竹田定良
竹田 定良(たけだ さだよし、1738年(元文3年)- 1798年8月5日(寛政10年6月23日))は江戸時代の儒学者、漢学者、教育者。福岡藩の藩儒竹田家の第4代当主。藩校修猷館(東学問稽古所)初代総受持(館長、「教授」とも称される)[1]。初め高畠氏。号は梅廬(ばいろ)。字(あざな)は子俊。通称は助太夫、茂兵衛、茂平[2]。
経歴
[編集]福岡藩士高畠正方の三男(福岡藩の藩儒竹田家初代当主竹田定直(春庵)の孫(娘の子))として生まれ、実兄の竹田定倫(廓庵)(同じく竹田定澄の養子)の死没により、竹田定澄(蘿亭)の養嫡子となる。1761年(宝暦11年)家督を相続し福岡藩藩儒となる。藩主黒田継高より斉清に至る五君に仕える[2]。竹田家はもともと京都の公卿であり、代々宮廷医を務めていたが、1661年(寛文元年)から福岡藩主黒田家に仕え、その後9代に亘って藩主および藩士に朱子学を講じている[3]。
1783年(天明3年)6月24日、第9代藩主黒田斉隆より藩校創建の命を受け、1784年(天明4年)2月6日、藩校修猷館を開館し初代総受持となる。
この直後、福岡の志賀島で金印が発見され、福岡藩はその月に開校したもう一つの藩校である甘棠館(西学問稽古所)の館長亀井南冥と共に、定良に金印の考証を命じ、南冥は『金印弁』、定良は『金印議』を提出している。
1796年(寛政8年)、黒田家家譜編纂の仕事に専念するため、願い出て、修猷館総受持の職を免ぜられ、長男の竹田定矩(復斎)が第2代修猷館総受持に就任したが、定良はなお教導としてとどまり、学生の指導に当たった[4]。
次男竹田定夫(梧亭)は第3代修猷館総受持、定夫の次男竹田定簡(蕭韵)は第4代修猷館総受持、定夫の三男竹田定猗(謙窓)は第5代修猷館総受持を務めている。
竹田家系譜
[編集]福岡藩に仕えた第9代までの竹田家の系譜
定直①┳━定澄②━定倫③━定良④┳━定矩⑤━定琮⑦ ┃ ┃ ┗━某女 ┗━定夫⑥ ┃ ┏━定倫(③) ┃ ┣━┫ ┣━━━要吉 ┃ ┗━定良(④) ┃ 高畠氏 ┣━━━定簡⑧ ┃ ┗━━━定猗⑨