恒川柳作
恒川 柳作(つねかわ りゅうさく 1854年5月 - 1914年1月24日)は、日本の海軍技師。横浜船渠第一号船渠(重要文化財)などのドライドックを建設したことで知られる。
経歴
[編集]1854年(安政元年)生まれ(神奈川県士族)。1869年(明治2年)横須賀造船所黌舎の官費生となる。「黌舎」はフランス人技術者による造船所内の学校である。1873年、黌舎を卒業し、海軍省の主船寮に出仕。以後、横須賀造船所で財産調査掛、外国費掛、通訳掛、建築課を務める。1886年(明治19年)、海軍省技手。第二海軍区鎮守府(呉)建築委員。1889年(明治22年)、呉鎮守府勤務、海軍省技師[1]。その後、築城部横須賀支部などに勤務。
この間に横須賀の2号ドックをはじめ、呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府でドライドックを建設、商用の横浜船渠のドックを設計した。
1914年(大正3年)1月24日、心臓麻痺で急逝、享年61。
栄典
[編集]- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等旭日中綬章、明治三十七八年従軍記章[3]
作品
[編集]- 横須賀造船所第2号船渠(1884年)ジュエット(E.A.Jouet)、恒川[4]
- 呉海軍工廠第1号船渠(1891年)山崎鉉次郎、恒川(廃止)
- 佐世保海軍工廠第1号船渠(1895年)石黒五十二、恒川(佐世保重工業5号ドック)
- 横浜船渠第2号船渠(1896年)恒川(ドックヤードガーデン、重要文化財)
- 石川島造船所浦賀分工場船渠(1898年)大倉粂馬、恒川、山崎鉉次郎(現存)
- 横浜船渠第1号船渠(1898年)恒川(日本丸メモリアルパーク、重要文化財)
- 舞鶴海軍工廠水雷艇船渠(1903年)石黒五十二、恒川
- 舞鶴海軍工廠1号船渠(1904年)石黒五十二、恒川(日立造船舞鶴造船所第2号ドック)
- 横浜船渠第3号船渠(1910年)恒川(廃止)
家族
[編集]長男、恒川陽一郎は谷崎潤一郎の友人で文学青年。人気芸妓萬龍と結婚し、小説『旧道』を著した。次男、恒川呉作は早稲田大学建築学科を卒業。
注釈
[編集]- ^ 国立公文書館「官吏進退・明治二十二年官吏進退八・海軍省二」[1]
- ^ 国立公文書館「任免裁可書・明治三十九年・任免巻二十二」[2]
- ^ 『官報』第7091号・付録「叙任及辞令」1907年2月21日。
- ^ 以下、西澤論文参照