幡随院長兵衛
幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 慶安3年4月13日(1650年5月13日)あるいは、明暦3年7月18日(1657年8月27日)とも)は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。
生涯
[編集]元和8年(1622年)、誕生。唐津藩の武士・塚本伊織の一子とされているが、滅亡した波多氏の旧家臣の子であるという説や、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職・向導の実弟または幡随院の門守の子という説[1]もある。
父の死後、向導を頼って江戸に来て、浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたとされる。旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に呼び出され殺害されたという[注 1]。 没年月日は、『武江年表』やその墓碑によれば慶安3年4月13日(1650年5月13日)である[2][3]が、明暦3年7月18日(1657年8月27日)という説もある。享年36(満34-35歳没)。墓所は、東京都台東区東上野6丁目の源空寺。
登場する作品
[編集]映画
[編集]- 『大江戸五人男』1951年(昭和26年)、松竹30周年記念映画、監督:伊藤大輔、演:阪東妻三郎
- 『剣侠江戸紫(「花と龍・第1部」「花と龍・第2部」)』1954年(昭和29年)、新東宝創立7周年記念映画、演:大河内伝次郎
- 『花の幡随院』1959年(昭和34年)、松竹、演:八代目松本幸四郎
- 『旗本と幡随院 男の対決』1960年(昭和35年)、東映、演:若山富三郎
- 『花のお江戸の無責任』1964年、東宝、演:ハナ肇
小説
[編集]- 『男の系譜』(池波正太郎)
- 『侠客』(池波正太郎)- 史実とは異なり、本作に登場する長兵衛は父親の仇討ちのため唐津藩主・寺沢堅高を襲撃し、長兵衛と水野十郎左衛門は昵懇の間柄となっている。
- 『江戸一新』(門井慶喜)
テレビドラマ
[編集]- 『幡随院長兵衛』1958年(昭和33年)5月 - 10月、日本テレビ。演:坂東好太郎。
- 『幡随院長兵衛お待ちなせえ』1974年(昭和49年)4月 - 10月、NET。演:平幹二朗。
- 『長七郎江戸日記スペシャル 第6弾「風雲!旗本奴と町奴」』1986年4月1日、日本テレビ。演:御木本伸介。
- 『寛永風雲録 激突!知恵伊豆対由比正雪』1991年(平成3年)1月2日、日本テレビ。演:竜雷太。
- 『侠客・幡随院長兵衛』1995年(平成7年)10月6日、テレビ東京。演:村上弘明。池波正太郎の小説「侠客」のドラマ化。
マンガ
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 芝居『極付幡随長兵衛』の筋書きでは、長兵衛はこれが罠であることを勘づいていたが、引きとめる周囲の者たちを「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込む。酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺される。水野は、長兵衛殺害の件に関してはお咎めなしであったが、約7年後の寛文4年(1664年)3月26日、行跡怠慢の咎で実母・正徳院の実家である徳島藩藩主(蜂須賀家当主)・蜂須賀光隆の下に、弟・忠丘等共々お預けとなった。翌27日に評定所へ出頭したところ、出頭時の容姿が月代を剃らず着流しの伊達姿であったため、あまりにも不敬不遜であるとしてその日のうちに切腹、僅か2歳の嫡子・百助も誅されて、水野家は一時家名断絶となった。その後、弟の忠丘が元禄元年(1688年)に赦された後、元禄14年(1701年)に旗本となった事で、水野家は再興された。
出典
[編集]- ^ 台東区の史跡・名所案内
- ^ 武江年表, 三十三 (大正1)
- ^ 『実録 江戸の悪党 (学研新書)』学研パブリッシング、2010年、217頁。(Googleブックス)