横浜暗黒街 マシンガンの竜
横浜暗黒街 マシンガンの竜 | |
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監督 | 岡本明久 |
脚本 | 松田寛夫 |
出演者 | 菅原文太 三益愛子 田中邦衛 中野英治 千葉真一 中島ゆたか 小池朝雄 江波杏子 |
音楽 | 青山八郎 |
撮影 | 飯村雅彦 |
編集 | 戸田健夫 |
製作会社 | 東映東京撮影所 |
配給 | 東映 |
公開 | 1976年2月28日 |
上映時間 | 94分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
『横浜暗黒街 マシンガンの竜』(よこはまあんこくがい ましんがんのりゅう)は、1976年(昭和51年)2月28日に東映系で公開された日本映画である。94分。
概要
[編集]矢吹マサ(三益愛子)と矢吹竜太(菅原文太)による母子ギャングアクション。三益と菅原は強奪、殺人もものともしない兇悪なギャング団の母子で、三益扮する母親はしっかりもので男勝り。ところが菅原扮する息子は母親にまるで頭が上がらないグータラ。近親相姦的描写もある異色の設定[1]。
スタッフ
[編集]- 企画:俊藤浩滋、太田浩児
- 脚本:松田寛夫
- 撮影:飯村雅彦
- 照明:川崎保之丞
- 録音:井上賢三
- 美術:中村修一郎
- 編集:戸田健夫
- 助監督:福湯通夫
- 記録:山内康代
- 擬斗:日尾孝司
- 刺青:毛利清二
- スチール:加藤光男
- 進行主任:志村一治
- ファッションコーディネーター:北本正孟
- 演技事務:山田光男
- 現像:東映化学
- 音楽:青山八郎
- 挿入歌:「いとしのエンジェル」
- 唄:チェリーボーイズ
- 協力コーディネーター:SOSモデルエージェンシー
- 監督:岡本明久
出演
[編集]- 矢吹竜太(横浜のギャング):菅原文太
- 関光一(竜太の舎弟・暴走族):岩城滉一
- 瀬川次郎(竜太の舎弟・レーサー):千葉治郎
- 池部里子(竜太の昔の恋人):江波杏子
- 白石めぐみ(竜太の愛人):中島ゆたか
- 矢吹マサ(竜太の母):三益愛子
- 古屋政治(睦連合幹部):山本麟一
- 権藤(古屋の懐刀):葉山良二
- 西部貴博(西部三兄弟長男):今井健二
- メリケン武(めぐみのヒモ):白石襄
- 杉見啓一郎(海老原の上司):室田日出男
- 西部厚志(西部兄弟三男):石橋蓮司
- 青木(古屋の子分):中田博久
- 藤原清二(竜太の仲間):日尾孝司
- 刑務看守:藤山浩二
- 刑務所所長:河合絃司
- 睦連合幹部:近藤宏
- 桑名(刑務所の刺客):山本昌平
- 刑務看守:相馬剛三
- 西部政明(西部三兄弟次男):土山登士幸
- 関の仲間:光本大介
- 武の仲間:佐藤晟也
- タクシー運転手:久地明
- 佐々木(刑務所の刺客):原田力
- クラブのボーイ:伊達弘
- 石原(刑務所の刺客):衣竜快次
- 睦連合組員:亀山達也
- 塚越登(竜太の舎弟):青木卓司
- 密航漁船の漁師:高月忠
- 五十嵐(麻薬の取引相手):西本良二郎
- チャーリー・ロブソン:トニー・セテラ
- 睦連合組員:滝波錦司
- 睦連合の仲間:三重街恒二
- 麻薬課第四課長:山田光一
- 囚人:水原仗二
- サム・ネルソン:ジョージ・フィリップス
- 関の仲間:貝之瀬一夫、幸英二
- 警官:五野上力
- 五十嵐の仲間:栗原敏
- 関の仲間:大蔵晶
- 五十嵐の仲間:鈴木弘道
- 睦連合組員:清水照夫、大泉公孝
- 春日巡査:畑中猛重
- 囚人:城春樹
- 刑務所の看守:山浦栄
- 五十嵐の仲間:山岡淳二
- サブ(関の仲間):青山敦夫
- 囚人:松沢勇、比良元高
- 刑務看守:横山繁
- 睦連合組員:高島志敏
- 関の仲間:宮地謙吾、津森正夫
- クラブのボーイ:木村修
- クラブのホステス:章文栄、小川レナ
- 海老名透(潜入取締官]:田中邦衛
- 大門正吾(睦連合会長):中野英治
- 荒尾孝作(旭連合と繋がっている刑事):小池朝雄
- 小松啓市(密航屋):千葉真一
製作
[編集]企画
[編集]1975年夏に公開した『トラック野郎・御意見無用』の思いがけないヒットに伴い[2]、観客の平均年齢の若返り(22・9歳)を見た東映社長・岡田茂は[2][3]、1976年1月「『トラック野郎』の記録的ヒットは、従来の東映イコールやくざとポルノというイメージを破った。ここ十数年、東映の作品に見向きもしなかった家族づれや若い女性客が戻って来た。不況時には明るくカラッとした笑いあり涙ありの娯楽映画がヒットする」[3]、「これまでの任侠、実録路線から、"健全喜劇路線"を敷く」と発表した[2][3][4]。「その第一弾としてファッショナブルなギャング映画『横浜暗黒街 マシンガンの竜』を菅原文太主演で製作、新人の岡本明久を監督で起用する」と合わせて発表した[2]。発表直前のタイトルは『横浜マフィア・バラキの舎弟』だった[5]。
ギャング映画(Gangster film)/フィルム・ノワールは、アメリカで1920年代後半から作られ[6][7][8]、戦後にヨーロッパ、フランスやイタリアなどでも作られた[6][9][10]。日本の映画会社もそれを下敷きに古くからギャング映画を作ってきた[6][9][11][12]。本作に出演する中野英治は、「昭和五、六年にアメリカ映画でギャングものがはやったころ、日本でその種のものをしたのはぼくが最初」と述べている[2]。ただ、双葉十三郎は「中野英治や浅岡信夫の活劇には悪漢が登場したが、ギャングと呼べるようなものではなかった。日本でこのジャンルが確立し流行したのは戦後になってから」と述べている[6]。戦後、日活や大映、東宝でもその手の映画は作られたが[11]、東映でも1960年代前半に、当時東映東京撮影所(以下、東映東京)所長だった岡田茂が、東映東京の現代劇スターを総出演させ「東映ギャング路線」としてギャング映画を量産したことがある(東映ギャング路線)。菅原文太は当時、松竹所属だったのでこれには参加していない。菅原は本作で「久しぶりのギャング映画で楽しい。何をしてもソーカイ感がある。映画はやっぱりつまらんモラリズムで作っちゃいかん」などと述べているが[13]、前に出たギャング映画は何なのかは不明。
岡田が東映京都撮影所(以下、東映京都)に撮影所長として帰還し、東映京都刷新の大ナタとして任侠路線を拡大させて時代劇からの転換を謀ったため[14]、東映でギャング映画は作られなくなった[15]。その後は時折、思い出したようにギャング映画を作った[16]。
監督
[編集]東映の社員である岡本明久が監督に抜擢された[17]。当時、日本のメジャー会社での新人監督の起用は極めて少なく、二作目、三作目を撮れる人はごく僅か[17]。1972年から1976年の岡本までは12人の新人監督が東映からデビューしたが[18]、東映社員の岡本の次の新人抜擢は、1981年『野菊の墓』の澤井信一郎までなかった。岡本は「スター主演の映画は荷が重いが、ファッションやロック音楽を使って華やいだ暗黒映画を作りたい」と述べた[2]。岡本は真面目に超が付く人柄。撮り終わった後、「ところであのカットが...」とリテイクしたがるので有名だったという[19]。
脚本
[編集]松田寛夫は、1949年のジェームズ・キャグニー主演・ラオール・ウォルシュ監督『白熱』を始めとする代表的なギャング映画を参考に脚本を書いた[2]。『白熱』に『ビッグ・バッド・ママ』と『明日よさらば』をヒントにしている[20]。
衣裳
[編集]派手なアクションシーンもさることながら菅原文太が着る数々の豪華な衣裳が見もの[13][21]。衣裳担当に北本正孟を招き、外国製のスーツ二、三十点の中から十一点を選んだ。その衣裳代は351万円[2]。スーツ以外にもピアジェやランバン、ボルサリーノなどの高級品を揃えた[21]。通常作品の出演者全員の衣装代と同額[21]。真っ赤なスーツにマシンガンというスタイルもあり[21][22]、バタ臭い雰囲気を出すためリアリズムは二の次。「仁義なき戦いシリーズ」で見せるヤクザファッションや「トラック野郎」でのダボシャツに腹巻き、草履履きとは違い、男性ファッションモデルの草分けとも評される[13]菅原文太の別の一面を披露する[21]。
キャスティング
[編集]菅原は『トラック野郎・御意見無用』の大当たりと復活した第18回ブルーリボン賞主演男優賞を受け、東映のトップスターに収まった1976年の第一作[17]。菅原はアウトローを演じることに対して「人間、五十歩、百歩。ヤクザもカタギも、そうそう変わりゃァせんと思うよ。ぼくなんか彼らと付き合わなきゃ仕事が成立しない部分もあるからな。多分に好きなところも感じるんだね。男っぽいし、またひどく女性的。双方、原始的に渾然としとるんだ。何より構造が単純だから端的に人間の裸形が見れる。くだらんインテリと付き合うよりずっと気持ちがいいよ。彼らは観念でゴチャゴチャ誤魔化し合うようなマネはしやせんからさ。そんな非道徳的なと言われりゃそれは仕方がない。人間、人様の在り様を非難する権利なぞ、持っとりゃせんと思うだけでね。ようするにぼくは大した人間でありゃァせんのですよ。俳優としても華麗な〈星〉じゃない。お客と同じ次元で生きてる、大した人間じゃない者の代表ということじゃないか。そいつを忘れて帝国ホテルを常宿にするような〈星〉になったら、あっという間に奈落の底だな、そう思っとります。伊藤大輔さんもおっしゃってるけど、映画は多様な芸術のアイノコ。娼婦の腹を借りた私生児なんだ。それを芸術だと錯覚したとき日本映画はダメになった。かつて文芸映画の巨匠といわれる人が映画を毒したね。あれで映画は本来の動きまわるという原始的なエネルギーを失った。ぼくはそれを奪還したい。今度の竜はその一矢さ。もちろん上手くいくかどうかは分からんよ。しかし東映のヤクザ映画はくだらんモラリズムを打破する切っ掛けを作った。去年は『トラック野郎』が当たった。今年は映画本来の喜劇と活劇に戻るチャンスだという気がするんだ。俳優も映画も動かなくなったら終わり。そういうことなんだよ」などと話した[13]。
菅原を追い詰める組織の筆頭幹部が中野英治[2]。中野は昭和初期の日活の大スターで[2]、ギャングスターとしても活躍し、石津謙介がお洒落の手本にしたという日本にダンディな男性ファッションを持ち込んだ一人といわれる[2][23]。本格的な映画出演は40年ぶりで[2]、本作は菅原文太・中野英治の"新旧ギャング・スターの顔合わせ"としても話題を呼んだ[2]。中野は当時71歳。菅原のダンディぶりに引けをとらないモダンな感覚は年を感じさせない。「無類の好奇心持ちよ」と笑い「俳優なんていやだった。昔からバカな脚本でバカな監督に命令されるのは耐えられないんでね。すぐにも辞めようと思ったが、出演料の前借りをしてたので昭和12年まで拘束されてたのさ。フリーになった時、空は青かったね」と話した。戦後、友人だった溝口健二に俳優捜しを頼まれたことを切っ掛けにマネージャー業になったが、映画斜陽と共に大映の嘱託も断り金融会社に就職、株式運営法を勉強して生きてきた[2]。1975年の暮れ、俊藤浩滋プロデューサーから「あんたまだやれるよ」と口説かれたが「声もいかれたしやる気ないよ」と断った[2]。しかし俊藤が金融会社社長と話を決め「当たり屋に付けがオレのモットー。売れっ子の文太の相手だし、恥をかかないで済むならまあやろうかと。ギャング役はね、二枚目だけじゃダメだ。ドスが効いてなくちゃ。その点彼は最適」と出演を決めた[2]。菅原は「ぼくが4歳の時引退した大先輩と共演できるなんて光栄」と話し「昔のようなモダンでファッショナブルなギャング映画を再びやるべきだと三年前から言っとったのがようやく実現した」と話した[2]。
菅原の母を演じるのは戦後、母もの映画で紅涙を絞った三益愛子で当時65歳。強奪・殺人をものともしないギャング団のボスという設定にかつての三益ファンも腰を抜かすが、プラスヌードも披露[1]。脚本を読んだ三益は目を剥いて尻込みしたが、菅原と岡本監督に熱心に口説かれ「裸のシーン無しでなら」という条件で出演をOKした[1]。しかしクランクインして「奇妙な母子の情愛を表現するには絶対に必要な場面」と悟り「エ―イ私もプロ、おまけに裸が恥ずかしい歳でもなし、やりましょう」と超ベテランの女優根性を見せ、菅原との混浴場面でヌードになった[1]。三益は「私は若い頃から体つきはいい方で、出るところ出て、引っ込むところは引っ込んでましたよ。自分でいうのもなんですが、四人の子供を産んだ体にしてはキチンとしていると思うわね」と話した[1]。
また、中島ゆたかが初めての濡れ場を演じる[24]。この後クールな悪女役で鳴らす中島であるが[25]、「撮影後はショックで泣いた」と話している[24]。“映画、ドラマは女優で観る!”と公言する秋本鉄次は[26]、わが"女優ヌード史"の中で、お宝もののご贔屓女優の初ヌードを2つ選べば、『砂の香り』の浜美枝と『横浜暗黒街 マシンガンの竜』の中島ゆたか[27]。絶対脱がないと言われていた東映の清純派が、文太兄ィ相手に女性上位で88cmのバスト悶絶場面を感無量の思いで見た時のことを昨日のように思い出す」と話している[27]。
撮影
[編集]1976年2月15日、東京銀座で早朝6時半からまで夜7時半まで予告編の撮影[1]。エキストラを新聞広告で募集し、定員30名を当日の朝から到着順に採用したが、定員に達してあぶれた人もそのまま残り大勢の人だかりの中、撮影を行った[1]。エキストラのギャラは2000円で他に"一番星"のサイン入りポスター、朝食付き[1]。銀座中央通りで千葉治郎らとモーガン・プラス8やカマロに乗り、数寄屋橋交差点でモデルガンの弾30万円分をぶっ放すなど本編さながらの撮影が行われた[1]。
同時上映
[編集]評価
[編集]- 小野耕世は「『白熱』の設定をなぞっていることはすぐに分かるけれど、こちらは緊張感のないギャングごっこ。母子のいちゃいちゃぶりはおかしいというより気持ち悪い。アンジー・ディキンソンたち母娘三人組の颯爽たる悪女もの快作『ビッグ・バッド・ママ』を見たばかりだしうんざり。併映の『暴走パニック 大激突』が、日本版『ゲッタウェイ』みたいな見事なテンポに比べて、テンポが遅い。監督第一作に、こんなノスタルジア志向とパロディごっこを合わせたような映画的緊張を欠いた作品を作っていてはどうしようもない。結局、タイトル前の機関銃による皆殺しだけの映画。外国映画では『ラムの大通り』をうんとふやかしたような『ラッキー・レディ』という、これまた映画的緊張を全く欠いた映画にうんざりしたところだが、日本映画もそのミニチュア版を作ることはどうかやめて下さい」などと評している[28]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 「〔NEWS MAKERS〕 『裸を恥ずかしがる歳でもない 三益愛子65歳のヌードでみせた"女優根性"』」『週刊ポスト』1976年2月20日号、小学館、46頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “すべり出す東映新路線 健全娯楽、ヤングに照準 ーまず手初めに『横浜暗黒街・マシンガンの竜』 新旧ギャング・スター顔合わせ 菅原文太と40年ぶり中野英治”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1976年2月23日)
- ^ a b c 「〔ショウタウン 映画・芝居・音楽げいのう街〕」『週刊朝日』1976年1月23日号、朝日新聞社、36頁。
- ^ 黒井和男「興行価値 日本映画東映・松竹激突」『キネマ旬報』1976年新年特別号、キネマ旬報社、198–199頁。山根貞男「東映映画特集 東映の監督たち」『シナリオ』1977年7月号、日本シナリオ作家協会、29頁。川崎宏『狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!? 』青心社、2003年、42-46,50-51頁。ISBN 978-4-87892-266-4。佐藤忠男、山根貞男『シネアルバム(52) 日本映画1977 1976年公開映画全集』芳賀書店、1977年、22-23頁。
- ^ 「映画 邦画 西城秀樹の理由なき反抗」『週刊平凡』1979年1月8日号、平凡出版、150頁。
- ^ a b c d 双葉十三郎「にっぽん・ギャング映画論」『キネマ旬報』1963年3月上旬号、キネマ旬報社、34 - 38頁。
- ^ 筈見有弘「ギャング映画も禁酒法時代にはじまる 米国ギャング映画調書」『近代映画』1962年6月号、近代映画社、156 - 163頁。
- ^ 中野五郎「ギャング映画流行の背景と診断 ーアメリカの悪夢ー」『映画芸術』1955年11月号、19 - 21頁。淀川長治「旬報試写室 ニューヨーク派のギャング映画 『俺たちに明日はない』」『キネマ旬報』1968年2月下旬号、キネマ旬報社、58頁。加藤幹郎「いかにしてギャングは死ぬか-ギャング映画少史-」『すばる』1991年6月号、集英社、277 - 283頁。宮本陽一郎「ギャングスターと『最高の検閲官』-古典ギャング映画少史」『ユリイカ』1995年9月号、青土社、68 - 80頁。
- ^ a b 筈見恒夫「自由の国の暗黒 ギャング映画の擡頭」『わがアメリカ映画史』雄鶏社、1956年、125頁。
- ^ 飯島正「ジャンル別にみる外国映画 ギャング映画」『SCREEN』1971年8月号、近代映画社、214 - 216頁。
- ^ a b “一見紳士風がミソ 新しいギャングスター列伝”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 4. (1955年11月4日)
- ^ “〔新映画評〕魂 日活ギャング物 第一歩”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 3. (1936年9月2日)“よみがえる日活、回顧上映や再映画化(文化往来)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 24. (1983年4月23日)古賀重樹 (2018年10月21日). “NIKKEITheSTYLE-山中貞雄と戦争の足音(上) つかの間の平穏、洗練された笑い(美の枠)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 16「やくざ映画十年の系譜 文・渡辺武信」『任侠藤純子 おんなの詩(うた)』キネマ旬報増刊8.10号 1971年8月10日発行、キネマ旬報社、120頁。「東宝モダンアクションの系譜 文・浦山珠夫」『鮮烈!アナーキー日本映画史 1959-1979』洋泉社〈映画秘宝EX〉、2012年、12-13頁。ISBN 978-4-86248-918-0。
- ^ a b c d 向谷修(向谷匡史)「〔ドキュメントジョッキー〕 "マシンガンの竜"菅原文太にドンと密着ー 『この年でまだマザ・コンの気があるんだ』」『週刊ポスト』1976年3月5日号、小学館、167 - 171頁。
- ^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)楊紅雲「任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に」『多元文化』第4号、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2004年3月、192-201頁、doi:10.18999/muls.4.191、ISSN 13463462、NAID 120000974864、2021年12月1日閲覧。北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』名古屋大学出版会、2018年、142 -153頁。ISBN 978-4-8158-0905-8。『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第2回 / 全2回)、『私と東映』× 神先 頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)佐藤忠男(編)『日本の映画人 -日本映画の創造者たち-』日外アソシエーツ、2007年、122頁。ISBN 978-4-8169-2035-6。
- ^ 福間良明『殉国と反逆― 「特攻」の語りの戦後史』青弓社、2007年、116頁。ISBN 978-4-7872-2022-6。鹿島茂、福田和也、松原隆一郎『読んだ、飲んだ、論じた 鼎談書評二十三夜』飛鳥新社、2004年、206-211頁。ISBN 4-87031-685-4。
- ^ 相原斎「健さんを探して ~最後の銀幕スターが残した言葉~」、日刊スポーツ、2015年2月16日。日刊スポーツ文化社会部 相原斎と日刊スポーツ特別取材班『健さんを探して 最後の銀幕スターの秘密』青志社、2015年、83-87,173頁。ISBN 978-4-86590-007-1。「東映不良性感度映画の世界 追悼・岡田茂 東映不良性感、レアなこの1本!『横浜暗黒街 マシンガンの竜』」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、66頁。秋本鉄次「新世界の映画作家と新作研究10 深作欣二 深作アクションの系譜と『いつかギラギラする日』 深作監督がアクションで本気出せば、これだぜ! "ギャング"という名のロックンロールを歌え!」『キネマ旬報』1992年9月下旬号、117-119頁。
- ^ a b c 美浜勝久「洋画ファンのための邦画マンスリー 菅原文太が意欲も新たに! 『横浜暗黒街 マシンガンの竜』」『ロードショー』1976年2月号、集英社、166頁。
- ^ 川崎宏『狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!? 』青心社、2003年、38-42頁。ISBN 978-4-87892-266-4。
- ^ 布村建「極私的東映および教育映画部回想」『映画論叢』第18巻、国書刊行会、2014年7月号、38頁。
- ^ 坂本俊夫『おてんとうさんに申し訳ない 菅原文太伝』現代書館、2019年、210–211頁。ISBN 9784768458563。
- ^ a b c d e 「イキなスーツでマシンガンをぶっ放す菅原文太のファッショナブル・アクション 『横浜暗黒街・マシンガンの竜』」『映画情報』1976年4月号、国際情報社、ページ表記のない本。
- ^ “横浜暗黒街 マシンガンの竜”. 日本映画製作者連盟. 2018年11月29日閲覧。
- ^ 「銀幕の不良少年、中野英治。 by 色川武大」『エスクァイアマガジンジャパン』1988年6月号、エスクァイア・マガジン・ジャパン、164 - 170頁。遊びに遊んだ大学時代 石津謙介大百科
- ^ a b 後世に伝えたい「ニッポンの大ヒット映画」女優!(4)「中島ゆたか・トラック野郎 御意見無用」
- ^ 「シネマヴェーラ渋谷『三角マークの女神たち』開催! 中島ゆたかインタビュー」『映画秘宝』2017年10月号、洋泉社、86 - 87頁。
- ^ 映画評論家・秋本鉄次の「長澤まさみ」ちょいゲス鑑賞法 | Smart FLASH
- ^ a b 秋本鉄次「あの女優(ひと)が脱いだ時。。。」『キネマ旬報』2000年6月上旬号、キネマ旬報社、47頁。
- ^ 「日本映画批評 横浜暗黒街 マシンガンの竜 評・小野耕世」『キネマ旬報』1976年4月上旬号、キネマ旬報社、174頁。