一条忠良
時代 | 江戸時代中期 - 江戸時代後期 |
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生誕 | 安永3年3月22日(1774年5月2日) |
死没 | 天保8年6月3日(1837年7月5日) |
別名 | 号:大勝寺 |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 | 光格天皇 → 仁孝天皇 |
氏族 | 一条家 |
父母 | 父:一条輝良、母:家女房 |
兄弟 | 忠良、西園寺実韶、和子、輝子 |
妻 | 正室:細川冨子(細川斉茲の娘) |
子 | 実通、忠香、久我建通、秀子、知君、通子、盛君、良子、崇子など |
一条 忠良(いちじょう ただよし)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。関白・一条輝良の子。官位は従一位・左大臣、関白。一条家20代当主。大勝寺と号す。余技で自ら茶陶の制作などを行い、その作品が複数現存している。
経歴
[編集]天明3年(1783年)従三位となり、寛政11年(1799年)には従一位となった。内大臣、右大臣、左大臣を歴任。文化11年(1814年)には関白となる。文政6年(1823年)関白を辞めたが、同11年(1828年)准三后となっている。