本多忠平

 
本多忠平
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永9年(1632年
死没 元禄8年10月15日1695年11月21日
改名 唐之助(幼名)、忠泰[1]
戒名 高秀院殿英誉峯性統居士
墓所 奈良県奈良市二名の王竜寺
官位 従四位下能登守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
陸奥白河藩主→下野宇都宮藩主→大和郡山藩
氏族 本多氏(平八郎家)
父母 父:本多忠義、母:森忠政の娘・法光院
兄弟 忠平忠利忠以忠晴忠周忠常忠寄、清性院、井上正任正室、金森頼直正室、心涼院、清殊院、石川総良側室、勢幾、松平忠倫正室
池田光政の娘・奈阿
養子:忠常心涼院
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本多 忠平(ほんだ ただひら)は、江戸時代前期の大名陸奥国白河藩の第2代藩主、下野国宇都宮藩主、大和国郡山藩の初代藩主。官位従四位下能登守

生涯

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寛永9年(1632年)、本多忠義の長男として誕生した。寛文2年(1662年)11月25日、父の隠居により家督を継ぐ。弟のうち忠利に1万石(陸奥石川藩)、忠以に1万石(陸奥浅川藩)、忠晴に新田2500石、忠周に新田2500石を分与し、都合10万石となる。

天和元年(1681年)、宇都宮藩に移封された。宇都宮藩では年貢を減税するなど善政を布いたため民から慕われ、僅か4年後の貞享2年(1685年)に大和国郡山藩へ移封された後も宇都宮との領民との交流が続いた[1][注釈 1]

貞享2年(1685年)6月22日には郡山に12万石で移された。藩政においては城下町の新設や藩札の発行を行なっている。また、松波良利上島鬼貫を登用して財政改革も行なったが、失敗に終わった。

元禄8年(1695年)10月15日、江戸で死去した。享年66。実子がなかったため、実弟で養嗣子の忠常が跡を継いだ。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 宇都宮の領民は忠平の養子・忠常の廟所の門を自ら造った。

出典

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  1. ^ a b 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月、60頁。