松平忠堯
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和元年6月9日(1801年7月19日) |
死没 | 元治元年8月14日(1864年9月14日) |
改名 | 鶴松丸(幼名)、忠堯 |
戒名 | 大休院殿仙翁道間大居士 |
墓所 | 埼玉県行田市埼玉の天祥寺[1] |
官位 | 上野介、民部大輔、下総守、修理大輔、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 伊勢桑名藩主→武蔵忍藩主 |
氏族 | 奥平松平家 |
父母 | 松平忠翼、松平忠和養女・国姫 |
兄弟 | 忠堯、忠彦、小笠原政礼、忠国、 米津政饒、於トシ、増山正直正室、操子 |
妻 | 伏見宮貞敬親王第二王女・韶子 |
子 | 忠彦(異母弟、養嗣子) |
松平 忠堯(まつだいら ただたか)は、江戸時代後期の大名。伊勢国桑名藩7代藩主、武蔵国忍藩主。官位は下総守。奥平松平家9代。
生涯
[編集]享和元年(1801年)6月9日、桑名藩主・松平忠翼の長男として誕生。嫡出であったため、家祖・松平忠明の幼名である鶴松丸を名付けられた。文政4年(1821年)、父の死去に伴い藩主となり、文政6年(1823年)3月24日には三方領知替えにより、阿部正権の後の武蔵忍藩へ転封を命じられた。
天保3年(1832年)、侍従に任官。天保9年(1838年)、弟・忠彦に家督を譲って隠居した。元治元年(1864年)8月14日、死去した。享年64。
系譜
[編集]父母
正室
養子
- 松平忠彦 ー 実弟