斎村政広

 
赤松 広秀 / 赤松 広通
斎村 政広
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄5年(1562年
死没 慶長5年10月28日1600年12月3日
改名 赤松広英→広秀→広通[1]→政広
別名 広秀、広英[2]、広道[2]/広通
斎村弥三郎広英、斎村左兵衛
通称:弥三郎、孫二郎
神号 虎臥大明神[4]
戒名 乗林院殿可翁松雲大居士
墓所 法樹寺兵庫県朝来市和田山町竹田)
真教寺(鳥取県鳥取市戎町)
官位 従五位下左兵衛佐
主君 織田信長豊臣秀吉蜂須賀正勝)→秀吉→秀頼
氏族 龍野赤松氏
父母 父:赤松政秀、母:赤松晴政の娘
兄弟 広貞祐高政広
さごの方[6]二条昭実側室)
正室:宇喜多直家の娘
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斎村 政広(さいむら まさひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名播磨龍野城、のち但馬竹田城城主。赤松政秀の子で、赤松 広秀(あかまつ ひろひで)あるいは赤松 広通(あかまつ ひろみち)ともいう。

通称を弥三郎、孫二郎。官途は従五位下左兵衛佐宇喜多直家の娘を正室とした。

生涯

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永禄5年(1562年)、播磨龍野城主・赤松政秀の子として誕生。母は赤松晴政の娘。

元亀元年(1570年)、父・政秀、その後に兄・広貞が死去すると、若くして家督を継承した。政広の龍野赤松氏は支流ではあったが、守護赤松氏に入った赤松義祐[7]の七条流よりも、むしろ血統的に嫡流に近い家柄で、このために内紛を続けていた。しかし政秀の敗北で勢力を失い、広貞の頃から織田方荒木村重に人質を出して服属した。

天正3年(1575年)10月20日、政広も、先に降った小寺政識別所長治と共に上洛して織田信長に謁見した[8]。11月にも信長を訪問して太刀等を献上した[8]。このとき15歳である。初名かどうかは分からないが、この頃の龍野城主としての名乗りは広英(ひろひで)であった[1]

天正4年(1576年)3月、毛利・宇喜多軍が播磨に侵入すると、これに従う。同年11月4日、信長が安土より上京して妙覚寺に宿したが、政広、別所長治、浦上宗景が上京して伺候の挨拶をした[9]

天正5年(1577年)10月より羽柴秀吉は播磨に派遣されており[8]、広英は戦わずに龍野城を明け渡して家老の平井貞利の所領・平井郷佐江[10](竜野市揖西)に蟄居して、旧領安堵を訴えたが、認められずに鵤周辺に僅かな所領が与えるに留まった[11]。龍野城は取り上げられ、石川光元が城代として入った。以後、播磨で信長方として働き、中国の役が始まるとこれに従った。

天正7年(1579年)1月28日、毛利氏との戦いでの功を信長に賞されている[8]

天正8年(1580年)、秀吉が播磨を平定すると再び旧領回復を願い出たが、秀吉は家臣の蜂須賀正勝に龍野城5万3,000石を与えて、広英には太子寺付近の所領のみを与え、正勝の与力とした[12]

天正10年(1582年)2月、正勝に属して備中高松城の戦いに参加した[13]。3月にも蜂須賀隊の先陣を務めている[11]。6月、本能寺の変の後もそのまま秀吉に属した[8]。この頃、広秀(ひろひで)と同音異字に名乗りを変えている[1]

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは蜂須賀隊の先鋒を指揮し、正勝不在中は代わって全体を統括した。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の四国の役でも引き続き、正勝(あるいは家政)与力として活動[14]。四国の役の論功行賞で、正勝の子・家政は阿波一国(17万3千石)に移封されたが、龍野城は福島正則に与えられて帰還ならず、広秀は但馬竹田城主に封じられた[2][15][8]。以後は秀吉の直臣。

天正15年(1587年)、九州の役に従軍[2][15]。同年、秀吉の計らいで宇喜多秀家の妹と結婚した[16]。『武家事紀』によれば秀吉の赤母衣衆の1人に選ばれている[8]

天正18年(1590年)、小田原の役では後備として駿河に駐屯[8]沼津城に600騎。天正19年(1591年)、秀吉の三河吉良狩猟に随従した[15]

文禄元年(1592年)、文禄の役に従軍し、兵800を率いて朝鮮に渡海。釜山城の在番衆となった。帰朝後、文禄3年(1594年)には伏見城の普請を分担[15]。翌年、伏見城下に邸宅を許されたが、この頃に広通(ひろみち)と名乗りを改めた。また当時、竹田城で2万2,000石を知行していた[2][15]

慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物金5枚[8]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは石田三成に味方して西軍に与し、細川幽斎の居城である丹後田辺城を包囲した[2]。しかし関ヶ原本戦で西軍が敗れると、包囲を解いて帰還。但馬に侵攻した亀井茲矩とは旧交があり、その説得で東軍に降伏して、その要請を受ける形で、西軍の宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めた[15]が、このとき城下を焼き討ちして民家に放火したのを咎められ、戦後、徳川家康から切腹を命じられた[2][17]

同年10月28日、鳥取の真教寺で自刃した。享年39。竹田城は家康の命により山名豊国が接収し、その後、廃城とされた。

人物

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  • 儒学者藤原惺窩について漢学を学ぶなど、文化的一面もあった[2]
  • 竹田城主として養蚕や漆器業などを奨励し、領民に慕われていたという[18]
  • 朝鮮出兵の際に捕虜とされた朝鮮の高官・姜沆とも交遊を持ち、その帰国を支援した。姜の著作『看羊録』には赤松広秀の人格について「日本の将官は、すべてこれ盗賊であるが、ただ広通だけは人間らしい心をもっています」[3]という記述がある。
  • 同じく『看羊録』に姜沆に語った言葉として、「自分は〔加藤〕清正や〔藤堂〕佐渡〔守高虎〕らと仲違いしているので、〔互いに知り合っていることを〕決して佐渡の家に知られてはいけないのだ」とあり、加藤清正藤堂高虎とは不仲だったという[19]
  • 国重文の名刀獅子王の持ち主であったが、切腹の際に徳川方に没収された[20]

関連作品

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小説
映像
論文
  • 渡邊大門「赤松広英に関する一考察」(『太子町歴史資料館館報』14号、2012)

脚注

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  1. ^ a b c 西村 1979, p. 354.
  2. ^ a b c d e f g h 阿部 2001, p. 356
  3. ^ a b 田畑基 (2015年11月24日). “竹田城の履歴書(50)広秀への思い 今も昔も”. 朝日新聞デジタル. http://www.asahi.com/area/hyogo/articles/MTW20151124290680001.html 2018年9月11日閲覧。 
  4. ^ 『赤松廣秀公由緒記』によると没後150年忌に竹田城下で始まった祭礼に由来する。殿町城坂(表米神社境内の南側から竹田城跡南千畳に至る道)の登り口に新たに鳥居が建てられ「虎臥大明神」の額が掲げられていたと伝える[3]
  5. ^ 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年、182頁。ISBN 4639016328 
  6. ^ 足利義昭の上臈(高級侍女)であったが、天正3年に政広が織田信長に拝謁した頃に、信長の養女となって二条昭実に輿入れした。中御門宣教の日記『宣教卿記』によれば、当時、昭実にはすでに正室(若政所)がおり、少なくとも嫁いだ時には側室であった[5]
  7. ^ 赤松政則の婿養子となった義村の孫で、政広のおじにあたる。
  8. ^ a b c d e f g h i 谷口 1995, p. 6.
  9. ^ 史料綜覧10編911冊129頁.
  10. ^ 名字「斎村」はこの一時避難していた佐江村(または才村)に由来するという。
  11. ^ a b 西村 1979, pp. 17–18.
  12. ^ 西村 1979, p. 58.
  13. ^ 西村 1979, p. 63.
  14. ^ 西村 1979, p. 98.
  15. ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p. 113.
  16. ^ 西村 1979, p. 108.
  17. ^ この焼き討ち(焦土戦術)は、政広に寝返りを促して鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策であり、実行者の政広一人に罪をなすり付けたとする説が強いと言われている。また、行方知れずだった義兄弟の宇喜多秀家を匿ったという疑惑が囁かれていたのも理由とされる。
  18. ^ “「獅子王」の写し刀作成へ 28日から資金募集(リンク切れ)”. 神戸新聞NEXT. (2016年10月25日). https://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/201610/0009611513.shtml 2017年2月5日閲覧。 また“名刀「獅子王」418年ぶり竹田城へ 「刀剣女子」が一役”. 神戸新聞NEXT. (2018年4月20日). https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201804/0011180501.shtml 2018年4月21日閲覧。 
  19. ^ 姜沆(朴鐘鳴校注)『看羊録』平凡社東洋文庫,1984年、p.184
  20. ^ 福永酔剣『日本刀大百科事典』 3巻、雄山閣出版、1993年、12-13頁。 

参考文献

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  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、113頁。 
  • 阿部猛 著、西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、2001年。ISBN 4404017529 
  • 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、6頁。ISBN 4642027432 
  • 西村鉄治『赤松廣通(広秀・広英)』駟路の会、1979年。