一柳末延
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化11年8月10日(1814年9月23日) |
死没 | 安政2年3月27日(1855年5月13日)[1] |
別名 | 鑁三郎(幼名)[1] |
戒名 | 見性院殿禅林貞定大居士[1] |
墓所 | 兵庫県小野市垂井町の光明寺[1] |
官位 | 従五位下土佐守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉、家慶、家定 |
藩 | 播磨小野藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 父:一柳末周 母:藤堂高嶷娘 |
兄弟 | 末延、一柳直方正室、青木能次室、末清 |
妻 | 秋月種任娘タカ |
子 | 末彦、高木正坦正室、青木某室 |
一柳 末延(ひとつやなぎ すえのぶ)は、江戸時代後期の大名。播磨国小野藩9代藩主。官位は従五位下土佐守。
略歴
[編集]天保2年(1831年)11月23日、父が病気を理由に隠居したため跡を継いだ。しかし天保4年(1833年)には加古川で世直し一揆が起こるなどの災難に遭う。天保7年(1836年)には国学者の大国隆正を招聘して藩校・帰正館を創設した。
安政2年(1855年)3月27日、小野にて死去し、跡を長男・末彦が継いだ。墓所は小野市垂井町の光明寺。