史燿
史 燿(し よう、憲宗6年(1256年)- 大徳9年2月16日(1305年3月11日))は、モンゴル帝国に仕えた漢人軍閥の一人。字は煥卿。
『元史』には立伝されていないが『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑にその事蹟が記され、『新元史』には史公神道碑を元にした列伝が記されている。
略歴
[編集]史燿は金末の混乱期にモンゴル帝国に降った史秉直の曽孫にあたり、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯の中でも屈指の名家の出であった。史燿は史天倪の息子の史権の息子で、史権が屯田万戸として鄧州に駐屯していた時期、1256年(丙申)に鄧州で生まれた。史燿は史家の総領で大おじにあたる史天沢の下で育ち、史天沢は自らの孫と変わりなく史燿を愛したという[1]。
至元6年(1269年)より襄陽包囲戦が始まると、史天沢の息子の史格は亳州の兵を率いて遠征軍に加わった。このころ、史格にはまだ息子がいなかったため、史燿を養子に求め、史天沢がこれを許したことで史燿は史格の跡取りとなった。史燿は史格の下で軍事について学び、後に参政の崔斌のとともに趙宣機を討った時には、自ら敵勢を射殺す功績を挙げたことで「まさしく将種である」と評されたという[2]。
襄陽の陥落後、バヤンを総司令とする南宋領侵攻が始まると、史燿はエリク・カヤの率いる軍団に加わった。静江の陥落後、史燿は兵を率いて静江に残留することを命じられたため、理由を問いただしたところエリク・カヤは「吾が去った後土着の民が叛乱を起こせば、残った将軍は必ず処刑されるが、史宣慰(史燿)は功臣の息子であり、朝廷は重ねて罪を問うことはないだろう」と語ったという。これを聞いて史燿は静江に残留することを受け容れ、孤軍で広西地方の昭州・賀州・梧州・潯州・藤州・容州・象州・貴州・鬱林州・柳州・融州・賓州・邕州・横州・廉州・欽州・高州・化州の18州、広東地方の肇慶府・徳慶府・封州の3府州を平定する功績を挙げた。これらの功績により、同知潭州総管府事の地位を授けられている[3]。
その後、肇慶の盗賊趙都を内、更に奉訓大夫潭州路治中・広東道宣慰副使の地位に移った。黎徳の賊を平定した時は船1千艘を獲得し、更にソゲドゥとともに現在の広東省方面に進出した。浙江宣慰副使の地位に移ると、呂成・婁蒙才羅率いる10万の軍団を破る功績を挙げている。また、崖山の戦いで南宋を名実共に滅ぼした張弘範が帰還すると、史燿が率いていた亳州兵を譲るよう求めたため、詔を受けて史燿は亳州兵を張弘範に譲り自らは鄧州兵を率いるようになった[4]。
このころ、父の史格は既に右丞の地位にあったが、鄧軍の指揮権を張温に譲ろうとした。これを聞いたクビライは「太尉(史天沢)の軍を他の誰が率いることができようか」と述べ、血縁の者から後継者を選ぶよう指示した。そこで史格は改めて史燿を推薦したものの、史燿はこれを固辞したため、まだ幼い実子の史栄が長ずれば鄧軍を継承するよう遺言した。その後、史格が亡くなると史燿は朝列大夫・鄧州旧軍万戸の地位を継いだものの、棺の前で「史栄が成長すれば必ず鄧州旧軍万戸の地位を譲ります」と誓ったという。やがて史栄が14歳となるとともにクビライに謁見し、誓約通り鄧州旧軍万戸の地位を譲ることを申し出、クビライに認められている[5]。
至元29年(1292年)、ジャワ遠征の計画が始まった時には栄禄大夫・福建等処行中書省平章政事としてジャワ遠征軍の司令官に任命されることになったが、史燿は自らが年少であることを理由に辞退し国人(モンゴル人)を起用するよう請うた[6]。これに対してクビライは「太尉(史天沢)は漢人と同列ではなく、その孫もまた国人とかわりない」と述べたため、史燿は改めて高興・史弼を推薦し、この2名がジャワ遠征軍の司令官を務めることになったという[7]。
元貞元年(1295年)、オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世に入ると資徳大夫・江浙行省右丞の地位を授けられた[8]。大徳元年(1297年)、江西左丞に任じられた後、一時湖広左丞とされたが、再び江西左丞の地位に戻った。このころ、贛州で屯田を行っていたが、風土病の流行により兵の死者が多発したため、広東宣慰司とともに田租以外に丁糧を課す者を罪として処罰している。大徳7年(1303年)、ブルガン・カトン主導の政変によって政府高官が一斉に入れ替えられると、史燿も大司農に抜擢されている[9]。しかしそれから2年後、大徳9年(1305年)2月に50歳にして亡くなった[10]。
真定史氏
[編集]高祖某 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史倫 (季) | 佚名 (叔) | 佚名 (仲) | 佚名 (伯) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史成珪 | 佚名 | 佚名 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史進道 | 史秉直 | 史懐徳 | 佚名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史天沢 | 史天安 | 史天倪 | 史天祥 | 史天瑞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史格 | 史枢 | 史楫 | 史権 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史燿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑,「公諱燿、字煥卿。曽祖秉直、当歳癸酉、太祖加兵于金、率焦岱郷民万人迎降燕郊、官以行六部尚書。祖天倪以従蹕劗河北山東功、授金紫光禄大夫兵馬都元帥、開閫真定、武仙為倅、尚書策仙其志蓄禍、盍為備。都帥謂、大人奈何教児猜中而不信人。尚書恚其一孫不故真定総管摂江漢大都督権如北京、曰『吾不忍其併及難也』。後仙果戕都帥一家百口挙城臣金。都帥季中書右丞相贈太尉忠武公方為質、太師国王将覲漠北、在燕市贄物、聞変而南、収都帥潰軍。後真定逐仙出保西山、仙再盗入、再復之、遂南踰河。太宗以太尉為真定河間東平大名済南五路万戸。世祖淵龍以憲宗母弟総天下兵起平宋、本置屯田経略司于河之安、以太尉為使都督為屯田万戸、将兵二万戍鄧。当荊閫衝、歳丙申是地生公、幼為太尉所奇、愛異他孫。後罷世侯、移都督牧東平」
- ^ 『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑,「至元六年、方囲襄陽、太尉以開封奉朝請制始以元子格為万戸、猶避鄧之旧軍、将亳州兵。時未有子、屡求子公、太尉許之。凡囲襄下、鄂無不与偕、由是知兵。甫及冠、行省版長千夫、従参政崔公斌逐趙宣機、餘冠万人。公居顔行、射殺数人、賊気為隳、遂潰。崔善其能、曰『将種也』。解佩刀以贈」
- ^ 『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑,「後阿爾哈雅平章抜静江、独留戍帝兵。或請其由、則曰『吾去而是土或販、戍将必誅。史宣慰以太尉子、朝廷終不重罪之』。宣慰聞之甚慼、調其孤軍行徇定昭・賀・梧・潯・藤・容・象・貴・鬱林・柳・融・賓・邕・横・廉・欽・高・化広西之州十八、肇慶・徳慶・封広東之州三。公後殿而前茅之功、授承直郎同知潭州総管府事」
- ^ 『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑,「趙都軍盗拠肇慶、假公徳慶総管討平之、授奉訓大夫潭州路治中、改広東道宣慰副使。平賊黎徳、獲蜑船千艘、継餽唆都南征、事治而民安之。改浙江宣慰副使、従浙省臣破賊柳分使衆七千括蒼又破呂成・婁蒙才衆十万、斬其尤猖獗建黄屋署官至平章者楊鎮龍及厲制置、皆于東陽玉山摧兪高五百餘人。紹興又斬詹老鷂・林雄・劉甲一・潘正、皆有衆万餘、自王于温処間者。後元帥張弘範平南海還、求将亳、還鄧旧史氏、詔従之。朝廷以南紀平諸将功至省臣者、仍将其軍、制許自択、欲将去相、欲相罷将」
- ^ 『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑,「時公父已為右丞、宥密、請以張温将鄧軍。帝曰『太尉一軍、豈可代以他人、宜問其子格可誰授者』。右丞遣伻入聞『臣子燿可』。且召公来襲。公不至辞、以俟弟栄成、長則授之。明年、右丞升平章、俄薨、顧言以真定諸産貽之。公奔赴鄂、既至、明日制授朝列大夫・鄧州旧軍万戸。公号誓柩前、必以万戸帰栄、所親謂是虎節上瑞也、可伝子孫無窮、必且利之、言未足信。公乃究求貨財、為親長覬取者、多至万緡、皆奪帰之与田宅奴婢、析其五弟而自不有。挙平章及四夫人劉・儲両張氏之喪葬真定之真定県太保荘太尉次兆甫封、以栄入覲、曰『是臣所後父先臣某之子、生十四年矣、宜代臣将』。帝曰『太尉以官授二兄子、汝復欲解職、汝弟真太尉苗冑』。可之」
- ^ 愛宕1988,118頁
- ^ 『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑,「方議征闍波、大将未得、制授公栄禄大夫・福建等処行中書省平章政事、辞以年少無功、受寵太峻、請回臣所授他人、惟卑官以行。或請以国人首相、帝曰『太尉可同漢人耶、其孫非国人何』。公又請故平章政事某・知海道平章高興今河南省丞相者知兵偕行、亦可之、別錫虎符・鞍勒・弓矢・鍭甲。既行、集兵矣、会高平章請済師、帝曰『彼国之人祼而懦、多兵何為』。損其軍四之三、且不欲太尉諸孫蹈海、遂後公乃命今平章鄂国公史弼以行」
- ^ 『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑,「成宗元貞始年、賜錦衣二襲、拝資徳大夫・江浙行省右丞。臨安自入叛、図民居官屋入傭直、震邸者四万餘家。火餘、雖民自屋其基、而傭直不除。平章某者利之、謂地及丈可鬻楮緡、為銭五万与民、可免置官、歳徴其逋。鋭欲行之、公曰:是令一下、貧民無貲以取、取率富室、得不自居、亦傭之民加直其先民等傭居与直富室、何若仍帰震邸一定之直、歳無所加之寛乎。謀既不行、乃以東南之民多田而租入少、将覆畝以徴。公緩之、謂宜俟畢農功而議。又禁官市悪塩、鐫損江東金額。高麗王遣周侍郎浮海来商、有司求比泉広市舶十取其三。公曰『王于属為副車、且内附久、豈可下同海外不臣之国、惟如令三十税一』。会人訟、平章迎詔、裼衣上香、引公為徴。制遣御史即問、公言未見其裼、但不帯耳。当国者阿其人、顧奏公敗事、黜之」
- ^ 宮2018,353/414頁
- ^ 『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑,「大徳之元、遷江西左丞、俄移湖広左丞。一年、復江西左丞。以屯田贛州、軍兵多死瘴癘、与広東宣慰司加民丁糧于田租外者、皆罪之。召入為大司農、公不携家、乗伝赴之。既至、覈其公幣稽逋、為緡数千万、率勢位家假出為商、久未帰、其子銭者悉徴入之、人怨与請不恤也。未幾、杭章以太夫人楊年八十餘、求辞帰養、未報。以大徳九年乙巳二月壬辰薨、年五十」
- ^ 『牧庵集』巻16栄禄大夫福建等処行中書省平章政事大司農史公神道碑,「子、今瑞州総管。壎時為枢密院断事官、奉柩帰葬真定姜因祖山原都督公兆次。嘗読通鑑書閑武事者則其家学、故志功名、至所有誉。性剛狷、不撓于人、雖国人貴臣有不足吾意者、不少下之、亦有是恒齟齬而不少変其節。始至元十有二年、徇地広之西東、終二十有七年。中間為宣副、平群盗海浜浙左、歴紀有半。使黷于貨、子女玉帛将牣其家而無田于江之南無宅。官所至傭屋以居、積債在人、亦開国苗嗣。貴而能平者、雖五十不称天、亦不可謂之年云。嗚呼、其天乎哉。夫人劉氏、公祖姑之孫、以賢淑聞姻里。壎概其立政清慎明敏、世有史氏佳公子克世其家之目。女適王少師子典宝少監師聖、自餘男女一人。公召至京、始生而不及見者」
- ^ 宮2018,376頁
参考文献
[編集]- 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
- 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
- 『新元史』巻138列伝35史燿伝