシスト党」(PNF)へ発展的に解散することを宣言した。結党後は自らは書記長(党首職)に立候補せず、政治的盟友でサンディカリズムの政治家である ミケーレ・ビアンキを初代書記長に任命した。また各地の行動隊も党の私兵組織として糾合され、黒シャツ隊(camicie nere)と呼ばれるようになった。
ローマ進軍
[編集]議席を得た後も議会政治に頼らず早期に権力掌握を目指すムッソリーニの意思は変わらず、各地で党の私兵組織(黒シャツ隊)による直接行動が継続された[102]。ムッソリーニは民族主義・国家主義を掲げる政権を打ち立てるべくクーデターの準備を始め、ファシスト党を抑えられず退任したボノーミ政権に変わり人民党・自由党・急進党・社会民主党の連立政権を樹立したルイージ・ファクタ政権への反乱を計画した。党書記長ミケーレ・ビアンキ、党支部書記イタロ・バルボ、下院議員チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ、陸軍元帥エミーリオ・デ・ボーノらファシスト四天王を始めとするファシスト党員がエミーリア、ロマーニャ、トスカーナで三個軍団に分かれて武装蜂起し、最終的に首都ローマを占拠してムッソリーニを首相に擁立する計画が立てられた。軍もこの動きに呼応して1922年10月18日には一部の軍将官が密かにムッソリーニへ蜂起の援助を約束しているほか、サヴォイア家との秘密交渉も行われていた。
党執行部内ではデ・ヴェッキが計画に消極的であった。黒シャツ隊は退役兵の民兵組織であり、戒厳令による鎮圧が始まれば容易に抑え込めることが予測されていた。また一部の軍将官による協力も、王軍の総司令官たる国王の命令があれば直ちに停止することは明白であった。しかしバルボら強硬派の強い賛成で10月28日までに首都ローマへの進軍が党内で議決され、ムッソリーニはミラノの党本部から指揮を取り、党書記長ビアンキはバルボ、デ・ボーノとペルージャで党員の指導に当たった[103]。決定を不服とするデ・ヴェッキは一人でローマに向かい、第一次世界大戦初期に宰相を務めたアントニオ・サランドラと連立政権の交渉を独断で行ってムッソリーニからの信頼を失った[103]。
10月24日、ムッソリーニはナポリで開かれた党大会で6万名の党員に「私たちの計画は単純なものだ。我々が祖国を統治する」と演説した[104]。10月27日、国家ファシスト党のクーデターが迫る中でファクタ首相はローマの宮殿を離れていた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と連絡を取る努力もせず、ローマ駅に特別列車で戻った国王を出迎えた際に漸く事態を説明した[105]。そうしている間にもポー平原の各地で政府の主要施設が黒シャツ隊に占拠される事態となり、武装した党員を満載した列車が続々と首都に向かって発車していった。10月28日、ミラノでムッソリーニは『イル・ポポロ・ディターリア』を通じて以下の声明文を発表した。
我々を掻き立てる衝動は一つ、我々を集結させる意思は一つ、我々を燃やす情熱は一つ。それは祖国の救済と発展に貢献する事である。[105]
勝たねばならない、必ず勝つ!イタリア万歳!ファシズム万歳![105]
遂にローマに向けた進軍が始まると、早朝の閣議でファクタ首相は戒厳令の発動に踏み切る決意をした。しかし謁見したファクタ首相に対してイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は戒厳令の発動を拒否して命令書に署名しなかった。民兵部隊は既にミラノなどを手中に収めており、鎮圧後も政治的混乱が続く可能性があったことに加えて、そもそも反王党派のイタリア社会党・イタリア共産党にファクタ首相は弱腰で王党派から不信感を抱かれていた。立場を失ったファクタ首相は辞任を表明し、戒厳令は中止された[106]。
ミラノのイル・ポポロ・ディターリア社でマリネッティら古参党員と推移を見守っていたムッソリーニは戒厳令中止の報告を受け、政府との交渉に乗り出した。当初は第二次サランドラ内閣への入閣を打診されたが、あくまで首相職を要求し、最終的に要求は受け入れられた。交渉を終えると、傍らにいた実弟アルナルド・ムッソリーニに対して「父さんがいたらなあ」と笑いかけたという。1922年10月29日、首都ローマに黒シャツ隊2万5000名が入城する中、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は謁見したムッソリーニに対して組閣を命じる勅令を出した[107]。1922年10月31日、新たに国家ファシスト党と人民党・自由党・社会民主党の連立による第一次ムッソリーニ政権が成立、議会からも行政改革を目的とした臨時の委任立法権を認めさせた。
以後イタリア王国は1943年までの約20年にわたる統制的かつ全体主義的なファシスト政権時代に入り、後にスペインでは失敗した「ファシズムと立憲君主制の両立」はイタリアでは成功したのである。ヴァイマル共和政下のドイツではアドルフ・ヒトラーがローマ進軍を参考にしてミュンヘン一揆を、ポーランド第二共和国でユゼフ・ピウスツキが五月革命を実行に移している。
首相時代
[編集]組閣
[編集]政権の座に就いたムッソリーニであったが、この時点では武力を背景にしつつも独裁的な政権というわけではなかった。初期のムッソリーニ内閣は国家ファシスト党を含めた国民ブロック、および中道右派の自由党・人民党、中道左派の社会民主党の連立政権であった。ファシスト党出身の閣僚は首相・内相・外相を兼務するムッソリーニを除けば3名(財務大臣・法務大臣・フィウーメ総督)に留まった。重要役職を抑えつつも、多党制に配慮した組閣人事となった。
ムッソリーニは強固な挙国一致内閣を樹立することを構想しており、むしろ連立政権に社会党が参加しなかったことを問題とすら考えていた。社会党の側もムッソリーニの挙国政権への参加を検討していたが、国家ファシスト党と異なり単純な反動政党であるイタリア・ナショナリスト協会など国民ブロック内の強硬派が反対したために交渉は中断された。しかし同時に社会党系の労働組合連盟に対して政権協力を命令し、後に連盟から個人参加という形で2名の大臣が選出されるなど間接的な協力関係が形成された。
議会の投票が行われ、賛成多数(賛成306票、反対116票)でムッソリーニ連立政権の組閣を承認した。
ムッソリーニ内閣(組閣直後) | |||
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職名 | 氏名 | 任期 | 所属政党 |
閣僚評議会議長 | ベニート・ムッソリーニ | 1922–1943[注 9] | 国家ファシスト党(PNF) |
内務大臣 | ベニート・ムッソリーニ | 1922–1924 | 首相兼務 |
財務大臣 | アルベルト・デ・ステファニ | 1922–1925 | 国家ファシスト党(PNF) |
国庫大臣 | ヴィチェンツォ・タンゴッラ | 1922[注 10] | イタリア人民党(PPI) |
外務大臣 | ベニート・ムッソリーニ | 1922–1929 | 首相兼務 |
法務大臣 | アルド・オヴィーリオ | 1922–1925 | 国家ファシスト党(PNF) |
商工大臣 | テオフィロ・ロッシ | 1922–1923[注 11] | イタリア自由党(PLI) |
教育大臣 (国民教育大臣) | ジョヴァンニ・ジェンティーレ | 1922–1924 | 無所属 |
公共大臣 | ガブリエロ・カレッツァ | 1922–1924 | イタリア社会民主党(PDSI) |
労働大臣 | ステファーノ・カヴァゾーニ | 1922–1924 | イタリア人民党(PPI) |
農林大臣 | ジュゼッペ・デ・カピターニ・ディアルツァーゴ | 1922–1923[注 11] | イタリア自由党(PLI) |
軍務大臣 | アルマンド・ディアズ | 1922–1924 | 無所属(陸軍元帥) |
海軍大臣 | パオロ・タオン・ディ・リベレ | 1922–1925 | 無所属(海軍元帥) |
植民大臣 (イタリア・アフリカ大臣) | ルイージ・フェデルツォーニ | 1922–1924 | イタリア・ナショナリスト協会(ANI) |
通信大臣 | ジョヴァンニ・アントニオ・コロンナ・デ・カエサロ | 1922–1924[注 12] | イタリア社会民主党(PDSI) |
フィウーメ総督 | ジョヴァニ・ジュリアーティ | 1922–1923[注 11] | 国家ファシスト党(PNF) |
ムッソリーニ内閣で注目すべき人事は文部大臣にファシズム運動に賛同していた哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレを抜擢したことが挙げられる。ジェンティーレは大規模な教育改革を進め、現在のイタリアにおける教育制度の基盤となる政策を実施した[108]。
また国家ファシスト党の躍進には大戦後の経済難も背景として存在しており、その解決はファシスト政権にとっても重要課題であった。初期のファシスト経済はアルベルト・デ・ステファニ財務大臣に任された。経済的自由主義を志向するステファニ財務相は財政健全化を掲げて公的部門縮小と公務員削減に着手して政府省庁の統廃合も進めつつ、投資と自由貿易を振興した[107]。社会党時代の小作人や労働者の権利も縮小させる地主・企業家の側に立った経済改革を進め、過剰であったストライキが減少したことで生産力が増した。また財政健全化の一方で公共投資は大々的に行われ、高速道路を本土全域に建設するアウトストラーダ計画を実施している。こうした意欲的な経済政策によって大幅な経済成長率の向上を達成、民間企業の国有化を避けながら失業率を改善させた(但しインフレーションが同時にあった)。
後述する警察国家の推進によってマフィアをはじめとする犯罪組織は徹底的な取り締まりを受け、その殆どが壊滅状態に追い込まれたために経済犯罪も減少した。経済の立て直しという重要課題に成功したことで[108]、国民の大部分も連立政権を支持するかもしくは中立であった。
1922年12月、王家・党・政府の意見調整の場としてファシズム大評議会が設立された[108][107]。大評議会はファシスト党の政治方針を策定するほか、重要な外交議題やサヴォイア家の後継者(ピエモンテ公)の選出など、多様な問題について議論する権利を持ちえていて、ムッソリーニはファシスト体制における「政治の参謀本部」と表現している。続いて翌年2月1日には大評議会の審議を経て黒シャツ隊を国防義勇軍(Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale、MVSN)に改称の上、正式に予備軍事組織として政府軍の指揮下に収める決定を下した[108][107]。国防義勇軍内にはムッソリーニの護衛を目的とする統帥警護大隊が新たに編成され、身辺の警護にあたった。
ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権獲得後に突撃隊を粛清したのとは対照的に、国家ファシスト党は民兵組織を排除しなかった。これはファシスト党が自身も含めた「兵士の政党」であるという背景に加えて、粛清や内部対立を嫌い大同団結を好むムッソリーニの政治信念による判断といえた。実際、ムッソリーニはヒトラーによる長いナイフの夜事件を聞いた際に妻との会話で「あの男は野蛮人だ。あの殺し方はなんだ」と旧友を冷酷に処断したことへの嫌悪感を口にしていた[109]。国民ブロック内で路線の違いが表面化しつつあったイタリア・ナショナリスト協会にも寛容な姿勢を見せ、1923年には国家ファシスト党に合流させる融和策を取った[108][110]。
比例代表制改革
[編集]1923年、国家ファシスト党選出のアテルノ・ペスカーラ男爵ジャコモ・アチェルボ議員により既存の比例代表選挙を修正する選挙法改正案が提出された(アチェルボ法)。同法では今後の比例代表選挙では全体の25%以上の得票を集め、かつ第一党となった政党が全議席の3分の2を獲得し、残った議席を第2党以下に得票率に応じて分配するとする内容であった。小政党乱立による連立政治や野合を防ぎ、一党独裁制による政治権力の集中というファシズムの重要な目標を意図していた。法案は選挙が行われる下院(代議院)に関するもので、国王による任命制である上院(王国元老院)は対象外であった。
野党の共産党・社会党はアチェルボ法に反対しており、また国家ファシスト党が所属する連立与党でも意見が分かれたことから成立は当初疑問視されていた。しかし人民党や社会党など左派系政党の躍進に危機感を抱いていた自由党は賛同し、また当初は反対していた人民党もムッソリーニのコンコルダート路線を支持するローマ教皇の意を受けて連立離脱と棄権のみで肝腎の反対票は投じなかった[107]。人民党・自由党を懐柔し、並行してクーデターで活躍した黒シャツ隊を動員した恫喝も用いるという硬軟織り交ぜた手法で反対派を切り崩し、遂にムッソリーニはアチェルボ法を議会で可決させた。
国家ファシスト党の一党独裁を許したと否定的に評価されることの多いアチェルボ法であるが、比例代表制の短所と言える少数政党の乱立(破片化)による議会の空転を抑止する手段として比例第一党に追加議席を与える、少数政党から議席を没収するなどの方法で大政党に議会を主導させる選挙方式は第二次世界大戦後もしばしば用いられている。共和制移行後の初代大統領アルチーデ・デ・ガスペリは政権末期にイタリア共産党の躍進に危機感を抱き、得票率50%の政党が全議席の3分の2を得るとした新選挙法を制定してキリスト教民主党による一党優位政党制の確立を図っている。現代イタリアにおいても2005年12月21日から第一党に340議席を配分するプレミアム比例代表制が採用され[111]、2016年には40%以上の得票を得た第一党に過半数を与える選挙法改正が実施された。
またドイツやロシアと同じく得票率が一定以下の政党は議席を与えず、議会参加権を与えない阻止条項規定も設定されている。
コルフ島事件
[編集]1923年8月、第一次世界大戦の戦勝国による外交組織「大使会議」によるアルバニア、ユーゴスラビア、ギリシャなどバルカン諸国の国境線を確定するための調査が行われていたが、国境調査団のメンバーであったイタリア陸軍のエンリコ・テルリーニ将軍が暗殺される事件が発生した。当初から領土問題に不満を持っていたギリシャ系組織による犯行が疑われ、イタリアや国際社会からの強い抗議を受けてもギリシャ政府は関係を否定し、調査や謝罪を拒否する姿勢を取った。これに対してムッソリーニは国際社会による調停を見限って強硬手段での解決を目指し、海軍によって8月31日にギリシャ王国領ケルキラ島(コルフ島)を占領させた(コルフ島事件)。最終的にギリシャ政府は事件に関する責任や調査の不手際を認めてイタリアに謝罪し、5千万リラの賠償金を支払った。対外的な強行姿勢は国民の愛国心を高め、ムッソリーニ連立政権への支持はますます上昇した。
1924年、ユーゴスラビア王国と友好条約を結び、隣国との外交関係を強化した。また、同時期、イタリアはソヴィエト連邦を国家承認した最初の西側諸国となった[112]。
1925年10月、英仏独伊共同の平和条約であるロカルノ条約を締結した。
総選挙における勝利
[編集]1924年4月6日、1924年イタリア総選挙で国民ブロックと合併した国家ファシスト党を中心とした選挙連合「国民名簿」(Lista Nazionale、LN)が設立され、中道右派の人民党と自由党、中道左派の自由民主党が参加を声明した。LNに参加した3党に共通していたのは反共主義で、左派を主導する社会党を主敵とみなしていた。その社会党はボノーミやムッソリーニに続いてマッテオッティやトリアッティらも離脱したことで党勢衰退が目に見えており、彼らが設立した統一社会党と共産党と票を取り合う状態に陥っていた。ほかに新たに結党された行動党や農民党、伝統的な小政党である共和党などが野党側に回った。
この選挙における投票率は63.8%(前回選挙は58.4%)、その中で白票を投じた投票者は全体の6%(前回選挙は1%)となった。そうした中でムッソリーニ内閣を支持するLNは有効票の64.9%に相当する約460万票を獲得する圧倒的な人気を見せ、結果的には上記のアチェルボ法の適用を待たずして現政権の続投が確定した。ムッソリーニ政権の経済政策の成功や国威発揚などが国民から高く評価されていることが示され、国王エマヌエーレ3世も「国家の存在を締め付け、衰弱させるくびきを打ち壊した」と賞賛している。「国民名簿」は最終的に374議席を配分され、その中枢たる国家ファシスト党内部では急速な組織規模の拡大から軋轢が生まれるほどだった。ムッソリーニは大規模な党員追放と指導部改組を行って党の引き締めを図り[113]、党書記長職も一時的に単独から4名による合議制に変更された。
対する野党第一党である社会党の得票は惨憺たるものであり、前回得票した約160万票から急落して僅か36万票しか獲得できないという破滅的な惨敗となった。ボノーミ派の社会民主党(約10万票)、トリアッティ派の共産党(約26万票)こそ辛うじて上回ったが、マッテオッティ派による統一社会党(約42万票)にすら追い抜かれるありさまであった。
他の新党や協力政党も同じく存在感を示せなかったが、ムッソリーニは圧勝の後も議会政治・多党制を維持することを約束して選挙連合に参加した人民党、自由党、自由民主党と連立政権を組閣している。今や政権内の閣僚の殆どが国家ファシスト党出身で占められていたが、複数の人物が「ムッソリーニは社会党を含めた諸政党との挙国政権樹立を放棄していなかった」と証言している[114]。
政治闘争と独裁の開始
[編集]イタリアの民主制は急速に後退していたが、ムッソリーニ政権批判の急先鋒となっていたのが野党第一党の統一社会党を率いるジャコモ・マッテオッティ書記長であった。1924年6月10日、そのマッテオッティが何者かによって暗殺されたのを契機にムッソリーニ内閣に対する大規模な反政府運動が発生した。マッテオッティは社会党がムッソリーニが掲げる挙国政権参加を検討していることに反対し、事件直前の5月30日に行われた議会演説で激烈に国家ファシスト党を批判していた[108]。マッテオッティ暗殺がムッソリーニの命令によるものかは議論が残るが[注 13]、どうあれファシスト党の反民主主義という評価は決定的となった[108]。
それまでムッソリーニ政権に是々非々の態度を取っていた諸政党は一挙に態度を硬化させ、古代ローマ時代に平民が貴族に対抗して聖なる山(一説にローマの七丘の一つアヴェンティーノにあったとされていた[115])に立てこもった[注 14]故事に倣い、議会を欠席するアヴェンティーノ連合という政治運動が始まった[108]。混乱の中、党の地方組織からも「非妥協派」と呼ばれる黒シャツ隊(旧行動隊)を中心とした党内過激派がファシズム運動の集権化と穏健路線に対する不満を再燃させ、以前から非妥協派の粛清を求めていた修正主義派のファシストと党内抗争を引き起こし[107]、指導部に反対する離党者も次々に発生した。党内外からの圧力は大戦前のムッソリーニにとって最大の政治的危機となった[108]。
「この演説から四十八時間以内に事情が明らかになる事を覚悟せよ。諸君、自分の心にあるのは個人の私利私欲でもなく、政権への欲求でもなく、下劣な俗情でもない。ただ限りなく、勢い強い、祖国への愛だけだ!」 |
ベニート・ムッソリーニ 1925年1月3日の独裁宣言演説[116] |
しかし結果から言えば精神的指導者であるムッソリーニの権威が党内で決定的に揺らぐことはなく、党の崩壊や分裂には至らなかった[117]。反ファシスト運動も国王や軍の支持が得られなかったことから次第に勢いを失い[107]、最終的にゼネストに踏み切るかどうかで共産党や社会党、人民党の対応が分かれて瓦解した。内紛を制したムッソリーニは党内においては仲裁役、政府内においては既存の多党制を維持しながらの制度改革を考えていたそれまでの計画を不十分と感じ、根本的に国家制度を改革して一党制による独裁政治を行うことを決意した[107]。ムッソリーニは党の書記長職に就かなかったり、首相時代に連立政権という形を取るなど自身が独裁者になることは望んでいなかったが、先述の内紛は全体主義を確立するまでの過渡期には独裁者が必要であることを示した。
1924年12月31日、各地で反ファシスト派への実力行使を再開していた国防義勇軍の幹部三十三名が年始の挨拶に首相官邸を訪れた際にファシスト党によるクーデターを提案すると、ムッソリーニも今回は了承した。1925年1月3日、ムッソリーニは議会演説で独裁の推進を公言し、同年の12月24日に首相に代わる新たな役職として首席宰相及び国務大臣(イタリア語: Capo del governo primo ministro segretario di Stato)を創設・就任した。論者によって違いはあるが、概ねこの時からムッソリーニの独裁は開始したとみなされている。
ファシズム体制の構築
[編集]独裁宣言以後、ムッソリーニは結社規制法、定期刊行規制法、政府による公務員免職法など次々と可決させ、反対派が全体主義(総力戦主義)と呼ぶ統制的な社会体制を作り上げていった[107]。後に続くナチス・ドイツ体制での強制的同一化とは異なり、無用な軋轢を避け、長期的な視野に基づいた体制構築を志向したファシズム・イタリア体制は「選択的全体主義」と定義されている。
1925年6月に開かれた国家ファシスト党の党大会において、ムッソリーニは「イタリア国民のファシスト化」を宣言した[108]。全ての国民が年齢・性別・職業・居住地など何らかの区分毎に組織化され、自由主義国家で認められているような政治社会と市民社会の境界線は取り払われた[118]。政治行政から文化政策に至るまで、あらゆる分野でファシズムに基づいた社会・国家の構築が図られた[118]。1927年10月、「ファシスト暦」の導入が決定され、ローマ進軍が行われた「西暦1923年」を「ファシスト暦第1年」として暦の始まりとした[119]。伝統的な年号の横にローマ進軍から経過した年数が刻まれ、ファシズムの象徴であるファスケス(束桿)が宰相旗や国章などに組み込まれた。
地方自治と議会民主制の廃止
[編集]全体主義社会を作り上げる過程において徹底した中央政府への集権も推進され、地方政府にも矛先が向けられた。地方行政を統括する県知事の権限を強化する一方、コムーネ(日本における市町村)の首長を公選ではなく政府の任命制に変更する改革を行い[107]、中央政府からの分権を大幅に剥奪した(ポデスタ制)。1928年9月、ファシスト党の諮問機関である大評議会を法制化して正式な国家機関に定め、党や国家の権限を集中させた[120]。
議会内では既に圧倒的多数を占めるファシスト党による支配体制が確立されていたが、一党制の推進から他政党への攻撃が引き続き続けられた。野党のみならず政権に参加していた連立与党にも圧力を加え、1925年にはガスペリら人民党を与党から追放して解散を命じている。後述するザンボーニ事件後には遂に「反ファシスト主義者の下院議席剥奪を求める法律」が可決し、ファシスト党以外の政党は非合法化された[107]。さらに行政権である政令に法的な拘束力を与え、立法権を持つ議会を無力化した[120]。
1929年3月24日、1929年イタリア総選挙は国家ファシスト党以外の参加が認められず、選挙区も議員定数400名の全国選挙区に統合された。大評議会が決定した400名の立候補者が公示され、国民は候補者リストを受け入れるか否かのみで意思表示を求められ、投票用紙には「Si(スィ、はい)」「No(ノ、いいえ)」の二項目だけ記された。事実上の信任投票となった翼賛選挙に対する国民の関心は高く、投票率は89.8%を記録した。賛成票98.43%・反対票1.57%で国家ファシスト党の全議席獲得が承認された(一党独裁)。1934年3月25日には1934年イタリア総選挙が実施され、大評議会の候補者リストが再承認された。
国民の個人的意思に基づいた投票が形骸化したのと同時期に、労働組合が政府の指導下による労使協調を目指す協調組合(コラポラツィオーネ)とする改革が進められていた[121]。ムッソリーニは協調組合の合議を新たな国民の意思決定機関とするコーポラティズム国家(協調組合主義国家)への改革を進めていった。1939年3月23日、三度目の翼賛選挙は行わず、代わりにモンテチトーリオ宮殿の代議院を産業別代表者による結束協調組合議会に再編することを決定した。新議会の初代議長にはガレアッツォ・チャーノ外務大臣の父であるコスタンツォ・チャーノ伯爵が選ばれたが、同年のうちに別の古参党員であるディーノ・グランディ議員に交代した。
党における指導権
[編集]そのファシスト党内では非妥協派の第5代党書記長ロベルト・ファリナッチが選出されていたが、党中央の規律を無視する党支部の動きを抑えるように命じたムッソリーニの命令を十分に実行できず解任され、新たにアウグスト・トゥラーティが第6代党書記長に指名された[122]。ムッソリーニの意を受けたトゥラーティ体制において党内の綱紀粛正が徹底され、改革に反対する10万名の党員が党籍剥奪処分とされた[122]。合わせて党の役職も全て指導部からの任命制に党規約が変更され[107]、それまで党内でのムッソリーニの位置付けは精神的指導者としての部分が大きかったが、大評議会の設立に続く党改革によって明確にムッソリーニを頂点とし、それを書記長と大評議会が補佐する集権的な政党となった。今やムッソリーニに対抗できるのは党諮問機関である大評議会と、その後見であるサヴォイア家のみとなった。
1929年、執務室を官邸として使われていたキージ宮から、大評議会が設置されていたヴェネツィア宮の「両半球図の間」に移動させた。
1931年、第8代書記長アキーレ・スタラーチェの時代に更なる党改革が進められた[122]。それまで国内の政治的エリートを選抜するという指導政党としての路線が改められ、「大衆の中へ」をスローガンに国民に新規入党を奨励する大衆政党へと転進した。入党資格の大幅な緩和が行われ、公務員、教師、士官将校に至っては入党が逆に義務になり、入党を拒否した者は解任された。歴代書記長で最もムッソリーニに盲目的であったスタラーチェ時代に進められた大衆化政策でファシスト党員は260万名以上に膨れ上がった[122]。
労働者の福利厚生を国営化するために設立された労働者団体ドーポ・ラヴォーロ(労働後)協会(OND)、伝説的に語り継がれる愛国者の少年バリッラ(ジョヴァン・バティスタ)の名を冠した少年・少女組織バリッラ団(ONB)など福祉や教育、青少年団体などの分野で、党の協力組織も相次いで設立された[122]。ドーポ・ラヴォーロ協会には380万名、バリッラ団は170万名がそれぞれ加入しており[122]、新規入党者に加えて準党員を含めると党員は約600万名以上に達している。ただナチスがそうであったように、古参党員の中には権力掌握後に入党した人間を党の略称(PNF)になぞらえて「家族のためのファシスト」と呼んで軽蔑する傾向にあった。
1932年10月28日、ローマ進軍十周年を記念して国内のモダニズム芸術家による協力の下にファシスト革命記念展が盛大に開催され、翌年の記念日には首都ローマにヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂からコロッセウムまでを繋げた大通りである皇帝街道 を開通させた[123]。独裁制と一党制によって牽引される全体主義は必然的に指導者への個人崇拝を生み出した。政府宣伝を通じて独裁者ムッソリーニは国家・民族の英雄として神格化され、神話とも言うべきプロパガンダが展開された。
警察国家化
[編集]結社や議会制民主主義が規制されていく中で集団行動を基本とする社会民主主義、自由主義、共産主義(社会主義)などは抵抗する気概を失うか、キリスト教民主主義、民族主義、国家主義のようにファシズム運動による全体主義に合流した。しかし依然としてアナーキストだけは個人主義に基く衝動的なテロによって全体主義体制への抵抗を続けた。1926年10月31日、15歳の少年であったアンテオ・ザンボーニがボローニャで銃撃事件を起こし、その場で護衛していた党員たちの手で暴行を加えられて死亡した[124][125]。ザンボーニはアナーキスト系の政治運動に参加していた。その後もアナーキストによる暗殺計画は続き、ジーノ・ルケッティ、ミケーレ・シラーらが同様の暗殺未遂事件を起こしている[126][127][128]。また1926年4月7日にはアイルランド貴族の娘であったヴァイオレット・ギブソンが暗殺を試みて逮捕された[129]。ヴァイオレットは街頭で銃撃してムッソリーニに軽傷を負わせたものの、すぐさま群集に取り押さえられて袋叩きにされ、警察に引き渡された。ヴィオレットは犯行理由について支離滅裂な発言を繰り返し、精神障害者として国外追放が命じられた。
しかしアナーキストによる暗殺事件すらムッソリーニは警察国家化への口実に活用し、首相への暗殺計画は未遂でも死刑とする法律を制定した。1927年、政治犯を対象とする控訴が認められない国家保護特別裁判所を設立する司法改正を行い[107]、1930年にはファシスト党指揮下の秘密警察OVRA(Organizzazione per la Vigilanza e la Repressione dell'Antifascismo、反ファシズム主義者に対する監視と鎮圧のための組織体)が警察長官の直属組織として設立され、5000名の隊員が選抜された。1926年から1940年まで14年間の長期にわたって警察長官を務めたアルトゥーロ・ボッチーニの指導下で、OVRAは国家保護特別裁判所と連動して政治犯の摘発を実行している[120]。
警察国家化の過程でイタリア社会で根付いて来たイタリア南部の犯罪組織への摘発が開始された。南部の犯罪組織は社会不安を引き起こし、イタリア経済の障害となっていたことに加え、中でも古い歴史を持つシチリア島のマフィアはしばしばシチリア島の分離主義運動とも結びついており、民族主義・全体主義を目指すファシズムから強く敵視された。特にシチリア島に跋扈するマフィアへの対処は徹底的なものであり、警察出身のボローニャ県知事チェーザレ・モーリがパレルモ県知事に抜擢された。チェーザレに対してムッソリーニは以下のように訓示している。
貴方にはシチリアにおける全権が与えられている。私が日々繰り返しているようにシチリア島は秩序を取り戻すべきであり、それを貴方は絶対に実現しなければならない。何かしらの法がその障害になる場面があるのなら、私が新たな法を定めよう。 — Benito Mussolini[130]"
ムッソリーニとファシスト党政権の全面的協力により、モーリ体制下の警察組織は次々とマフィアの大物を投獄・処刑し、またマフィアと関与していたシチリア党支部に対する粛清と再編も行っている。モーリの手法はムッソリーニが期待していたように手段を選ばず、容赦がなかった。構成員の身元が明らかになると妻子を連行して人質に取り、非合法の拷問を行って内部事情を自白させるなどマフィア顔負けの残忍さで組織を殲滅していった。シチリアマフィアの大物であるヴィト・カッショ・フェロは終身刑を受けて1943年に獄中死し、それ以外の大物も潜伏や海外への亡命を強いられた。今日においてもムッソリーニの評価が維持されている理由の一端として、こうした徹底的な対マフィア政策が思い起こされるためであるとも言われている。事実、モーリがムッソリーニと対立してパレルモ県知事を退任した1929年時点で、シチリアの殺人件数はファシズム体制以前の10分の1にまで低下している[131]。
経済政策の転換
[編集]1920年代後半からファシスト政権下での経済成長は貿易赤字と物価上昇から行き詰まりを見せており、独裁体制確立後にそれまでのステファニ財務相による経済的自由主義を切り上げ、経済面でも政府による統制を進め始めた(計画経済)。1925年7月、ステファニの後任として産業界・銀行界出身の実業家ジュゼッペ・ヴォルピが財務相に任命され、自由貿易から一転して保護貿易政策に切り替えて自国産業の温存が図られた。通貨の安定化とデフレ化も推進され、前者については以前から整理統合が進められてイタリア銀行(中央銀行)、ナポリ銀行、シチリア銀行の三銀行に限定されていた通貨発行権について、制限をさらに進めて中央銀行の専権事項とした[118]。後者については「リラ戦争」と題したリラ高化政策が推進され、1ポンド=92.46リラのレートにまで上昇、さらに金本位制にも復帰した[118]。ヴォルピ財務相の経済政策によって大資本による生産の合理化が進んだ一方、中小企業や輸出企業などは不利な状況に置かれ、賃金低下や失業者の増加なども発生した[118]。
労働組合に対しては旧ナショナリスト協会出身のアルフレッド・ロッコ法相が1926年4月にヴィドーニ協定によってファシスト党系以外の労働組合に企業組合である工業総連盟(コンフィンドゥストリア)との交渉権を認めないことで実質的に形骸化させた[120]。その上でファシスト党系組合に関してもストライキは違法とするロッコ法を制定して弱体化させた[107]。同年11月にはファシスト系労組の中央組織である国民総連盟が6つの産業連盟に分派された[107]。また労使協調の観点から職業別の協調組合組織(コラポラツィオーネ)を設置する動きが進み、1926年にコーポラティズム省が、1930年に産業分野別に労働組合の代表を集めるコーポラティズム評議会が設立された[121]。一方でこうした協調組合組織を社会の意思決定の仕組みに組み込んでいくという試みも行われ、最終的に前述のコーポラティズム議会の設立に繋がった。
農村部では貧農が都市部に職を求めて流れ込み、社会問題となったことから農村部の開拓事業を進めた[107]。ムッソリーニは農業開拓による公共投資で農村の失業率改善や国内における小麦の増産を目的とし、「小麦戦争」と題した大規模な開拓政策を実施した。イタリア中部ラツィオ州のラティーナ市とサバウディア市の間に5000か所もの小麦農場を整備し、更にその中心地として5つの農業都市を建設する構想が立てられた。また島嶼部のサルデーニャ島でも農業開拓のモデル都市(現サルデーニャ州アルボレーア)が建都され、ヴィラッジオ・ムッソリーニ(Villaggio Mussolini)あるいはムッソリーニャ・ディ・サルデーニャ(Mussolinia di Sardegna)と名付けられた。このモデル都市は新たな農村社会の在り方を示すことで、農民に「農村への誇り」を抱かせようという狙いもあった[107]。農業都市の建設は国家ファシスト党の支持団体の一つである全国兵士協会の協力を得て行われ、主にヴェネト州の農民が移住して農地開墾を行った[120]。
小麦戦争は開拓事業で農業従事者を増やすことと穀物の増産には成功したが、小麦増産にこだわったことで開拓地に不向きであっても生産を強制した、ただしこれは最終的に失業対策や農業増産・公衆衛生の改善につなった。国内の合わせて実施された輸入小麦関税引き上げに伴い、穀物価格が上昇して消費量も低下した[132]。ただ、1925年には5000万クインターリ(1クリンターリ=100kg)だった小麦の生産量が1930年代には8000クリンターリとなり、穀物輸入量が75%減少し、1933年までにはほぼ輸入が必要なくなった。しかし開拓と農業政策は政府が農家に支払う助成金の増額に繋がり、失業率改善と農業生産力向上を果たし人口の増加には効果が出たものの経済回復には寄与しなかった。小麦戦争と並行して「土地戦争」と題された農地改革や、マラリアの原因ともなっていたラツィオ州に広がるポンティーノ湿地の干拓など農業用地の拡大も実施され、一定の成果を上げた。 ほかにローマの南ポンティエーノ湿地の干拓に成功した。これはローマ帝国やローマ教皇、そしてナポレオンまでもが取り組んだが成功とはいかず、ムッソリーニの干拓成功例として挙げられる。
都市部の改造も精力的に進め、ローマ万国博覧会に向けて首都ローマに新しい都心部としてEUR地区を建設した。設計はムッソリーニがアダルベルト・リベラやジュゼッペ・テラーニらの様式を好んでいた為、モダニズム建築に基づいて行われた。同時にローマ時代に凱旋門と並んで勝利を祝って建設する習慣のあった記念柱も設置されており、古典趣味とモダニズムが混交した独自の都市計画となった。同じく新興文化を背景とする映画産業の育成にも取り組み、国立撮影所チネチッタとイタリア国立映画実験センターを設立してイタリア映画界を大きく発展させた。
1929年の世界恐慌による輸出の停滞と外資の撤退によりヨーロッパ経済が後退すると、イタリアでも1930年の夏頃から労働者の失業や賃金の引き下げが相次いだ[107]。禁止されているストライキに踏み切る者も現れ、1931年、二つの国営企業としてイタリア動産機構(IMI)と産業復興機構(IRI)が設立されたが、それぞれ企業と銀行を公的資金によって救済することを目的としていた[107]。特にIRIは民間銀行に保有する株式と引き換えに税金を投入する事業を行い、銀行を救済しつつ鉄鋼・海運・造船などの分野での大企業を自社の一部として国有化した[107]。第二次世界大戦が開戦する1939年の時点でイタリアはソビエト連邦の次に国有企業の割合が多い国となっていた[133]。一連の政策は経済学者出身のフランチェスコ・サヴェリオ・ニッティ首相時代に育成されたテクノクラートによって主導された[107]。
公共投資の資金を集める一環として「祖国のために金を」(Oro alla Patria、Gold for the Fatherland)という国家主義的なスローガンを掲げた政府への金製品の提供が進められ、ムッソリーニ自身も結婚指輪を政府に提供している。集められた金は溶かされた上で金塊へ精製され、国立銀行の予備金として管理された。
カトリック教会との同盟
[編集]リソルジメントによる教皇領廃止と普仏戦争時のローマ遷都後、サヴォイア家の王族への破門が行われるなどイタリア政府とローマ教皇庁は対立関係にあった。ムッソリーニは無神論者であったが、カトリック系政治勢力を全体主義体制に組み込むべく以前から和解交渉を続けていた。独裁体制確立後の1929年2月に教皇庁国務長官のピエトロ・ガスパッリ枢機卿の仲介でラテラーノ条約が締結された[121]。条約は二つの協定に分かれ[122]、一つ目はイタリアとローマ・カトリックの和解案であった。ローマ教皇ピウス11世はサヴォイア家による教皇領国家の廃止を受け入れてイタリア王国を承認し、対するイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は教皇領廃止の補償金を教皇庁に支払い、また教皇が居住するヴァチカン市における教会の自治権を承認した。これによってイタリア王国とローマ教皇庁との対立に終止符が打たれるとともにヴァチカン市国が新たに成立した[122]。
二つ目の協定はコンコルダート(政教条約)に関する内容であり、建国以来の反教権主義を取り下げて教会での婚姻、義務教育における宗教教育、ローマ教会の青年組織であるカトリック青年団の活動など、これまで公的に非公認の状態であったイタリア国内での布教活動の再開が認められた[122]。カトリック系勢力との和解でキリスト教民主主義やキリスト教社会主義などのカトリック系政治運動もファシズムに取り込まれた。しかし本質的にキリスト教を蔑視していたムッソリーニはカトリック青年団をファシスト党青年団のバリッラ団へ統合するように圧力を掛けるなど、その後も水面下での対立関係は継続した[122]。
北アフリカなどでのイスラム教勢力に対しては常に友好的に接して、ファシスト党がイスラム教の庇護者であると宣伝した[134]。
オーストロ・ファシズムとの連帯
[編集]1932年5月20日、イタリア王国にとってかつての宿敵であるオーストリア・ハンガリー帝国の後裔国家オーストリアで、キリスト教社会党の党首エンゲルベルト・ドルフースが首相に就任した。ムッソリーニはイタリア民族主義に立つ人間としてオーストリアに伝統的な反感はあったが、ムッソリーニの政権獲得から11年後にドイツの政権を獲得したナチ党党首ヒトラーは、故郷オーストリア併合を悲願としており、このドイツの動きを牽制するために協力関係を結び、ドルフースもファシスト政権の制度を参考にした祖国戦線党を中心とするオーストロ・ファシズム体制を形成した。ドルフースとの間には個人的友情も芽生え、家族ぐるみで交流する間柄になっていた。またオーストリアの独立派が掲げていたハプスブルク家の復位にも賛同し、婚姻によるサヴォイア家とハプスブルク家の合同も検討していたとされる[注 15]。
1934年7月25日、ナチ党の影響下にあるオーストリア・ナチスの党員がオーストリア軍兵士に偽装して首相官邸に突入、ドルフースを暗殺する事件を起こした。これはドルフース家がムッソリーニ家のリッチョーネにある別荘を尋ねる予定となっていた中の出来事であった。ムッソリーニは先にイタリアへ入国していたドルフース夫人に事件を伝えると、陸軍に4個師団を即座にオーストリア国境へ展開する命令を出した。同時にイタリアはイギリス・フランスと共にドイツへの非難声明をだし、一挙に併合を目論んでいたヒトラーは事件への関与を否定して計画を撤回せざるを得なくなった。ムッソリーニのヒトラーに対する印象は最悪なものとなり、彼が自身に尊敬の念を寄せるヒトラーを蔑んだという話は専らこの時期を指している。
枢軸国陣営の形成
[編集]第二次エチオピア戦争
[編集]1934年12月5日、エチオピア帝国とイタリア領エリトリア・ソマリランドの国境問題を巡り、イタリアとエチオピアとの間で武力衝突が発生した(ワルワル事件)。青年時代から第一次エチオピア戦争の復讐を望んでいたムッソリーニはこれを契機にエチオピアへの植民地戦争を再開し、エリトリアおよびソマリランド駐屯軍に遠征準備を命じた。戦争にあたってムッソリーニは英仏と交渉を重ねて調整を進めていたが、左派の労働党や国民の平和主義運動に突き上げられた英仏は曖昧な態度を取り、最終的にリベラル寄りのスタンリー・ボールドウィン英首相と、反ファシストであった英外務副大臣アンソニー・イーデンの強い主張が通ってエチオピア側に立った[135]。
イーデンの外交姿勢はストレーザ戦線を主導するなど旧協商国寄りであったムッソリーニをドイツへ接近させる結果を生み出し、この点において親ファシストであった外相サミュエル・ホーア、ウィンストン・チャーチルやイギリス王エドワード8世の考えとは対照的だった。特にイーデンの上位となる英外相ホーアはファシスト運動を初期段階から後援していたムッソリーニの旧友であり、「仮に経済制裁が行われても決して石油の禁輸は行わない」と約束していた。
1935年10月2日、ムッソリーニは外交交渉を切り上げることを決意し、ヴェネツィア宮からエチオピア帝国への宣戦布告演説を行った[136]。
この数か月間というもの、運命の歯車は常に我々の澄み切った判断に動かされ、本来それが目指すべき所へと向かってきた。…エチオピア帝国に対して我々は40年間忍耐を重ねてきたが、それはもう沢山だ[136]。
経済制裁に対してイタリアは規律と節約、犠牲を持って戦うだろう。軍事制裁に対しては兵力を持って、戦争には戦争をもって戦うだろう[136]。
1935年10月11日、国際連盟はイタリアに対する経済制裁を求める決議を行い、反対票を投じたオーストリア、ハンガリー、アルバニア、パラグアイを除く加盟国の賛成で可決されたが、石油を制裁から外すという譲歩も示された。イーデンは石油禁輸を主張して国内でキャンペーンを展開するなど侵略反対を貫いたが、ファシズムに好意的だったフランスのピエール・ラヴァル政権は禁輸に反対した。そもそも国際連盟にはアメリカが加盟していないので、貿易路が封鎖されなければいくらでも物資輸入は可能だった。それでも経済制裁はイタリアの経済や市民生活については少なくない悪影響を与え、自給率を上げるアウタルキア(自給自足経済)の構築が進められた。
イタリアとの和解を目指す英外相ホーアと仏首相ラヴァルは、エチオピアに対してイタリアへの大幅な領土割譲を要求するホーア・ラヴァル協定を纏め、ボールドウィン英首相も一旦はこれを受け入れた。だが労働党と国民は猛烈な政府批判を繰り広げ、総選挙を控えていたボールドウィンは協定を破棄してホーアは辞任に追い込まれた。代わって外相に昇格したのがイーデンであり、外相となってからは石油禁輸どころかスエズ運河の封鎖まで主張するに至っている。イタリア国内ではボーア戦争の戦争犯罪を取り上げた報道が行われるなど反英主義的が隆盛して、紅茶など「イギリス的な物」はアウタルキアの一環として禁止された。「イタリアで最も憎まれた男」であるイーデンに至ってはイタリア中から悪罵され[注 16]、イーデン(Eden)と同じ綴りとなる全ての地名が変更された。こうした排外主義はイタリア国民の愛国心や継戦意思を強める結果をもたらし、戦争を止める上では逆効果だった。「52カ国の包囲」と呼ばれた国際的な孤立はヴェルサイユ条約以来、国際外交に反感を持っていたイタリア国民からは「国益を守る戦い」と受け取られ、国家への忠誠心が最も高まった。
ローマ帝国の最大領域 イタリア帝国主義が主張していた領域 |
前線の戦いはエミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥、ピエトロ・バドリオ陸軍元帥、ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍大将らが指揮を執り、開戦からすぐに因縁の土地アドワを占領している。冬の時期を迎えると一時的に進軍は停滞したが、1936年の春に行軍が再開されると同年中にエチオピア全土を制圧した。1936年5月2日、敗北したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエは特別列車でジブチへ逃亡を図り、これを空軍部隊で補足したグラツィアーニは列車を攻撃する予定だったが、ムッソリーニは提案を却下した。イタリア側の死傷者は本国兵士が2500名、植民地兵(アスカリ)が1600名と軽微であった[137]。戦闘ではピエトロ・バドリオ元帥の主張によって毒ガスも使用されたが軍事的な効果は限定的で、元よりハーグ陸戦条約違反(ダムダム弾の使用、兵士の遺体損壊)への報復として使用している[137]。併合されたエチオピア帝国の帝位は宣言通りエマヌエーレ3世が兼任し、後に旧エチオピア帝国領は周辺のイタリア領植民地と合同されてイタリア領東アフリカへ再編された。
1936年5月5日、ヨーロッパ系の植民者たちから歓声を受けつつ、白馬に乗ったバドリオ元帥が首都アディスアベバに入城して戦争は終結した。同日夜、ヴェネツィア宮の大広場に集まった国民に向けて、ムッソリーニは「エチオピア帝国への戦勝」と「サヴォイア家が皇帝の称号を得る」という二つの輝かしい出来事を報告した[137]。熱狂する国民を前に『諸君らはそれに値するか?』とムッソリーニが問いかけると、『そうだ!』(Si、スィ)との大歓声が何度も上がった[137]。続いて自らの主君であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は今日を持って王から皇帝となり、ローマ帝国以来となる「イタリアにおける帝国の復活」も宣言した(イタリア帝国、Impero Italiano)。
戦争反対論を掲げていたイギリスのボールドウィンとイーデンは戦いが長期化するという読みが外れて面目を失い、保守党政権でイタリアを支持してきたネヴィル・チェンバレンやウィンストン・チャーチルらが力を持ち始めた。チャーチルはイーデンのスエズ運河封鎖計画に反対し、ボールドウィンが後継首相に考えていたチェンバレンは制裁解除を求める演説を行っている[138]。また戦争終結直前に駐英大使ディーノ・グランディと謁見したエドワード8世も、「イタリアの戦勝に対する心からの喜び」を示したという[139]。周囲の意見に屈したイーデンは国際連盟で「もはやいかなる有用性もない」として制裁解除を求め、7月15日に国際連盟は経済制裁を解除した[138]。
国家ファシスト党が初期段階から唱えていた拡張主義・生存圏理論である不可欠の領域を求める動きは、ローマ帝国時代を思い出させる「イタリア帝国」の成立によって勢いを増した。ただしイタリア帝国主義の目標は地中海圏の統合ではなく、エジプトから西アフリカ、バルカン半島西部、東地中海の島々と現状の飛び地を結ぶ構想であった。1938年3月30日には帝国全体の統帥権として帝国元帥首席(Primo maresciallo dell'Impero)が創設された。ムッソリーニは帝国元帥首席にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と共同就任することで実質的に統帥権を分与されている。またヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からは公爵への叙任が提案されたが、「私は今迄通りのベニート・ムッソリーニであります、陛下」と返答して爵位を辞退し、代わりに「帝国の創設者(イタリア語: Fondatore dell'Impero、フォンダトーレ・デッリンペーロ)」の名誉称号を与えられている[3]。
スペイン内戦
[編集]1936年7月17日、米西戦争や第三次リーフ戦争など植民地における軍事的挫折によって衰退が続いていたスペイン王国で内戦が発生した(スペイン内戦)。フランシスコ・フランコ将軍を中心とした反乱軍(国民軍)は親ファシズムを標榜して独伊両国に支援を要請、7月21日には早くも使者がイタリアを訪れている[140]。
ファシズムの影響を受けたファランヘ党も国民軍の反乱に加担していたが、ムッソリーニは内戦参加に当初反対だった[140]。しかし外務大臣チアーノが積極的であったことや、フランスがマヌエル・アサーニャら政府軍(人民軍)の支持を検討したことから、国民軍への援助を命じた[141]。続いてドイツもヒトラーとゲーリングが支援を決め、手始めに独伊で合計21機の航空機を供与している[141]。第二共和制に対するフランスの支援は実際には行われず、イギリスと共に「スペイン不干渉委員会」を組織した[141]。代わりにソヴィエト連邦が共和国派の支援を表明したので、本来友好的であったイタリアとソヴィエトとの対立が生じた。またフランコは早期の内戦勝利に否定的で旧首都マドリード占領を避けて長期戦に向けた体制を構築することを志向し、ムッソリーニとヒトラーは国民軍の戦意に疑いを持った。
1936年12月6日、アプヴェーア長官ヴィルヘルム・カナリスとローマで意見交換を行い、独伊の直接介入が必要であるとの結論に達した[142]。ドイツが航空支援に留めてコンドル軍団を投入したのに対してムッソリーニは陸軍派遣にも踏み切り、政府内に「スペイン局」を設立してフランコ軍との共同部隊を編成する計画を立てた。計画は指揮権を巡る対立から中止されたが、マリオ・ロアッタ陸軍准将を司令官とするイタリア義勇軍団(Corpo Truppe Volontarie、CTV)が空軍と共に投入された[142]。
独伊の直接介入後もフランコの慎重さは変わらず、マドリードへの包囲を開始してからも2度にわたって共和国軍に敗北した。ムッソリーニはロアッタにマドリード南部のマラガに反乱軍の南西方面軍との共同攻撃を命じ、2月7日にイタリア義勇軍団はマラガを占領した[142]。陸空軍以外に潜水艦を中心に海軍も参加するようになった。イタリア海軍の攻撃で共和国側海軍は地中海の制海権を完全に失い、黒海・地中海経由の補給線を寸断されたソ連の物資援助はバルト海・大西洋方面からのみとなった。ムッソリーニは続いて北方のバレンシア攻略を命令したが、少将に昇進したロアッタから反対されて断念した[143]。義勇軍団は4個師団を指揮下に置いていたが、その半数は国防義勇軍に所属する民兵部隊であり、陸軍から送られた部隊より練度に問題があった。
1937年2月6日、フランコはマラガ攻略に呼応してマドリード北方のハラマに軍を進めて南北からの首都包囲を試みたが、国際旅団が加わった共和国軍の激しい抵抗にあってまたもや頓挫した。ここに至ってフランコからマドリード攻略の助力が求められた。ムッソリーニは陽動作戦としてグアダラハラへの進出を義勇軍団に命じ、ロアッタはフランコと書簡を交わして「両軍の共同攻撃」とする同意を結んでいる。1937年3月8日、グアダラハラの戦いでは、ムッソリーニもフランコと同じく手痛い敗北を蒙った[143]。義勇軍団の疲弊、物資欠乏、悪天候、同じイタリア人の共和国軍部隊「ガリバルディ国際大隊」の勇戦、そしてフランコが事前協定を反故にして共同攻撃を行わなかったことが苦戦の原因となった。義勇軍団が共和国軍の戦線を突破してグアダラハラ近郊にまで迫っても両翼の反乱軍部隊は動かず、共和国軍の巻き返しが始まってからも救援に訪れなかった[143]。作戦失敗が決定的になった3月18日、フランコは反乱軍に戦線を交代させた[144]。
フランコはイタリアのスペインへの影響力低下を期待していた向きがあり[143]、ムッソリーニは激怒したが支援を撤回できる段階ではなく、フランコがイタリア義勇軍団を指揮下に置くことを受け入れざるを得なくなった[143]。司令官はロアッタからエットーレ・バスティコ陸軍少将に交代した。フランコは長期戦を前提とした戦争指導に回帰してマドリード以外の諸地域に攻撃を行い、イタリア義勇軍団は北部のバスク地方とカンタブリア地方を割り当てられた。1937年6月、国民軍と独伊軍はバスクでビルバオに構築された陣地「鉄のベルト」を巡る戦闘に勝利した。同年8月、ムッソリーニはバスク政府に投降を呼びかけたが応じなかった為、バスクと隣接するカンタブリアにイタリア義勇軍団を追撃させ、バスク軍はサンタンデル[要曖昧さ回避]で降伏した[145]。
イタリア義勇軍団はバスク人難民の亡命を認め、中立船が停泊するサントーニャ港に難民を移動させたが、国民軍から引き渡しを強く求められた[145]。「降伏協定を遵守する」との回答からバスク人難民は国民軍に引き渡されたが、フランコは難民を略式裁判を経て即時処刑した(サントーニャの悲劇)。この行動にバスティコは「イタリアの名誉に関わる」と猛烈な抗議を行っている。ムッソリーニはフランコと険悪な間柄になったバスティコからマリオ・ベルティ陸軍少将に司令官を交代させ、国民軍との協力体制を崩さなかった[146]。一方でフランコの慎重さによって内戦は過度に長期化して決着が見えず、援助する立場にあるムッソリーニは事あるごとに苛立ちをフランコに伝えている。
1938年7月、共和国軍がエブロ川で大攻勢を開始して内戦はますます長期化し、同年9月にはイタリアとソ連はそれぞれ介入部隊を削減して国際旅団も解散となり、両軍は撤退時期を模索し始めた。同年11月、周囲の動きを受けてフランコは積極策に転じ、イタリア義勇軍団とドイツコンドル軍団を全面的に投入した反攻作戦を行って戦線を押し返した。1939年1月、反乱軍による共和国政府の本拠地カタルーニャへの最終攻勢が開始され、1月26日にイタリア義勇軍団が臨時首都バルセロナに突入、2月3日にアサーニャ大統領ら共和国政府の閣僚陣はフランスに亡命した[147]。2月13日、フランコは内戦中の行為について「法の不遡及を適用しない」とする宣言を出して共和国派への無差別粛清を行ったが、ムッソリーニは共和国関係者に亡命援助や助命を行うように義勇軍へ命令している[148]。旧首都マドリードなど一部地域では抵抗が続いたが長くは持たず、3月中にほぼ全土が制圧された[148]。
1939年4月1日、フランコは内戦勝利を公式に宣言した。フランコによる義勇軍団への労いは手厚く、内戦終結を祝う記念パレードがマドリードで行われると主役としての扱いを受けた。パレード後もコンドル軍団については送別式が行われるのに留まったが、イタリア義勇軍団は帰国の道中にまでフランコの義弟ラモン・セラノ・スーニェルがファランヘ党員を連れて同行し、イタリア陸軍によるナポリでの凱旋式でも義勇軍団に従う形で行進している。
内戦の勝利によってイベリア半島でのファシスト政権樹立という目的は果たされ、地中海諸国におけるムッソリーニの威信も高まったが、軍備や国費の浪費はイタリアの国益を損ねた部分も少なからずあった。
「ローマとベルリンの枢軸」発言
[編集]ドイツのヒトラー政権は、ファシズムに影響されたナチズムとヴェルサイユ条約体制の打破を掲げて再軍備宣言などに着手し、国際的に孤立していた。ヒトラーはムッソリーニへの尊敬を公言し[149]、早い段階から独伊の国家同盟を模索していた。対するムッソリーニはドイツという国家には若い頃から好意を持っていたものの、ナチズムの持つ人種主義的要素を嫌悪し、パワーポリティクスの点からもヴェルサイユ体制の維持を支持していた(ストレーザ戦線)。
1934年6月、ヴェネツィアでイタリアを最初の外遊先に選んだヒトラーとの会談が行われた。会談でヒトラーはムッソリーニをカエサルに例えるなど好意を深めたが、得意の北方人種論を口にして不興を買った[150]。ムッソリーニはナチスの反ユダヤ主義は「常軌を逸している」と批判し、オーストリア併合問題でもドルフース政権を支持して譲歩しなかった[150]。会談後、外務次官フルヴィオ・スーヴィッチとの会話でヒトラーを「道化師」と評した[150]のは有名な逸話である。その後も相次いで発生した突撃隊粛清やドルフース暗殺事件などヒトラーの人間性を疑う出来事が続き、嫌悪感が募るばかりであった。それを裏付けるように次の独伊会談は3年間にわたって行われなかった。一方でヒトラーの政治的能力についてはムッソリーニも当初から高く評価しており、自身への敬意も誠実な内容と感じていた。第二次エチオピア戦争で英仏と対立した頃からヒトラーやドイツとの交流を進め、スペイン内戦では事実上の同盟国として共同戦線を張った。
ムッソリーニは1923年に「歴史の枢軸はベルリンを通過する」と当時のヴァイマル共和政下のドイツ政府との関係の重要性を指摘した際に初めて「枢軸(伊:Asse、英:Axis)」という用語を政治的に使用した[151]。それから独伊関係が深まる中で「ローマとベルリンの枢軸」こそが新しい世界秩序を生み出すと改めて演説し、旧協商国に挑戦する独伊関係を指して「枢軸国」(英:Axis powers)とする政治用語が国際的に定着していった。1930年代後半からムッソリーニは新生ドイツが英仏に取って代わることを力説するようになり[152]、旧協商国の中心である英仏で少子化や高齢化が進んでいることを衰退の証拠として挙げ[153]、独伊による枢軸国の形成を国民に訴えた[154]。
1937年7月、今度はムッソリーニがドイツを訪問することが決まると、ヒトラーは「私の師を迎えるのだ。全てが完璧でなければならない」と側近に語り、宿泊する建物や使用する部屋を細かく検討し、ベルリンの中央広場には自らが設計したムッソリーニの記念像を建設させた。ドイツ各地でナチ党員の組織立った歓迎を受け、欧州随一の工業力と再建されたドイツ国防軍の陸軍部隊の演習を視察して深い感銘を受けた。会談の仕上げとして前年にベルリンオリンピックが開催されたマイフェルト広場(五月の広場)で開かれたナチ党の政治集会で記念演説が行われた。100万人の聴衆を前にヒトラーから「歴史に作られるのではなく、歴史を作り出す得難い人物」として紹介を受けたムッソリーニは近代のドイツとイタリアが同時期に統一を達成したことを踏まえ、現代の独伊友好、更にはファシズムとナチズムとの思想的同盟について以下のようにドイツ語で演説した[155]。
我々は世界観の多くの部分を共有している。意思が民族の生命を決定付ける力であり、歴史を動かす原動力である事を我々は確信している
孤立感に苛まれていたドイツ国民の心情を理解していたムッソリーニは独伊の友情を説き、ファシスト党とナチ党の連帯を語った。悪天候から降雨があったにも関わらず、巧みに民衆を煽るムッソリーニの演説中にはナチ党員から幾度も熱烈な喝采が上がり、拍手が会場に鳴り響いた。それはイタリアが狐のように狡猾な国家から脱する事を約束する「友情の誓約」でもあり、ムッソリーニ個人は最後までその誓約に殉じる事となった[155]。
1938年3月13日、オーストリアでの住民投票を根拠にドイツがオーストリア併合(アンシュルス)を実行すると、ムッソリーニはこれを承認する宣言を出した。ムッソリーニの元にはヒトラーから直接電報が届き、電報には「一生忘れられないことだ」と記されていた。同年5月にはヒトラーによる二度目のイタリア訪問が行われ、ナポリでのイタリア王立海軍(Regia Marina)による観艦式を視察した。陸軍国のドイツに比べて大規模な戦艦の艦列や、80隻の潜水艦隊によるデモンストレーションを見て、ヒトラーはイタリア海軍の戦力に期待を寄せた。反面、ヴィルヘルム2世を冷遇するヒトラーと違い、立憲君主制を維持するムッソリーニがサヴォイア家とヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に忠誠を誓っていることに対しては懸念を口にしている。
独伊の接近に危機感を覚えたイギリスからの接触で協商同盟を再建する交渉も行われたが、伊土戦争以前から続くチュニジアの領有権やイタリア系チュニジア人問題を巡るフランスとイタリアとの対立もあり、捗々しい結果は得られなかった[156][157]。一方でムッソリーニは1938年4月16日の復活祭に英伊中立条約の締結は了承しており、ソ連とはその前の1933年に伊ソ友好中立不可侵条約を結んでおり[158]、イタリアの仮想敵国はドイツや英米、ソ連よりも未回収のイタリアを領土に含むフランスであったことが窺える[159]。
日独伊防共協定
[編集]天津に租界を持つイタリアは、1930年代中盤には元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問に、さらに空軍顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問が中華民国に常駐し、フィアットやランチア、ソチェタ・イタリアーナ・カプロニやアンサルドなどのイタリア製の兵器を大量に輸出し日中戦争に投入、日本側から抗議を受けていた。しかしエチオピア戦争での対イタリア経済制裁に中華民国が賛同したことに対して、上海総領事として勤務した経験もあったガレアッツォ・チャーノ外相は「遺憾」とし、中華民国とは急速に関係が悪化し始める。
さらに1937年8月21日の中華民国とソ連の中ソ不可侵条約の成立によって、イタリアの防共協定参加が決定的なものとなり、ムッソリーニは日本の東洋平和のための自衛行動を是認するという論文を発表、ベルギー九カ国条約会議でイタリア代表団は日本を支持するなどの動きを見せた[160]。会期中の1937年11月6日、ムッソリーニはイタリアが原署名国の一つとして防共協定に加盟すると規定した「日本国ドイツ国間に締結せられたる共産インターナショナルに対する協定へのイタリア国の参加に関する議定書」に調印し[160][161]、日独伊防共協定に発展した[162]。
また、1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を日本と満州国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、天皇や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。その後8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。完全に日本重視となった。さらに同年11月にはイタリアは満州国を承認している。これらの返礼もあり、日本陸軍や満州陸軍はイタリアからの航空機や戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入した。またイタリアも大豆の供給先として満州国からの全輸出量の5パーセントを占め、アメリカからの輸入をストップした。