江上波夫

江上 波夫えがみ なみお
人物情報
生誕 (1906-11-06) 1906年11月6日
日本の旗 日本山口県下関市
死没 2002年11月11日(2002-11-11)(96歳没)
出身校 東京帝国大学文学部
学問
研究分野 考古学
研究機関 東京大学東洋文化研究所
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江上 波夫(えがみ なみお、1906年11月6日 - 2002年11月11日)は、日本考古学者東京大学名誉教授。文化功労者文化勲章受章者。

山口県下関市生まれ。1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表。その要旨は、「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジア夫余系騎馬民族辰王朝によって、4世紀末ないし5世紀前半ごろに達成された」と推論している(著書『騎馬民族国家』より)。

略歴

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親族

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騎馬民族征服王朝説

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江上が一般の歴史・考古学ファンの心をつかんだのは、ロマンあふれる騎馬民族征服王朝説だった[12]古事記日本書紀等の古い時代の資料に日本人騎馬民族であるかのような記述は見られないが、渡来人に関する記述は数多くみられる。特にニニギノミコト天孫降臨に対しては数多くの学者たちから数多くの検証がなされてきた[13]。日本の古代国家の起源を東北アジアの騎馬民族に求めた壮大な説である騎馬民族征服王朝説は戦後間もない1948年、東京・お茶の水駅近くの喫茶店に江上と岡正雄八幡一郎石田英一郎の学究仲間3氏が集った座談会で披露され、「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」という特集記事で発表された。かかわりの深かった研究誌『民族学研究』の出版元が経済的に困っているので売れる論文を書いて助けよう、と座談会が企画されたという。騎馬民族説は学会に大きな論争を巻き起こし、発表直後から柳田國男折口信夫といった民俗学者をはじめ、様々な分野の研究者から批判を受けた。この説については佐原真はじめ、岡内三眞穴沢咊光鈴木靖民安本美典など多くの研究者からも批判が寄せられた[注釈 1]。しかし、江上は学説の不備を指摘されると、その都度修正、補強し続けた。学界では疑問視する意見も強いが、発表後50年以上経っても、一般に流布した学説として生き続けている。学説が発表されたのは天皇家の起源を神話に求める皇国史観の束縛から解き放たれた時期で、マスコミはこぞって江上説を紹介した。北方から騎馬民族が南下し、次々と農民族を支配下に入れて新王朝を建設するという話に、ロマンを感じる人が多かった[14]。晩年には反騎馬民族説を主唱する佐原真に対論を挑まれ、2人が激論した著作も刊行された。この説は日本古代史上の仮説として学会でも激しい論争となったが、定説には至らなかった[15]。しかし議論自体は現在も残されたままともいわれる[16]。なお江上自身は、騎馬民族征服王朝説の「征服王朝」と言い出したのは江上ではなく、ヨーロッパの歴史学者でおそらくカール・ウィットフォーゲルが最初だろうと語っている。

騎馬民族説は「昭和の伝説」となったが、江上の学者としての真価はむしろ、日本の考古学に海外調査への道を開いたという点にある[12]

影響

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  • 漫画家手塚治虫は、「火の鳥・黎明編」において騎馬民族征服王朝説を採用している。
  • 小説家松本清張は、江上とたびたび対談している。清張は邪馬台国論争では九州説を唱えている。
  • 作家司馬遼太郎は、江上を“最も敬愛する人”と言い、「独自の仮説なくして学問なし」という信念の司馬は、“日本の考古学者で、40年の時に耐えうる仮説を提示し得た学者”として、江上に対し最高の評価をし、敬意を払っている。
  • 歴史学者直木孝次郎は、騎馬民族征服王朝説を検証した末に、河内政権論を唱えている。
  • 考古学者水野祐の唱えた王朝交替説は、騎馬民族征服王朝説の影響を指摘されており、「ネオ騎馬民族征服王朝説」と呼ぶ人も少なくない。
  • 相馬隆(筑波大学名誉教授)は、東京大学時代に江上に師事し、著作『流沙海西古文化論考 シルクロードの東西交流』(山川出版社)がある。
  • 大塚初重明治大学名誉教授)は、江上没後に「日本の考古学を世界に知ってもらうのに先生ほど貢献した人はいない。まさに『巨星、草原に墜つ』といった印象だ。あれほどスケールの大きな人はもう生まれないだろう。考古学界の大損失だ」と語っている。他に森浩一同志社大学名誉教授、上田正昭京都大学名誉教授らも、江上を悔やみ、追悼コメントを発表している。
  • 常陸宮にも宮中で「騎馬民族の江上先生ですね」と声が掛けられた[17]。また三笠宮とは、オリエント・東洋学研究で実懇である。
  • 韓国大統領全斗煥が公式来日したさい、宮中晩餐会における昭和天皇の「過去の不幸」についての「おことば朗読の中に「6、7世紀の日本の国家形成時に朝鮮半島から非常にいろいろな影響を受けた」との言葉があったことについて共著『騎馬民族は来た?来ない?』で対談相手であった佐原は「非常に面白く思った」と話し、この天皇発言が江上説の影響かもしれない考えを示した(江上波夫・佐原真『騎馬民族は来た?来ない?』小学館、2003年版。262頁、「お言葉」参照)。

人物

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  • 大学専攻は匈奴文化、東西文化交渉史。 東京府立第五中学校在学時代、長野で行われた「転地修養隊」に参加した際、古墳からの出土品に接して、考古学を志すようになったという[18]。旧制浦和高校時代は、結核で漁師町の千葉の興津(勝浦市)で療養生活を送った。に突き出た岩場で遊ぶため毎日8km歩き、親の喜ぶ顔見たさに何でも食べたという。年齢85歳のときの江上曰く「お陰で今もが丈夫なんです」。1956年、東大イランイラク遺跡調査団長として携わった北メソポタミアのテル・サラサートの原始農村遺跡発掘をはじめ、ユーラシア大陸全域を舞台にした調査の実績は、戦前、戦後を通じて20数回。その経験を生かし、1990年から内モンゴルのオロンスム遺跡を再訪し、モンゴルでは4年間にわたるチンギス・ハーン陵墓を探索する調査を指揮した。「考古学はフィールドワークが基本」を持論とし、作業服に登山帽という姿で、湿地や川をものともせず歩き、夕食には並外れた食欲を見せた(本人曰く、ねだめ、くいだめができる。食事となれば羊の脂でも内臓でも、出されたものはペロリと平らげたという。砂漠を歩いていて喉が渇き、バケツ一杯の水を飲み干したという逸話もある)。目の前に何か現れてくるたび、「(陵墓は)これかも知れない!」と叫ぶ江上に周囲は色めき立ったが、それらはすべて別の時代の遺跡だった。現場で質問をすると、草原に座り込み、群がるハエも気にせず延々と説明を続けた。
  • 足跡を残した国々での人気も高く、その並外れた情熱に、各国要人も魅了されたという逸話も残っている。型破りの生き方を貫いた江上の学問のための健康の秘訣は、「管理職にならない」だった。ユーラシア大陸をまたにかけたスケールの大きい研究は最晩年までやむことがなかった。
  • 詩人としての側面もあり、幻人のペンネームで井上靖をも感嘆させた詩集「幻人詩抄」がある。
  • 「人の性はか」の問いに「悪だよ」と即答した。しかし、「江上ほど『人間』が好きな人はいなかった」と永井一顕がコメントしている。
  • 1996年出版の新版「幻人詩抄」の中の1991年の作品「蒙古包(モンゴルゲル)に旅寝を重ねて」を
<いま老年に及んで 再び/モンゴル草原に還り/チンギス汗(ハーン)の陵墓探査隊に加わる><草原はわが夢の漂うところ/六十有年 今に漂う>と結んでいる。

所属団体・役職

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日本オリエント学会会長、日本モンゴル親善協会会長、ならシルクロード博学識委員長ほか多数

著書

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主な単著

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主な共著・編著

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著作集

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  • 江上波夫著作集 全12巻・別巻(平凡社 1984〜86年)
  1. 『古代と現代との対話』
  2. 『文明の起源とその成立』
  3. 『オリエント世界』
  4. 『東西交渉史話』
  5. 『聖書伝説と粘土板文明』
  6. 『騎馬民族国家』
  7. 『日本人とは何か』
  8. 『倭人の国から大和朝廷へ』
  9. 『アジアの民族と文化の形成』
  10. 『内陸アジアの自然と文化』
  11. 『美術の誕生』
  12. 『歴史・人間・旅』
別巻『幻人詩抄 わが生い立ちの記』
  1. 『古代日本の民族と国家』
  2. 『東アジア文明の源流』
  3. 『匈奴の社会と文化』
  4. 『北アジア諸民族の歴史と文化』
  5. 『遊牧文化と東西交渉史』
  6. 『文明の原点オリエント』
  7. 『世界の考古学』
  8. 『人類史の構想』

記念論集

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  • 『江上波夫教授古稀記念論集』(全3巻) 同記念事業会編、山川出版社、1977年
  • 『古代オリエント論集 江上波夫先生喜寿記念』古代オリエント博物館編、山川出版社、1984年
  • 『文明学原論 江上波夫先生米寿記念論集』古代オリエント博物館編、山川出版社、1995年

回想

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脚注

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注釈

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  1. ^ 以下は、歴史研究者らの「学説」への反応・見解である。
    佐原真は次のように述べる。「騎馬民族説は、江上さんがつくり出した昭和の伝説」「戦時中には、日本神話が史実として扱われ、神武以来の万世一系の歴史が徹底的に教え込まれました。江上説にはそれをうちこわす痛快さ、斬新さがあり、解放感をまねく力がありました。また、人びとの心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国などに対して近い過去に行ってきたことの償いの役割を、あるいは果たしたのかもしれません」(『騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会、1993年)
    田辺昭三は次のように述べる。「この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物であり、いくら装いを改めても、もはや現役の学説として正面から取り上げる段階ではない」(『卑弥呼以後―甦る空白の世界』徳間書店、1982年)
    大塚初重は次のように述べる。「多くの考古学者はこの仮説には否定的であったが、アジア大陸での雄大な民族の興亡論にロマンを感じる人も多かった」(『朝日新聞』、2002年11月18日)
    樋口隆康は次のように述べる。「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにも関わらず、中国・朝鮮・日本の史書に揃って何ら記載がない。それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」を用いており、何の変化もない」(『展望アジアの考古学―樋口隆康教授退官記念論集』新潮社)
    岡内三眞は次のように述べる。「「江上は、騎馬民族がどのようにして日本に侵入し、征服したのか、そしてどのように征服王朝を立てたのかを、考古学の面から何も立証していない」(『古墳時代の研究 13』)、「この仮説は、現代では通用しなくなった戦前の喜田貞吉の日鮮両民族同源論を基礎にして、戦前・昭和初期の歴史教育を受けて北京に留学し、軍隊の庇護の下に中国東北地区を闊歩した江上流の資料収集法と旧式研究法に基づいている。無意識に吐露する現代論や人間感にはアジアの人々の心を逆なでするような言葉が含まれる」(『歴史と旅』1994年12月号)
    所功は次のように述べる。「あくまでもスケールが大きい仮説に過ぎない。不明確な点が多く定説として受け入れることはできない」(『週刊新潮』2009年12月31日号)
    安本美典は次のように述べる。「ひょうたんナマズの構造(とらえどころのない学説)を持つ説」(『騎馬民族は来なかった!』JICC出版局、1991年)
    鈴木靖民は次のように述べている。「学問の進歩や苦悩・反省と無縁の騎馬民族説は大いに疑問とせざるをえない」「論証は必ずしも体系的でなく、断片的でおおざっぱ過ぎる」(『歴史と旅』1994年12月号)「本来の騎馬民族説は、古代国家あるいは王権の中に編成される渡来人集団の問題として受け継がれているといえましょうし、素朴な騎馬民族征服説はもう克服されていると思います」(『東アジアの古代文化を考える会』30周年記念シンポジウム)
    護雅夫は次のように述べる。「この説に対しては、多くの日本史家は批判的であるが、井上光貞のように、これを高く評価する学者もあり、水野祐はネオ騎馬民族説と称される説を唱えた。江上の騎馬民族説の細かい点については多くの疑問がある」(『日本大百科全書』小学館)
    岡田英弘は次のように述べる。「完全なファンタジーであって、なんら史実上の根拠はない。江上波夫が創作した、新しい神話」「騎馬民族説が世間に熱狂的に受け入れられているあいだは、ほかの学者がいくら批判しても、まったく利きめがなかった。(中略)騎馬民族説には何の根拠もないですよ、あれは全くの空想なんですよと言っても、みんな、ふーんと言うだけで、全く耳をかそうとしない。(中略)騎馬民族説が、根拠のないただの空想で、歴史的事実ではないとしても、それが史実ではない、と言うだけではだめなので、もっとよい歴史を提供しなければいけない、といことになる」(『歴史とはなにか』文春新書、2001年)

出典

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  1. ^ 浦和高等学校 編『浦和高等学校一覧 第6年度(自昭和2年至昭和3年)』浦和高等学校、1927年、233頁。 
  2. ^ 『官報』第1000号、昭和5年5月3日、p.76
  3. ^ “江上波夫と内モンゴルのオロン・スム遺跡調査”. 横浜ユーラシア文化館. http://www.eurasia.city.yokohama.jp/olonsume/excavation.html 2019年9月10日閲覧。 
  4. ^ 東方文化学院一覧』東方文化学院、1932年、18頁。 
  5. ^ http://www.shiro1000.jp/tau-history/egami/rule83.html
  6. ^ 西秋良宏 「江上波夫先生旧蔵ユーラシアコレクション」
  7. ^ 文献に『図録 文字から見る歴史と文化 江上波夫蒐集品を中心に』(梅村坦・江上綏編、山川出版社、2013年)
  8. ^ a b c 江上志馬雄、江上恒之『大衆人事録 第11版』帝国秘密探偵社、1935
  9. ^ 江上定雄『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  10. ^ 江上恒之『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  11. ^ 江上恒之君『台湾統治と其功労者』橋本白水 南国出版協会、1930
  12. ^ a b 2002年11月16日読売新聞
  13. ^ 江上波夫『騎馬民族国家』中公新書
  14. ^ 2002年11月16日朝日新聞
  15. ^ エンカルタ百科事典
  16. ^ 大和書房『日本古代史大辞典』(2006)
  17. ^ 佐原真との対談「騎馬族は来た?来ない?」ほか
  18. ^ 長七と藤村の浅からぬ因縁”. 紫友同窓会 公式ホームページ. 紫友同窓会. 2018年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月15日閲覧。
  19. ^ 佐原真『騎馬民族は来なかった』NHK出版NHKブックス〉、1993年9月1日。ISBN 4140016582 
  20. ^ 森安孝夫 (2020年9月). “森安通信” (PDF). 大阪大学大学院文学研究科東洋史学研究室. p. 32. http://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/members/moriyasu/moriyasu_tsushin_202009.pdf 2022年4月10日閲覧。 

外部リンク

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