甦れ魔女

甦れ魔女
ПУТЪ К МЕДАЛЯМ
監督 佐藤純弥
脚本 松田寛夫
Y・ラケルヴァイ
A・ステファノフ
製作 岡田茂
N・シゾフ
出演者 磯貝恵
横手房江
西郷輝彦
タチアナ・ワシレエヴァ
三橋達也
菊池真由美
音楽 アレクセイ・リブニコフ
撮影 並木宏之
エミール・グリドフ
編集 鈴木宏治
製作会社 東映
モスフィルム
ソヴンフィルム
配給 日本の旗 東映
公開 日本の旗 1980年4月5日
上映時間 136分
製作国 日本の旗 日本
ソ連
言語 日本語
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甦れ魔女』(よみがえれまじょ)は、1980年4月5日より日本で公開されたモスクワ五輪バレーボールを題材にした日本とソ連合作のフィクション映画作品[1]東映モスフィルム・ソヴンフィルム製作、東映配給[2]

ストーリー

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広島モスクワの、それぞれ性格も境遇も異なる2人の少女がバレーボール選手として成長。一旦挫折するが、友情によってお互い再起を誓う。

キャスト

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役名 出演
三木伴子 磯貝恵
高橋須美江 横手房江
富沢伊代 菊池真由美
安藤哲子 野口ひとみ
尾形泰子 斉藤真由美
小林裕美 北幸子
関早苗 浅川絵衣子
五十嵐敬子 小泉美由紀
志垣順子 上野京子
黒川俊子 松田利矢子
三木イネ 中村玉緒
榊原社長 丹波哲郎
丸本部長 中田博久
神永医師 鈴木瑞穂
日本人通訳 徳永晴美
吉岡昇平 西郷輝彦
増田健三 三橋達也
ターニァ タチアナ・ヴァシレヴァ
カメネッキー ヴァレリー・リジャコフ
ワーニャ アクワセイ・モクローソフ
サーシャ ミハエル・ボャルスキー
ドヴェルツオフ アナトリー・ロマシン
スペトラーナ イナラ・グリエヴァ
オーリャ ヘフグラフクア・アレクサンドラ

スタッフ

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製作

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企画

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岡田茂東映社長が"モスクワ五輪ブーム"を当て込んで[3]、1977年に訪ソした際にまとめた企画[4]。モスクワオリンピック公式記録映画『オリンピアード'80』(『О спорт, ты — мир!』)の日本、東南アジアの配給権を獲得したのを機に製作を決めた[5]。ソ連童話アニメ化世界名作童話 森は生きている』とともに企画し[3]、本作は岡田とソ連モスフィルム所長で映画省副大臣でもあったニコライ・シゾフが長年話を進めて、日本体育協会日本バレーボール協会のバックアップを得て製作したもので[6]、製作発表会見で「国民必見の感動作だ!」等と吹いたが[7]、公開当時すでに日本政府はモスクワ五輪不参加の意向を固めており(ボイコット問題参照)、題材そのものがもはや世間の関心を失った状態であった[3]。『森は生きている』をこの年3月15日からの東映まんがまつり内で公開し[3]、続けて4月上旬から本作を公開してモスクワ五輪に便乗しようという算段だったが[3]、全国の映画館主からソッポを向かれた[3]。モスクワオリンピック公式記録映画の代金も支払い済みで[3][5][7]、慌てて『森は生きている』のパンフレットにはソ連の"ソ"の字を一切入れず、『世界名作童話』と銘打ち、ソ連臭を出来るだけ消し上映した[3]。岡田は「苦労して製作したが誰も相手にしない。誰の興味も湧かさなかった」などと話した[6]。息子の裕介にプロデュースさせた『動乱』が、この年正月明けから大ヒット中で、ホッとしたのも束の間で、暗雲がかかり、マスメディアから「国際政治をもっと勉強しないといけない」と皮肉られた[3]。ただ、この時のニコライ・シゾフとの付き合いが1990年公開の日・ソ合作『オーロラの下で』の製作に繋がっている[6]

企画コンセプトは、東洋の魔女こと、全日本女子1964年東京オリンピックの決勝で、宿命のライバル、ソ連女子代表に勝利し、以降、日ソ対決はオリンピックで2勝2敗。モスクワ五輪は天下分け目の大決戦で、その決着をつけようであった[8]。製作費5億円[4]。東映とモスフィルムの対等出資[4]

製作発表会見

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製作が公表されたのは1978年暮れ[7]。日本とソ連で2ヵ月ずつの撮影を予定し、スポ根の日本と社会主義国家としてのナショナリズムが浮き彫りにされるソ連の選手育成、チーム形成過程などを対照的に見せていくと告知された[7]

1979年6月21日、東映本社会議室で、製作発表が行われ、製作総指揮を執る岡田以下、スタッフ、主要キャストが出席[5]

キャスティング

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出演者は実技優先で選出し、出演者で架空の実業団チームを作り[5][7]、撮影開始前に1か月以上の技術指導、猛特訓を行った[7]。コーチ陣も日本バレーボール協会女子強化部長の森隼一、松村勝美1964年東京オリンピック金メダリスト)、岩原豊子らがあたった[5][7]。ソ連側も中心キャストのターニァ役のタチアナ・ヴァシレヴァらメンバーもナショナルチームの監督経験者からの特訓を受けた[9]

主演の磯貝恵(けい)は、応募者2800人から抜擢された[5]。身長172cm[8]。公開前年に「東洋の魔女」とゆかりのあるユニチカスイムウェアキャンペーンモデルや、洋酒カティサークCMを務めていた[8]

当時の女子バレーではお約束だった鬼監督役には、渡哲也北大路欣也らが候補に挙がったが[7]西郷輝彦になった[7]。倒れて動けない選手にボールを投げつける[7]

本作の出演者のうち横手房江、菊池真由美、斉藤真由美、上野京子は同じ東映が制作する同じバレーボールのテレビドラマ『燃えろアタック』(テレビ朝日)に、1979年12月の第44話から始まる「全日本選抜チーム編」から、それぞれオリンピック全日本チームのメンバー役で出演している。

撮影

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1979年3月クランクイン[4]。8月までに日本側の撮影を終え、9月~10月までソ連ロケを経て[5]、1979年末完成した[4]

1992年に『おろしや国酔夢譚』の監督をした佐藤純彌は、1991年のインタビューで、本作の撮影を振り返り「何かというと上司に相談、すぐ会議だった。今(1992年頃)はみんな自由に発言する。かつては映画先進国という意識が前面に出ていたけど、撮影所が独立採算制になったためか、対日感情がいいのか、今回は実に協力的。かつての芸術至上主義から、興行を重視し始めていると感じた。芸術面の伝統は一流中の一流。特に俳優の演技のうまさは凄い。でもソ連映画の未来は、ペレストロイカがどこまで進むかにかかっているんでしょうね。映画というのは、社会状況の中でしか作れないものですから」等と述べた[10]

当時の映画は完成したらすぐ公開が多かったが、モスクワ五輪便乗には1980年春頃がよいだろうと判断され、少し封切り予定を延ばし、1980年4月5日公開を決めた[4]

興行

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本作と当初併映を予定していたのは松坂慶子主演の『夜の診察室』(リバイバル)であった[11]。上記のような混乱があり、興行は地区別に変則システムで行われた(『ミスターどん兵衛#興行』)。

作品の評価

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  • 桂千穂は「1966年の衣笠貞之助監督『小さな逃亡者』以後いくつか作られた日ソ合作映画の中では群を抜く出来ばえと思う。広島とモスコーの、それぞれ性格も境遇も異なる2人の少女がバレーボール選手として成長。一旦挫折するが、友情によってお互い再起を誓う―定石的な筋立てだがガッチリ組立てられている上、演出のテムポが非常にいいし省略も効いているから、ソ連映画的退屈を感じる暇はなく見られる。けれどもセルゲイ・ソロビヨフ・西村潔監督の『白夜の調べ』(1976年)のすぐ後で、日本側のヒロインの母をまた原爆犠牲者にしたのにはウンザリ。あと、ヒロインの所属チームに、ところどころスケバン的な匂いを発散する箇所があるのも困ったもの。吉田憲二監督の松竹きらめきの季節』(1980年)の卓球チームの女高生の立居振舞と比較すれば、その匂いはよく分かる。東映が企画の幅を拡げるには、骨まで染みついたこのような体臭を排除することが急務でなかろうか。もう1つ痛感したのは変転きわまりない国際情勢だ。もしソ連のアフガン進駐が勃発しなかったら、モスクワ五輪の日ソ友好ムードの高まりの中で、この作品も華々しく封切られただろう。日中合作の『天平の甍』のヒットの報を聞くにつけ、両者の運命的な明暗を感じる」などと評した[12]
  • 和田矩衛は「日本と外国の合作といえば、アチラ立てればコチラ立たずで、両方立てようとして共倒れになるというのが『新しき土』(1937年)以来の伝統(!)である。2時間16分の上映時間の約1時間近くづつが、日ソ双方の独立部分、残りが双方がジョイントする部分という構成は、合作映画の面目躍如というところだが、それぞれの部分が1時間なりに登場人物が描けているのが成功のもとである。日ソそれぞれのバレーボール選手の話だけに、いわゆるスポ根ものになっており、日本側の話にその色が濃く、ソ連側の方がその点ゆるやかなのは最近の日ソ双方の映像製作界の状況の反映であろう。話の色付けの分担はどの程度に行われたのかは知る由もないが、それが相互にアクセント付けになっており、これは松田寛夫、Y・ラケルヴァイ、A・ステファノフの脚本の手柄といえよう。双方の練習風景や、試合の模様などは、知名な選手たちも参加しているだけに、なかなか見応えがあった。双方のバレーボール関係者の協力によるところが大きいと思うが、佐藤純彌監督の画面構成の確かさと、編集に充分に時間をかけたことの成果であろう。日本の噛んだ合作映画もここまで来たのだから、本格的な内容を持ったドラマが見たいものである」などと評した[13]

テレビ放送

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1980年4月1日テレビ朝日系列の19:00 - 20:51(JST)でテレビ放送された[14]

脚注

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  1. ^ 甦れ魔女 2022年10月放送! - 東映チャンネル
  2. ^ 甦れ魔女 - 文化庁日本映画情報システム
  3. ^ a b c d e f g h i 「〈LOOK 今週の話題・人と事件〉 映画 『必死に"ソ連"隠しする東映の困惑』」『週刊現代』1980年1月31日号、講談社、49頁。 
  4. ^ a b c d e f 「POST シネマ 自信と当惑が交錯する日ソ合作『甦れ魔女』の周辺! オリンピック不参加騒動の余波をあびて…」『近代映画』1980年3月9号、近代映画社、44–45頁。 
  5. ^ a b c d e f g 「東映、日ソ合作『甦れ魔女』製作発表モスクワ五輪記念、来春日ソ同時公開」『映画時報』1979年7月号、映画時報社、19頁。 
  6. ^ a b c 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、224-233頁
  7. ^ a b c d e f g h i j 「邦画新作情報」『キネマ旬報』1979年1月下旬号、キネマ旬報社、176頁。 
  8. ^ a b c 小藤田千栄子「洋画ファンのための邦画コーナー 試写室 『甦れ魔女』(日=ソ合作)」『SCREEN』1980年6月号、近代映画社、237頁。 
  9. ^ 映画情報(国際情報社)1980年4月号 36〜37頁
  10. ^ 山口宏子 (1991年7月27日). “ソ連映画界が日本コール 経済・技術交流も 『おろしや国酔夢譚』”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 12 
  11. ^ 「『夜の診察室』の上映に"待った"」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1980年2月24日号、179頁。 
  12. ^ 桂千穂「邦画傑作拾遺集(11)」『シナリオ』1980年4月号、日本シナリオ作家協会、80頁。 
  13. ^ 「日本映画批評 『甦れ魔女』」『キネマ旬報』1980年5月上旬号、キネマ旬報社、157–158頁。 
  14. ^ 読売新聞 縮刷版』読売新聞社、1980年4月1日ラジオ・テレビ欄。 

参考書籍

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佐藤純彌、聞き手:野村正昭 + 増當竜也『映画監督 佐藤純彌 映画 (シネマ) よ憤怒の河を渉れ』DU BOOKS(原著2018年11月23日)。ISBN 978-4866470764

外部リンク

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