御手洗辰雄
御手洗 辰雄(みたらい たつお、1895年(明治28年)3月23日[1] - 1975年(昭和50年)9月7日[1])は、日本のジャーナリスト。政治評論家。
経歴
[編集]大分県大分市出身[2]。旧制大分中学校を経て[3]、慶応義塾大学に入るが、1912年(大正2年)に中退[1][2][3]。地元の大分新聞(現・大分合同新聞)を経て[1][2][3]、上京し、1917年(大正6年)報知新聞社に入り[1][2][3]、社会部、政治部記者となり[1][3]、1922年(大正11年)社会部長となる[1][4][5]。1928年(昭和3年)に社内紛争のため退社[1][4]。その後は東京毎夕新聞、国民新聞、二六新報の各編集局長などを務め[4]、同郷の菊池寛の勧めにより『文藝春秋』に「城南隠士」のペンネームで政治評論を寄稿した[5]。1936年(昭和11年)に朝鮮に渡り、京城日報副社長となる[4][注 1]。1939年(昭和14年)同社長[1][4][5]、1942年(昭和17年)に退社[1]、翌年東京新聞論説委員長となる[1]。
戦後、公職追放となり[4]、1951年(昭和26年)追放解除[6]。追放解除後は政治評論家となり、選挙制度審議会委員、日本相撲協会運営審議委員会委員、横綱審議委員会委員、東芝機工(株)会長などを歴任した[1][5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『20世紀日本人名事典 そ~わ』2421頁では「(昭和)9年」。