東蒲原郡

日本 > 中部地方 > 新潟県 > 東蒲原郡
新潟県東蒲原郡の範囲(緑:阿賀町 薄緑:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入された区域)

東蒲原郡(ひがしかんばらぐん)は、新潟県下越地方福島県との県境に接する

人口8,628人、面積952.89km²、人口密度9.05人/km²。(2024年10月1日、推計人口

以下の1町を含む。

概要

[編集]

中心地域として、津川町が栄えた[1]

かつては越後国でありながらも長く会津地方の影響下にあり、郡の発足当初も福島県へ所属したが、のちの1886年から新潟県の所属となった[2][3]

郡域

[編集]

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。

近代以前

[編集]

越後国に所属

[編集]

東蒲原郡にあたる土地は、7世紀飛鳥時代)の令制国制度によって、越後国(現在の新潟県本州部分にあたる)に所属した。

会津の勢力下

[編集]

しかし、1172年承安2年、平安時代後期)に、越後国の豪族であった城氏城長茂(永用)が、隣接する陸奥国会津地方(現在の福島県の一部)の有力寺院である慧日寺僧侶乗丹坊に、自身の叔母を嫁がせた。そして長茂は現在の東蒲原郡にあたる「小川庄」を慧日寺に寄進し、緊密な関係を結んだ[2]

これにより東蒲原郡(小川庄)は会津の勢力による支配下に置かれ、また会津の文化圏に属することとなった[2]

以後700年間弱にわたって同郡は会津の勢力下にあり、1603年慶長8年)から1868年慶応4年)にわたる江戸時代においても、本郡の大部分は会津藩領地であった[4]

近代以降

[編集]

1868年明治維新に続く1871年明治4年)の廃藩置県の直後においても、同様に会津地方を管轄した若松県に所属した。

福島県に所属

[編集]

さらに1876年(明治9年)には、若松県が福島県[注釈 4]併合されたことで、本郡は福島県に属した。

さらに2年後の1878年(明治11年)には郡区町村編制法が施行され、翌1879年明治12年)に福島県で同法の施行により行政区画としての「東蒲原郡」が発足した。

新潟県へ移管

[編集]

若松県の分県論

[編集]

若松県が福島県の一部とされたことで、東蒲原郡および会津地方の住民にとっては、自県の県庁が会津の若松町(現在の会津若松市)から、奥羽山脈を隔てて遠く離れた中通りの福島町(現在の福島市)へと移管されたことで不便や衰退をきたした[5]。また、文化風習も会津と中通りでは異なったという[5]。このため、1881年明治14年)には「若松県を福島県から再び独立させるべきだ」とする分県運動が起こった[5][4]

とくに福島県内の西端にあった本郡は福島県庁へ非常に遠く、最短経路でも約130km前後、徒歩では24時間以上を要した[注釈 5]

県庁の移転論

[編集]

また、1883年(明治16年)には福島県全体としても、県庁を「県内の北端に位置する福島(現・福島市)ではなく、県の中央に位置する安積郡郡山町(現在の郡山市)へと移転するべきだ」という運動がおこり、1885年には福島県議会が「県庁を郡山へ移転する」ことを決議した。県議会はそれを大日本帝国政府へ上申した[6]

東蒲原郡の移管

[編集]

しかし、若松県の独立論および県庁の郡山移転論は、いずれも中央政府内務省)から却下された[5][6]

政府は県庁を北端の福島に留めることとし、かわりに福島から遠い東蒲原郡を新潟県へと編入して旧若松県から切り離すことで、分県運動を抑え込むことを狙った[4](事実、本郡からは福島県庁までより新潟県庁までのほうが2倍以上も近い[注釈 6])。

1886年(明治19年)5月25日に、東蒲原郡は福島県から新潟県へと移管された[3][2][5]。同時点で新潟県はすでに越後国のうち本郡を除く全域を管轄していた[注釈 7]ため、本郡は、古来より属した越後国へと再び合流する形となった。

移管手続き

[編集]

移管の事務手続きは、津川町(現阿賀町)の郡役所で行われ、福島県から新潟県へさまざまな事務や書類が引き継がれた[4]

その引き継ぎ資料を記録した書物『明治十九年東蒲原郡引受書』の中にある『東蒲原郡役所引渡目録』には、具体的な引き渡しの品目が記載されている。同目録には、多数の行政文書や帳簿類のほか、役所の備品として「土瓶10個」や「茶碗20個」「ランプ1個」「蚊帳1張」、またや肥桶に至るまでの品目が一つ一つ数えられて詳細に書き出された[4]

東蒲原郡の郡域および郡役所は不変であっても、他県へ所属を変更するという処理は、単なる名前の書き換え以上に手間を要する作業であった[4]

郡の存続へ

[編集]

東蒲原郡が新潟県へと移管された同日、郡の代表者33名が、視察に訪れた新潟県令県知事)の篠崎五郎に、「東蒲原郡と郡役所を今まで通りに存続してほしい」と請願した[4]

当時、「小さい郡の独立は経済的に効率が悪いから、東蒲原郡は郡役所を廃止して北蒲原郡に併合すべき」という風聞があったという。これに対して郡代表者たちは、「住民が暮らす地域が10(約40km)にわたっており、小さい郡ではない」こと、「過去に700年以上も独立した郡として統治されてきた」ことをあげて、郡と郡役所の存続を請願した[4]

結果として、東蒲原郡の廃止や併合は行われることなく、現代まで東蒲原郡・阿賀町として存続することとなった[4]

年表

[編集]

郡発足までの沿革

[編集]
野村、広沢新田村、払川村、九島村、高清水村、野中村、太田村[注釈 8]、小山村、芹田村、小杉村、高出村、栃堀村、広瀬村、鍵取新田村、室谷村、八田蟹村、漆沢村、小手茂村、黒谷村、相高島村、明谷沢村、粟瀬村、安用村、押手村、大尾村、柴倉村、土井村、東山村、牧野村、東岐村、石畑村、津川町、平堀村、天満村、花立村、倉平村、焼山村[注釈 9]、田沢村、福取村、八ツ田村[注釈 10]、鹿瀬村、向鹿瀬村、水沢村、当麻村、菱潟村、船渡村[注釈 11]、麦生野村、馬取村、新渡村、実川村、西村、角島村、京瀬村、大牧村、小花地村、谷沢村、白崎村、川口村、吉津村、岩谷村、五十島村、取上村、石戸村、長谷村、熊渡村、石間村、佐取村、小松村、五十沢村、細越村
明治8年の合併
  • 三郷村 ← 野村、天満村、花立村
  • 常浪村 ← 広沢新田村、平堀村
  • 両郷村 ← 高清水村、野中村
  • 豊川村 ← 太田村、小山村、石畑村
  • 日野川村 ← 芹田村、小杉村、高出村
  • 広谷村 ← 栃堀村、八田蟹村、漆沢村
  • 神谷村 ← 広瀬村、鍵取新田村、室谷村
  • 三方村 ← 黒谷村、明谷沢村
  • 三宝分村 ← 相高島村、粟瀬村、安用村
  • 七名村 ← 押手村、大尾村
  • 大倉村 ← 柴倉村、土井村
  • 小出村 ← 牧野村、東岐村
  • 栄山村 ← 倉平村、焼山村、田沢村
  • 鳥井村 ← 福取村、八ツ田村
  • 日出谷村 ← 水沢村、当麻村
  • 菱渡村 ← 菱潟村、船渡村
  • 麦馬渡村 ← 麦生野村、馬取村、新渡村
  • 清川村 ← 角島村、京瀬村、大牧村
  • 谷花村 ← 小花地村、谷沢村
  • 白川村 ← 白崎村、川口村
  • 岩津村 ← 吉津村、岩谷村
  • 上戸谷渡村 ← 取上村、石戸村、長谷村、熊渡村
  • 小石取村 ← 石間村、佐取村、小松村
  • 内川村 ← 五十沢村、細越村
  • 明治9年(1876年
    • 8月21日 - 第2次府県統合により福島県の管轄となる。
    • 菱渡村・麦馬渡村が合併して豊田村となる。(1町32村)

郡発足以降の沿革

[編集]
  • 明治12年(1879年1月27日 - 郡区町村編制法の福島県での施行により、福島県蒲原郡に行政区画としての東蒲原郡が発足。郡役所を津川町に設置。
  • 明治19年(1886年5月27日 - 新潟県の管轄となる。
  • 明治22年(1889年4月1日 - 町村制の施行により以下の町村が発足。特記以外は現・阿賀町。(1町11村)
    • 津川町(単独町制)
    • 両鹿瀬村 ← 鹿瀬村、向鹿瀬村
    • 日出谷村(単独村制)
    • 豊実村 ← 豊田村、実川村
    • 小川村 ← 常浪村、三郷村、栄山村、鳥井村
    • 上条村 ← 払川村、九島村、両郷村、小出村
    • 西川村 ← 日野川村、豊川村、広谷村、神谷村
    • 東川村 ← 東山村、三方村、小手茂村、七名村、三宝分村、大倉村
    • 揚川村 ← 西村、谷花村、清川村
    • 三川村 ← 岩津村、内川村、白川村、北蒲原郡岡沢村、行地村、新谷村
    • 綱木村 ← 北蒲原郡綱木村、古岐村、中ノ沢新田
    • 下条村 ← 上戸谷渡村(現・阿賀町)、小石取村(現・五泉市、阿賀野市、阿賀町)、五十島村(現・阿賀町)
  • 明治30年(1897年1月1日 - 郡制を施行。
  • 明治41年(1908年9月1日 - 三川村・綱木村が合併し、改めて三川村が発足。(1町10村)
  • 大正12年(1923年3月31日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
  • 大正15年(1926年6月30日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
  • 昭和29年(1954年12月1日 - 上条村・西川村・東川村が合併して上川村が発足。(1町8村)
  • 昭和30年(1955年
    • 1月15日(1町5村)
      • 津川町・小川村および揚川村の一部(西・清川)が合併し、改めて津川町が発足。
      • 三川村および下条村の一部(五十島・上戸谷渡および石間・小松)、揚川村の一部(谷花)が合併し、改めて三川村が発足。
      • 下条村の一部(小石取の一部、佐取)が五泉市に編入。
    • 4月1日 - 両鹿瀬村・豊実村・日出谷村が合併して鹿実谷村が発足。(1町3村)
  • 昭和31年(1956年
    • 1月1日
      • 鹿実谷村が町制施行して鹿実谷町となる。(2町2村)
      • 三川村の一部(小松)が北蒲原郡安田村に編入。
    • 1月10日 - 鹿実谷町が改称して鹿瀬町となる。
  • 平成17年(2005年)4月1日 - 津川町・鹿瀬町・上川村・三川村が合併して阿賀町が発足。(1町)

変遷表

[編集]
自治体の変遷

明治以前 明治8年 明治9年 明治22年
4月1日
町村制施行
明治22年 - 大正15年 昭和元年 - 昭和30年 昭和31年 - 昭和64年 平成元年 - 現在 現在



鹿瀬村 鹿瀬村 鹿瀬村 両鹿瀬村 両鹿瀬村 昭和30年4月1日
鹿実谷村
昭和31年1月1日
町制 鹿実谷町
昭和31年1月10日
改称 鹿瀬町
平成17年4月1日
阿賀町
阿賀町
向鹿瀬村 向鹿瀬村 向鹿瀬村
水沢村 日出谷村 日出谷村 日出谷村 日出谷村
当麻村
菱潟村 菱渡村 豊田村 豊実村 豊実村
船渡村
麦生野村 麦馬渡村
馬取村
新渡村
実川村 実川村 実川村
払川村 払川村 払川村 上条村 上条村 昭和29年12月1日
上川村
上川村
九島村 九島村 九島村
高清水村 両郷村 両郷村
野中村
牧野村 小出村 小出村
東岐村
芹田村 日野川村 日野川村 西川村 西川村
小杉村
高出村
太田村 豊川村 豊川村
小山村
石畑村
栃堀村 広谷村 広谷村
八田蟹村
漆沢村
広瀬村 神谷村 神谷村
鍵取新田村
室谷村
東山村 東山村 東山村 東川村 東川村
小手茂村 小手茂村 小手茂村
黒谷村 三方村 三方村
明谷沢村
押手村 七名村 七名村
大尾村
相高島村 三宝分村 三宝分村
粟瀬村
安用村
柴倉村 大倉村 大倉村
土井村
津川町 津川町 津川町 津川町 津川町 昭和30年1月15日
津川町
津川町
広沢新田村 常浪村 常浪村 小川村 小川村
平堀村
野村 三郷村 三郷村
天満村
花立村
倉平村 栄山村 栄山村
焼山村
田沢村
福取村 鳥井村 鳥井村
八ツ田村
西村 西村 西村 揚川村 揚川村
角島村 清川村 清川村
京瀬村
大牧村
小花地村 谷花村 谷花村 昭和30年1月15日
三川村
三川村
谷沢村



綱木村 綱木村 綱木村 綱木村 明治41年9月1日
三川村
古岐村 古岐村 古岐村
中ノ沢新田 中ノ沢新田 中ノ沢新田
岡沢村 岡沢村 岡沢村 三川村
行地村 行地村 行地村
新谷村 新谷村 新谷村



吉津村 岩津村 岩津村
岩谷村
五十沢村 内川村 内川村
細越村
白崎村 白川村 白川村
川口村
取上村 上戸谷渡村 上戸谷渡村 下条村 下条村
石戸村
長谷村
熊渡村
五十島村 五十島村 五十島村
石間村 小石取村 小石取村
小松村 昭和31年1月1日
北蒲原郡安田村に編入
昭和35年4月1日
町制 北蒲原郡安田町
平成16年4月1日
阿賀野市
阿賀野市
佐取村 昭和30年1月15日
五泉市に編入
五泉市 平成18年1月1日
五泉市
五泉市

行政

[編集]
福島県東蒲原郡長
氏名 就任年月日 退任年月日 備考
1 明治12年(1879年)1月27日
明治19年(1886年)5月26日 新潟県に移管
新潟県東蒲原郡長
氏名 就任年月日 退任年月日 備考
1 明治19年(1886年)5月27日
大正15年(1926年)6月30日 郡役所廃止により、廃官

注釈

[編集]
  1. ^ これらの地域は後の1889年北蒲原郡から編入する。
  2. ^ 1956年北蒲原郡に編入。
  3. ^ 1955年に五泉市に編入。
  4. ^ 当時までの『福島県』は、中通り(現在の福島市や郡山市、白河市など)のみを管轄していた。
  5. ^ Google マップで、現在の阿賀町役場から福島県庁へ移動する場合。
  6. ^ 現在の阿賀町役場から新潟県庁までの距離は、自動車で最短経路を移動した場合で約52km、所要時間は約50分前後である。一方、福島県庁までは約136km、約110分前後を要する。計測はGoogle マップに基づく。
  7. ^ 新潟県はまた、越後国とは別である佐渡国も管轄した。
  8. ^ 記載は大田村。
  9. ^ 記載は八木山村。
  10. ^ 記載は八田村。
  11. ^ 記載は舩渡村。

出典

[編集]
  1. ^ 阿賀野川流域パンフレット-川と交通 - 流域の歴史年表”. きらり四季彩 阿賀野川. 国土交通省北陸地方整備局 阿賀野川河川事務所 (2007年4月26日). 2021年9月30日閲覧。
  2. ^ a b c d 新潟県立図書館 (2016年3月25日). “リファレンス事例詳細 - 東蒲原郡に関する下記3点について”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2021年9月30日閲覧。
  3. ^ a b 明治19年勅令第43号(『官報』第856号、明治19年5月12日、p.113.
  4. ^ a b c d e f g h i 越後佐渡ヒストリア> [第76話]東蒲原郡のお引っ越し-茶碗の数も確認します-”. 新潟県立文書館. 2021年9月30日閲覧。
  5. ^ a b c d e 大内雅人「福島県域の成立と会津若松分県問題」『学習院史学』第41号、学習院大学史学会、2003年3月、70-83頁、CRID 1050564288171438720hdl:10959/1833ISSN 02861658 
  6. ^ a b 福島県議会主要年表(明治元年~24年)”. 福島県議会. 福島県 (2015年11月24日). 2021年9月30日閲覧。

参考文献

[編集]

関連文献

[編集]
  • 赤城源三郎『東蒲原郡のなりたち』津川町公民舘、1951年。NCID BN11057504 
  • 入間田宣夫「特別寄稿 中世小川荘の歴史 越後と会津のはざまにて」『阿賀路 東蒲原郡郷土誌』第60号、阿賀路の会、2022年、14-29頁。 
  • 寺田徳明 編『東蒲原郡史蹟誌』東蒲原郡教育会、1928年。NDLJP:1177986 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

『越佐地図教科書』(国立国会図書館デジタルコレクション)- 1896年(明治29年)1月出版。人口 19,428人、戸数 3,229との記述あり

先代
蒲原郡
行政区の変遷
1879年 -
次代
(現存)