煤孫伝
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 岩手県花巻市[1] |
生年月日 | 1911年6月16日 |
没年月日 | 没年不明 |
身長 体重 | 170 cm 60 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手、外野手 |
プロ入り | 1937年 |
初出場 | 1937年5月1日[2] |
最終出場 | 1938年7月17日[3] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について |
煤孫 伝(すすまご つとう[4]/でん、1911年6月16日 - 没年不明)は、岩手県花巻市[1]出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手、外野手。
来歴・人物
[編集]盛岡商業学校(現・岩手県立盛岡商業高等学校)在学中は、1930年の甲子園東北大会決勝で、東北中学を相手に猛打を振るい語り草となった[1](試合自体は敗れ、甲子園出場とはならなかった)。卒業後は、日本大学、仙台鉄道局(現・JR東日本東北硬式野球部)でプレーした。
1937年春、大東京軍に入団。岩手県出身者としては初のプロ野球選手となった[1][4][5]。1937年5月1日の名古屋戦(洲崎球場)で一塁手の守備(浅原直人の代役)としてデビュー[2]。5月8日の金鯱戦(上井草球場)ではプロ初打席初安打をマークし、6月1日の金鯱戦(甲子園球場)では初ホームランを打つなど、前評判通りの打棒を見せ、1937年春季シーズンはレギュラーとして定着した(規定打席にも到達し26位だった)。
しかし、打撃とは裏腹に守備は拙く、1937年5月9日の金鯱戦(上井草球場)では3つの失策を犯し、それらが全て失点に結びついてチームが敗戦した事もあった[6]。1937年春季は36試合出場で5失策、1937年秋季は29試合出場で6失策している。1938年春季シーズン終了後、現役引退した。
プロ野球界きっての珍名として有名であり、煤 孫伝(ばい そんでん)と読まれて、台湾からの帰化選手と間違われた事もあったと伝わる[4]。ちなみに、先祖は北上の和賀氏家臣で、煤孫という地名が残っている[4]。また『新プロ野球人国記』(大道文・著)によると、「煤孫」は3世帯しかないと記されている[1]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1937春 | 大東京 ライオン | 36 | 119 | 105 | 13 | 26 | 1 | 2 | 1 | 34 | 8 | 6 | -- | 0 | -- | 14 | -- | 0 | 16 | -- | .248 | .336 | .324 | .660 |
1937秋 | 29 | 66 | 60 | 5 | 11 | 2 | 0 | 0 | 13 | 5 | 3 | -- | 0 | -- | 6 | -- | 0 | 11 | -- | .183 | .258 | .217 | .475 | |
1938春 | 23 | 64 | 57 | 3 | 11 | 2 | 0 | 0 | 13 | 3 | 0 | -- | 0 | -- | 7 | -- | 0 | 6 | -- | .193 | .281 | .228 | .509 | |
通算:2年 | 88 | 249 | 222 | 21 | 48 | 5 | 2 | 1 | 60 | 16 | 9 | -- | 0 | -- | 27 | -- | 0 | 33 | -- | .216 | .301 | .270 | .571 |
- 大東京軍は、1937年秋にライオン軍に球団名を変更
背番号
[編集]- 17 (1937年 - 1938年春)
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 煤孫伝 - NPB.jp 日本野球機構