一色藤長
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 慶長元年4月9日(1596年5月6日)? |
改名 | 藤長→一遊斎(号) |
別名 | 通称:七郎 |
戒名 | 岫雲院 |
官位 | 従五位下、式部少輔 |
幕府 | 室町幕府御供衆 |
主君 | 足利義輝(義藤) |
氏族 | 一色氏(式部一色家) |
父母 | 父:一色晴具、母:細川晴宣の娘[1] |
兄弟 | 藤長、秀勝、足利義晴側室 |
子 | 範勝 |
一色 藤長(いっしき ふじなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。室町幕府の御供衆。通称は七郎[2]。号は一遊斎[2]。
生涯
[編集]室町幕府の守護大名・一色氏の一族式部一色家の出身で、宗家の一色義貫の代に家督争いをした一色持範の子孫にあたる。
天文6年(1537年)、式部少輔に任じられる[2]。同13年(1544年)、13代将軍・足利義藤(義輝)より所領を拝領する(後に加増される)[2]。天文18年(1549年)に父が亡くなると、奉公衆となっていた一色式部家の当主となり、細川輝経らと共に義輝に近仕した。
天文21年(1552年)に従五位下となり、足利義藤より偏諱を受け藤長と称す。一色氏は御部屋衆の家柄であったが、藤長の時代に格上の御供衆となり、伊勢貞孝が討たれた後にはその所領の一部を与えられている[3]。永禄6年(1563年)の「永禄六年諸役人附 光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」に、御供衆の一人として藤長の名が見える[4]。
永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が殺害されると、三好三人衆らに興福寺に幽閉された一乗院覚慶を細川藤孝、三淵藤英、和田惟政、仁木義政、米田求政らと共に脱出させて救出した。義昭の将軍就任後も御供衆にあり諸大名との取次役も務めたが、細川藤孝らと比べて必ずしも重要な地位にいた訳ではなかった。
藤長の存在感が高まったのは、元亀4年(1573年)に義昭が織田信長と対立した頃からとみられている[5]。同年に足利義昭が織田信長によって京を追放されると、義昭に従って紀伊国に下る。
天正4年(1576年)、義昭が備後国鞆へ移った際は、畿内との連絡役のために義昭から紀伊田辺城(泊城)に留まることを命じられたが、これに従わずに鞆の義昭を追いかけたために不興を買い、家臣の地位を失う[6]。藤長は毛利氏に懇願して復帰を願うものの、許されることなく、義昭の下を去らざるを得なくなった[7]。
その後、細川藤孝を頼っている。以後の動静の記録は、細川家で催された能会に出席したことに関する記述が大半で、合戦の参加記録などはない。後になって、義昭の下へ挨拶へ向かっている。
異説
[編集]- 足利義昭の子といわれる義喬を、一色義喬として藤長が近江国坂本で養育したと言われ、寛政年間の会津藩藩士の坂本義辰がこの子孫を称す。
- 藤長は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍方として参戦し、討ち死にしたとの説もある。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦等 編「巻第八十五」『寛政重修諸家譜』 第二(新訂)、続群書類従完成会、1964年6月15日。NDLJP:2983749/95。(要登録)
- 『断家譜 第一』昭和43年6月 続群書類従完成会
- 『寛永諸家系図伝 第二』 昭和55年6月 続群書類従完成会
- 奥野高広『足利義昭』吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年。ISBN 4642051821。
- 木下昌規 著「足利義輝・義昭期における将軍御供衆一色藤長」、戦国史研究会 編『戦国期政治史論集【西国編】』岩田書院、2017年。