太田忠
太田 忠(おおた ただし、1901年8月29日 - 没年不明[1])は、日本の作曲家、ピアニスト。
経歴
[編集]東京に生まれた。8歳からオルガンに親しみ、15歳からピアノと作曲を学んだ。
1919年に商業学校を卒業した後、歌曲と童謡を数多く作曲し、1924年にはピアノ練習曲を約30曲書いた[2]。
1927年に、管弦楽曲の作曲を志し、同年、新交響楽団にピアニストとして入団した。後にコロナ・オーケストラを経てP.C.L.管弦楽団へ移籍した[2]。
1930年、新興作曲家連盟に参加し、伊藤昇の《黄昏の単調》の演奏に加わる一方、ピアノ曲《ピエース》や歌曲《少女の子守唄》を発表した[1]。
1934年、清瀬保二、伊藤昇、江藤輝、石井五郎、中井俊二らと『新音楽派』を結成し、無調、微分音的作風を追究。ピアノ曲《都会の構成》で注目を浴びた[1]。1936年に発表したピアノ曲《交通標識》はアレクサンドル・チェレプニンに高く評価され、チェレプニンの手により演奏、録音、出版 (チェレプニン・コレクション No.5) された[2]。
1937年に東宝映画の音楽監督となるが、1941年に退社した[2]。また、1940年にはJOAKの委嘱により、国民詩曲として《狂詩曲第一》を提出した[2]。
1943年春以降、満州国の新京音楽団の専属作曲家として1年滞在し、満州音楽の調査、採譜、研究を行い、管弦楽曲《牡丹江組曲》を作曲し、満映にて劇映画3本、文化映画3本の音楽を担当し、蒙古に関する貴重な記録を残したが、これらは戦災で焼失した[2]。
1945年に帰国し、東宝管弦楽団のピアノ奏者を経て、日本劇場の振り付けピアノ奏者を務め、バレエ音楽を手がけた。なお、日本劇場在籍後の消息は不明である[1]。
主要な作品
[編集]管弦楽曲
[編集]- 山に寄する(昭和12年)
- 狂詩曲第一(昭和15年)
- 交響組曲「昭和の聖業」
- 前奏曲(昭和18年)
- 戦の太鼓(昭和19年)
室内楽曲
[編集]- 前奏曲(昭和3年)クラリネット、アルトクラリネット、バスクラリネット、ピアノ
- 原始の唄 三章(昭和6年)フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ピアノ、弦楽四重奏
- 都会の構成(昭和9年)2台ピアノ
- 前奏曲とロマンス(昭和15年)オーボエ、ヴァイオリン、ピアノ
- 「土爾扈特(トルグート)」七重奏(昭和18年)フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、弦楽三重奏
- 「漁翁楽」による幻想曲(昭和18年)フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ピアノ
独奏曲
[編集]- 牧歌(昭和5年)ピアノ独奏
- 原始の唄 三章(昭和6年)ピアノ独奏
声楽曲
[編集]- 少女の子守唄
舞台音楽
[編集]- 灰色の感覚(昭和22年)ピアノ独奏
- 不安をモチーフとして(昭和22年)ピアノ独奏
- 赤い土(朝鮮民謡による)(昭和22年)ピアノ独奏
- 平行線(昭和22年)ピアノ独奏
- メカニック(昭和22年)1管ジャズ編成
- 舞踊組曲「でもね」(昭和25年)
映画音楽
[編集]東宝映画
[編集]満映映画
[編集]- 『娘々廟会』(映画本編には「作曲:太田忠」とクレジットされているが、太田本人は作曲に難航し、一部分を早坂文雄が代作した)
- 『北載河』