宝塚海軍航空隊
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宝塚海軍航空隊(たからづかかいぐんこうくうたい)及びその前身組織・滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊(しがかいぐんこうくうたい たからづかぶんけんたい)は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。一挙に増加した予科練甲飛第13・14期の生徒を教育するために新設された予科練教育航空隊である。戦時統制の中で活動自粛・閉鎖に追い込まれた宝塚歌劇団の本拠地宝塚大劇場を借り受け、校舎・宿舎に充てて教育・訓練を施した。
沿革
[編集]- 1944(昭和19)年8月15日 兵庫県川辺郡小浜村の宝塚大劇場を接収し、滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊発足。第13期後期(奈良分遣隊入隊)・第14期前期の一部転入。
- 1944(昭和19)年9月1日 卒業生の飛行練習課程凍結。回天要員募集開始。
- 1944(昭和19)年11月28日 甲飛第15期(奈良分遣隊入隊者)転入。
- 1945(昭和20)年3月1日 独立、「宝塚海軍航空隊」開隊。大阪警備府隷下第24連合航空隊。甲飛第15期前期の一部(西宮分遣隊)より転入。
- 1945(昭和20)年4月1日 甲飛第16期入隊(最後の予科練生)。
- 1945(昭和20)年6月1日 予科練教育凍結。航空特攻要員は滋賀海軍航空隊へ転出。
- 1945(昭和20)年6月30日解隊
かろうじて甲飛第13期の卒業は果たしたものの、その多くは回天搭乗員に振り向けられ、パイロットへの志望が認められた者は僅かだった。解隊後の生徒は紀淡海峡の要塞構築作業に従事した。8月2日の作業では、生徒を乗せた汽帆船が鳴門海峡で撃沈され、82名が戦死している。1965年(昭和40年)、淡路島の鎧崎に慰霊碑を建立した際、宝塚音楽学校生徒10名が招待された。元隊員の「荒鷲の歌」斉唱に対し、歌劇団の代表曲「すみれの花」を唱和し、慰霊した。
脚本家の新藤兼人は海兵団へ入団後、徴用した建物を掃除する要員に任命され、天理教の信者詰所(海軍飛行予科練習生用)に続き、宝塚大劇場の掃除を行った。後にこの記憶を元に『陸に上った軍艦』(山本保博監督)の脚本を執筆している[1]。
主要機種
[編集]教育訓練部隊のため、航空機の配属はない。
歴代司令
[編集]- (昭和20年3月1日-昭和20年6月30日解隊)
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)
- 『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)
- 『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)
- 『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)
- 『海軍飛行豫科練習生1』(国書刊行会 1983年)
- 『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』(アテネ書房 1996年)
脚注
[編集]- ^ “<4> 戦争 人間性奪い家庭も破壊”. 中国新聞 (2009年8月21日). 2013年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月7日閲覧。