源重信

 
源 重信
時代 平安時代中期
生誕 延喜22年(922年
死没 長徳元年5月8日995年6月8日
別名 六条左大臣
官位 正二位左大臣正一位
主君 朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:敦実親王、母:藤原時平の娘
兄弟 寛信寛朝雅信重信雅慶
藤原朝忠の娘、源高明の娘
藤原頼忠の娘、藤原師輔の娘
致方相方道方宣方乗方藤原隆家
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源 重信(みなもと の しげのぶ)は、平安時代中期の公卿宇多天皇の皇子である式部卿敦実親王の四男。官位正二位左大臣正一位六条左大臣と号す。

経歴

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承平4年(934年)12歳にして昇殿を許された。年月不詳ながら源朝臣の氏姓を賜る。承平7年(937年)二世孫王待遇の蔭位により従四位下に直叙される。天慶3年(940年)殿上人となり、天慶4年(941年)侍従に任ぜられる。その後いったん殿上人から外れ、左馬頭に美作守を兼ね、天暦5年(951年)従四位上に昇叙。同年殿上人に復し、右近衛権中将となる。天暦9年(955年)左兵衛督に転じる。

天暦11年(957年)修理大夫任官。天徳4年(960年)参議に任ぜられ公卿に列したが、その後も修理大夫を長く兼帯した。応和元年(961年)内裏造営に功があったとして正四位下、応和3年(963年)にはさらに追加の褒賞として従三位に叙せられ、順調な昇進をとげた。

安和2年(969年)に起きた安和の変により左大臣源高明が失脚すると、その女婿であった重信にも累が及び、昇殿をとどめられた。しかし官位昇進には支障はなく、安和3年(970年)大蔵卿を兼ね、天禄3年(972年)に権中納言に昇進、天禄4年(973年)には再び昇殿を許された。

天延2年(974年)皇太后昌子内親王の皇太后宮大夫となる。同年朔旦冬至の叙位により正三位に昇叙、天延3年(975年)中納言貞元3年(978年)大納言と昇進した。天元2年(979年)には、長岡頓宮への行幸に供奉した褒賞として、文官でありながら帯剣して参内することを許された。天元4年(981年)従二位昇叙。同年上賀茂神社平野神社への行幸をとりしきった功により正二位となる。

その後は大臣に空席ができなかったため、長く大納言に留まる。この間、天元6年(983年)に按察使を兼ね、また寛和2年(986年)昌子内親王が太皇太后に転じたため太皇太后宮大夫となっている。同年、従一位昇叙を辞退し、代わって息子の相方が正四位下に叙せられている。正暦2年(991年)に至って、兄・雅信に遅れること14年にして、右大臣に任ぜられ、雅信と兄弟で左右大臣を占めた。正暦5年(994年)前年に死去した雅信のあとを受けて左大臣に昇進する。同年、一条天皇の践祚にともない居貞親王(のちの三条天皇)が皇太子となると、その東宮傅を兼ねた。

正暦6年(995年)5月8日、病没。享年74。5月26日、正一位を追贈された。

人物

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恋愛ごとは不得手であったが、若々しく愛敬があり人なつっこい性格であった[1]ことから、若い頃、兄・雅信にも増して村上天皇にかわいがられたという[2]。父・敦実親王に似て音楽に秀で、を得意とした。

重信が所有していた宇治別荘は、没後に姪の婿であった縁で藤原道長に買い取られ、のちにその息子・頼通に伝えられて平等院となった[1]

逸話

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修理大夫を務めていた頃、出家して仁和寺に住んでいた父・敦実親王のご機嫌伺いに訪問する際、往路は内裏の東側(東大宮大路)・北側(一条大路)、復路は内裏の西側(西大宮大路)・南側(二条大路)と、行き帰りの行路を利用して内裏の周囲を見て回り、破損している場所があれば修理したという[2]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 権右中将任官はユリウス暦では952年1月29日。
  2. ^ 正四位下叙位はユリウス暦では962年1月14日。

出典

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  1. ^ a b 「朝日歴史人物事典」1626頁
  2. ^ a b 大鏡』第六巻,昔物語

参考文献

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