沖宮

沖宮
所在地 沖縄県那覇市奥武山町44
位置 北緯26度12分10.0秒 東経127度40分37.5秒 / 北緯26.202778度 東経127.677083度 / 26.202778; 127.677083 (沖宮)座標: 北緯26度12分10.0秒 東経127度40分37.5秒 / 北緯26.202778度 東経127.677083度 / 26.202778; 127.677083 (沖宮)
主祭神 天受久女龍宮王御神
天龍大御神
天久臣乙女王御神
熊野三神
社格無格社
札所等 琉球八社
地図
沖宮の位置(那覇市内)
沖宮
沖宮
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沖宮(おきのぐう)は沖縄県那覇市にある神社琉球八社の一つであるが、近代社格制度では社格を与えられておらず、神社本庁に属さない単立の神社である。(無格社)。奥武山公園の東部に位置する。

祭神

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天受久女龍宮王御神(てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ。天照大御神)・天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)・天久臣乙女王御神(あめくしんおとめおうおんかみ)・熊野三神(伊弉册尊速玉男尊事解男尊)を祀る。

明治神仏分離までは「沖山三所権現」(沖の寺)と称し、神仏習合阿弥陀如来薬師如来十一面観音を祭っていた。

  • 神代一代
    • 相殿中央の御座
      • 御先 女天神代 天受久女龍宮大御神(てんじゅくめりゅうぐうおおおんかみ)
      • 中 女天神代 天智門女龍宮大御神(あまちじょうめりゅうぐうおおおんかみ)
      • 今 女天神代 天受賀女龍宮大御神(てんじゅかめりゅうぐうおおおんかみ)
    • 相殿左の御座
    • 父御神 天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)
    • 母御神 天久臣乙女大御神(あめくしんおとめおおおんかみ)
    • 相殿右の御座
      • 天芳子乙女大御神(てんぽうしおとめおおおんかみ)
      • 天仁子乙女大御神(てんじんしおとめおおおんかみ)
      • 天来子乙女大御神(てんらいしおとめおおおんかみ)
    • 熊野三神
      • 伊弉冊尊(いざなみのみこと)
      • 速玉男尊(はやたまをのみこと)
      • 事解男尊(ことさかをのみこと)

摂末社

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末社 住吉神社
神代二代
下二柱が御夫婦神
  • 天風龍大神(あまふうりゅうおおかみ) - 子(ね)の神 表筒王
  • 天火龍大神(あまひりゅうおおかみ) - 丑(うし)の神 中筒王
下二柱が御夫婦神
  • 表臣幸乙女大御神(うはしんこうおとめおおおんかみ)
  • 中臣幸乙女大御神
下二柱が御夫婦神
  • 天水龍大神(あますいりゅうおおかみ) - 寅(とら)の神 底筒王
  • 底臣幸乙女王御神(そこしんこうおとめおおおんかみ)
末社 辨財天宮(べんざいてんぐう)
神世三代
  • 木龍宇具志久乙姫王(もくりゅうぐしおとひめおおお) - 辰(たつ)の神
    またの名を 辨天負百津姫神(べんてんよもつひめかみ):ノロ神の御名

歴史

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創建の由緒は不詳だが、源為朝の時代と史料にある[注釈 1]正徳3年(1713年)の『琉球国由来記』には、「大昔、那覇港の海中から光が絶えず射していたので、調べてみると霊木であった。これを熊野権現の霊木とし、社寺を建てこの木を祀った」とある[5]

最初は那覇埠頭の地(現・那覇市西3丁目)にあったが、明治41年(1908年)、那覇港埠頭築港に伴い那覇市安里の安里八幡宮の隣地に遷座し、寺は那覇市住吉町に移転した。その時の社殿は琉球における神社建築の典型例として、昭和13年(1938年国宝に指定されたが、沖縄戦で焼失した。戦後、比嘉真忠に「沖宮を復興せよ」と神託があり、沖宮霊木の根元は奥武山の天燈山と神示があった。昭和36年(1961年)に通堂町へ仮遷座し、同50年、現位置である奥武山公園内へ遷座された。 令和二年に神社本庁との被包括関係を解き、単立神社となった。

そのほか、先代宮司である比嘉真忠氏によって沖縄各地に伊計神社(うるま市与那城伊計218)、宜名真神社(国頭村字宜名真218)、恵比須神社那覇市字安謝251)、神着宮(名護市字安部)が創建された。また、平成29年には伊平屋島に伊平屋天巌戸神社(伊平屋村字田名 念頭平松付近)が創建された。クマヤ洞窟の遥拝所の役割を果たす神社である。(広報いへや 2018年1月号)いずれも御祭神は天照大御神である。

交通

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モノレール

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路線バス

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各路線の詳細は、琉球バス交通那覇バスの項目を参照

奥武山公園駅前バス停
  • 11番(安岡宇栄原線) 那覇バス
  • 17番(石嶺(開南)線) 那覇バス
  • 101番(平和台安謝線) 那覇バス
  • 105番(豊見城市内一周線) 琉球バス交通

脚注

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注釈

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  1. ^ 琉球王国正史である『中山世鑑』を始め、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』などでは、源為朝は現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年(1922)には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。なお、『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の康熙12年(寛文13年(1673))3月の『仕置(しおき)』(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「窃かに惟ふは此国人生初は、日本より渡りたる儀疑い無く御座候。然れば末世の今に、天地・山川・五形・五倫・鳥獣・草木の名に至る迄皆通達せり。然雖も言葉の余り相違は遠国の上久しく通融絶えたる故也」)。なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広土鹿児島大学)が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている[1][2]2021年11月10日マックス・プランク人類史科学研究所を中心とした、中国日本韓国ヨーロッパニュージーランドロシアアメリカの研究者を含む国際チームが『ネイチャー』に発表した論文によると、宮古島市長墓遺跡先史時代人骨DNA分析したところ「100%縄文人」だったことが分かり、先史時代の先島諸島の人々は沖縄諸島から来たことを示す研究成果となった[3]。また、言語学および考古学からは、中世グスク時代11世紀~15世紀)に九州から「本土日本人」が琉球列島に移住したことが推定でき、高宮広土鹿児島大学)は、「結果として、琉球方言の元となる言語を有した農耕民が本土から植民した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と指摘している[3][4]

出典

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