浜田敦
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人物情報 | |
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生誕 | 1913年8月6日![]() |
死没 | 1996年9月21日(83歳没)![]() 心不全 |
国籍 | ![]() |
出身校 | 京都帝国大学 |
両親 | 父:浜田耕作 |
学問 | |
時代 | 昭和・平成 |
研究分野 | 国語学 |
研究機関 | 大阪市立大学 京都大学 |
指導教員 | 新村出 |
主要な作品 | #著書 |
浜田 敦(はまだ あつし、1913年〈大正2年〉8月6日 - 1996年〈平成8年〉9月21日)は、日本の日本語学者。京都大学名誉教授。
経歴
[編集]1939年に京都帝国大学卒。新村出に師事。戦後に大阪市立大学助教授となるが、1956年に京都大学文学部助教授となり、1969年より国語学主任教授を1977年まで務めた。
1996年に心不全のため死去。
業績
[編集]国語学で扱う主要テーマはほぼ全て網羅していたが、中心は上代日本語・中古日本語・中世日本語であった[1]。音韻に関しては、その歴史的変遷を辿ることによって、日本語の音韻の歴史を明らかにするという方向であり、音韻体系そのものではなく、音韻体系の外側にあった音(あるいは体系の外側に生まれてきた音)について綴った[1]。文法研究においても、文章の微妙な意味を読み分けた上で用例を博捜し、その意味の変遷から語源まで論じている[2]。
浜田の立論は幅広い用例と丁寧な解説、さらに断定を避ける表現によって、難解な部分を生じていることも多く、また従来あまり国語学では利用されなかった古文書、中国資料、朝鮮資料などを総合的に利用するところに特徴がある[1]。とりわけ外国資料の利用は、晩年に至るまで一貫していた[3]。
人物
[編集]大学の単位制度には「学生の勉学を妨げる」として否定的で、名簿に登録さえすれば単位を認定するという方法を取っていたが、同僚の教授たちからは批判的な目で見られていた[4]。また「学生・院生といえど研究者である」と決して雑用をさせなかった[5]。
論文の記述は慎重で、雑談の折でも学問的な話題については断定を避けていたが、日常生活では断定的な物言いをしていた[6]。
著書
[編集]単著
[編集]- 『古代日本語』大八洲出版 1946(古文化叢刊)
- 『朝鮮資料による日本語研究』岩波書店 1970
- 『続朝鮮資料による日本語研究』臨川書店 1983
- 『日本語の史的研究』臨川書店 1984
- 『国語史の諸問題』和泉書院 1986
編著・共著
[編集]- 井手至、塚原鉄雄『国語副詞の史的研究 第1 (なかなか) (大阪市立大学国語学研究調査冊子 ; 第1冊)』大阪市立大学国語学研究会、1954年 。
- 井手至、塚原鉄雄『國語副詞の史的研究 2 (大阪市立大学国語学研究調査冊子 ; 第2冊)』大阪市立大学国語学研究会、1955年 。
- 井手至、塚原鉄雄『國語副詞の史的研究 3 (大阪市立大学国語学研究調査冊子 ; 第3冊)』大阪市立大学国語学研究会、1955年 。
校訂
[編集]解題
[編集]- 邨岡良弼『日本地理志料 : 古代地名辞書 上』臨川書店、1966年 。
脚注
[編集]- ^ a b c 木田章義 (2012), p. 58.
- ^ 木田章義 (2012), p. 59.
- ^ 木田章義 (2012), p. 60.
- ^ 木田章義 (2012), p. 56.
- ^ 木田章義 (2012), p. 64.
- ^ 木田章義 (2012), pp. 64–65.