世界残酷物語

世界残酷物語
Mondo Cane
監督 グァルティエロ・ヤコペッティ
脚本 グァルティエロ・ヤコペッティ
製作 グァルティエロ・ヤコペッティ
パオロ・カヴァラ
フランコ・プロスペリイタリア語版
音楽 リズ・オルトラーニ
ニーノ・オリヴィエロ
撮影 アントニオ・クリマーティイタリア語版
ベニート・フラッタリ
配給 日本の旗 東和
公開 イタリアの旗 1962年3月30日
日本の旗 1962年9月12日
上映時間 108分
製作国 イタリアの旗 イタリア
言語 イタリア語
配給収入 4億500万円[1] 日本の旗
次作 続・世界残酷物語
テンプレートを表示

世界残酷物語』(せかいざんこくものがたり、原題:Mondo Cane, 米題:A Dog's World)は、1962年イタリア映画カラー、スタンダードサイズ(1.33:1)。監督:グァルティエロ・ヤコペッティ。世界各地の人々による奇習を現代先進国の風俗と比較したエピソードが多数並べて描かれる記録映画調の作品である。原題 "Mondo Cane" は「犬の世界」の意。

公開当時は「ドキュメンタリー映画」と銘打たれて公開されたが、実際には過剰演出・やらせのほか、捏造された題材が多数仕込まれた、現実と空想が混在した作品である。本作の世界的な大ヒット以降、ヤコペッティ自身や他の監督により、続編および同系統の新作が続々作られ、この種のいかがわしい「ドキュメンタリー映画」は「モンド映画」と総称されるようになった。

製作

[編集]

企画

[編集]

本作が公開された1962年はまだ海外旅行は高嶺の花で、インターネットどころかテレビも普及段階にある時代であり、人々はもっぱら書籍や雑誌、映画などから伝えられる世界の風景に素直に驚いていた。この頃にパリの夜の歓楽街などの性風俗を紹介したドキュメンタリー映画が公開され、「夜もの」と呼称されていた。それらの中で『ヨーロッパの夜』(Europa di notte, 1959年)などを撮っていたグァルティエロ・ヤコペッティが、世界の奇習や風俗を描いた決定版ともいうべき作品として製作したのが、本作である。

音楽

[編集]

過激な映像に対比的な美しい音楽を被せるパターンはこの映画によって確立された。リズ・オルトラーニによる主題曲「モア」はアカデミー歌曲賞にノミネートされた。本作では、未開孤立の山岳民族が、航空機が上空を飛ぶのを宗教的対象として崇める奇習の儀式の場面などで用いられた。「モア」は世界的にヒットし、さまざまなアレンジでカヴァーされるスタンダード・ナンバーとして定着した。

日本での興行と影響

[編集]

日本公開での邦題は、公開の前々年にヒットした大島渚監督の『青春残酷物語』(1960年)を意識して配給会社が考案したもの[2]。かならずしも残酷なシーンばかりを並べ立てた映画というのではなく、「カメラは残酷なまでに現実を捕らえる」「視点を替えて現実を直視すれば世界には様々な残酷が存在する」という意味が込められたものである。

日本でも、亜流の映画が多数作られている。日本でも国内の残酷映像を集めた『日本残酷物語』(1963年中川信夫・小森白・高橋典共同監督、新東宝興行)という映画が公開された。

この他、この印象的なタイトルを借用した劇映画も作られている。東映映画の多くの題名の命名者としても知られる岡田茂(元東映社長)は、1963年公開の今井正監督の映画に『武士道残酷物語』というタイトルを付けた[3]。また同年に岡田が題をつけた佐藤純彌監督デビュー作『陸軍残虐物語』は、「『残虐』とは何か」とヤクザ右翼が抗議し、東映に押しかけた[3][4]。このほか『幕末残酷物語』(1964年、加藤泰監督)などがある。

1976年に続編の『続・世界残酷物語』と合わせた『世界残酷物語・総集版』が日本公開されている。ナレーターは大平透。テレビ放映時のナレーターは藤村有弘

ストーリー

[編集]

タイトルバックにおいて、殺処分のために保健所に集められた犬の姿がとらえられる。場面は20世紀初頭の映画俳優、ルドルフ・ヴァレンティノをしのぶイベントが彼の故郷で行われている様子に飛び、カメラは往年のヴァレンティノのような扮装をした若い男たちが多数集まっているところをとらえる。「現代のヴァレンティノ」こと当時の人気俳優、ロッサノ・ブラッツィが女性ファンにもみくちゃにされる場面が流れると、間をおかず、トロブリアンド諸島・キリウィナ島の若い女たちが若い男たちを追いかけ回す奇祭の様子が紹介される。また、アメリカ合衆国のペット犬専用墓地における葬儀の様子が紹介されると、場面はすかさず台北の犬肉料理専門レストランに飛ぶ。このように、未開人の風俗や、文明人の文化などが、連想的に多数取り上げられていく。

など

スタッフ

[編集]

評価

[編集]
  • 劇中で紹介される芸術家イヴ・クラインは、試写会で本作を見て激怒し、心臓発作を起こして数日後に死亡した。激怒した理由は、彼が映画のために作曲した音楽が使われていなかったためだとも、悪意ある編集(欧米文明の大量消費の象徴として自動車のスクラップ工場が紹介された直後に、裸体の女性に絵の具を塗って絵筆として用いる彼のパフォーマンスが紹介される)のせいだとも言われている。
  • 高見順高見順日記』の1963年(昭和38年)4月22日の項には、「気持が悪く、中途で出る」との短い感想が記されている[5]

日本での放送歴

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)191頁
  2. ^ なお、1959年から平凡社より宮本常一編集による『日本残酷物語』という民俗学のシリーズも刊行されており、「残酷」という言葉は当時のブームであった。なお、この書籍シリーズは、本文中にある同題の中川信夫監督の映画とは、直接の関係はない。
  3. ^ a b 「映画界のドンが語る『銀幕の昭和史』 岡田茂」『新潮45』、新潮社、2004年9月号、204頁
  4. ^ 岡田茂『波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝』角川書店、2004年、147-148頁。ISBN 4-04-883871-7 
  5. ^ 続 高見順日記 2 わが文壇生活2』勁草書房、1975年、89頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1674553/51 
  6. ^ 1970年7月3日・読売新聞東京本社の東京12チャンネル広告同7月10日・朝日新聞東京本社版の東京12チャンネル広告

外部リンク

[編集]