多田礼吉
多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956年5月13日)は、日本の陸軍軍人、工学者。最終階級は陸軍中将。工学博士。
経歴
[編集]静岡県出身。鈴木与兵衛の二男として生まれ、多田鶴吉の養子となる。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。翌年2月、砲兵少尉に任官し由良要塞砲兵連隊付となる。陸軍要塞砲兵射撃学校教官などを経て、1909年(明治42年)11月、陸軍砲工学校高等科(15期)を卒業した。
1910年(明治43年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学に入学。1913年(大正2年)7月、同理学部物理学科を卒業した。1919年(大正8年)4月、砲兵少佐に昇進。同年12月、陸軍科学研究所員となり、1920年(大正9年)10月から1923年(大正12年)2月までヨーロッパに留学した。
留学中の1922年(大正11年)12月、陸軍技術本部員に発令され、1923年(大正12年)8月、砲兵中佐に進級。1926年(大正15年)7月、砲兵大佐に昇進し、同年11月、工学博士号を取得した。
1930年(昭和5年)3月から10月まで欧州に出張。1932年(昭和7年)4月、陸軍少将に進級し科学研究所第1部長に就任。1934年(昭和9年)8月、陸軍省兵器局長に転じ、1936年(昭和11年)3月、陸軍中将に進んだ。同年8月、陸軍科学研究所長に就任。1939年(昭和14年)3月、陸軍技術本部長となる。1940年(昭和15年)12月、待命となり、1941年(昭和16年)1月、予備役に編入された。1945年(昭和20年)5月から9月まで内閣技術院総裁を務めた。
戦後、公職追放となり、1952年(昭和27年)2月に解除された。
栄典
[編集]- 位階
- 1904年(明治37年)5月17日 - 正八位[1]
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位[2]
- 1910年(明治43年)9月30日 - 正七位[3]
- 1915年(大正4年)10月30日 - 従六位[4]
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正六位[5]
- 1931年(昭和6年)2月2日 - 正五位[6]
- 1936年(昭和11年)3月2日 - 従四位[7]
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[8]
著作
[編集]- 著書
- 『将来戦と科学新兵器』新東亜協会、1942年。
- 『南方科学紀行』科学主義工業社、1943年。
- 編著
- 『国防技術』白揚社、1942年。
親族
[編集]- 娘婿 明石正水(陸軍大佐)