第五次イーペル会戦
第五次イーペル会戦 | |
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西部戦線における協商軍の最終攻勢の地図(1918年) | |
戦争:第一次世界大戦(西部戦線) | |
年月日:1918年9月28日 - 10月2日 | |
場所: ベルギー・イーペル | |
結果:協商国軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
ベルギー フランス共和国 イギリス ニューファンドランド | ドイツ帝国 |
指導者・指揮官 | |
アルベール1世 シリアック・ジラン ハーバード・プルーマー ジャン・マリー・デグー | エーリヒ・ルーペンドルフ ルーブレヒト・フォン・バイエルン フリードリヒ・シクスト・フォン・アルミン |
戦力 | |
28個師団 | 16個師団 |
損害 | |
イギリス: 4685人 ベルギー: 4500人 ニューファンドランド: 15人[1] | 10000人(捕虜) |
第5次イーペル会戦(だいごじいーぺるかいせん、英: Fifth Battle of Ypres)は、第一次世界大戦中、1918年9月下旬から10月にかけてフランス北部とベルギー南部(フランドル地方)で行われた一連の戦闘である。フランドル峰の戦い、フランドル侵攻作戦とも呼ばれる。[2]
背景
[編集]1918年の春季攻勢が頓挫し、ドイツ軍の士気は急激に低下。その上西部戦線のアメリカ軍兵力は増加の一途を辿り、協商国軍とドイツ軍の兵力差は増していた。この数的優位を利用し、フランス元帥フェルディナン・フォッシュは百日攻勢として知られる、ドイツ軍の全戦線への攻勢戦略を立案した。[3]この計画においてイーペル周辺のベルギー、イギリス、フランス軍はリエージュに向け攻勢し、北側から挟み撃ちを形成することとなっていた。[4]イギリス第2軍はドイツ軍の小規模な撤退を追撃し、8月18日にウットゥステンヌで戦闘を行ったが、それ以降戦闘は小康状態となった。この地域に展開する協商国軍は、9月下旬までに十分な休息を取っていた。[5]
戦闘
[編集]戦闘の経過
[編集]ベルギー軍のフランダース軍集団は3時間の砲撃を経て、9月28日午前5時30分に攻撃を開始した。[6][7][8]フランダース軍集団は当時、ベルギー軍12個師団、イギリス第2軍の10個師団、フランス第6軍の6個師団により構成されていた。イギリス軍はイーペルとパッシェンデールを結ぶ7.2kmの戦線を、ベルギー軍がそこから北のディクスミュードまでの攻撃を担当した[9]。協商国軍はすぐにドイツ軍防衛線を突破し、9km前進。1918年初頭の撤退で放棄されたパッシェンデール西部が奪還された[10]。 雨が降り始める中、夕方までにイギリス軍はコルテヴィルデ、ザントフォールデ、クライゼッケ、ベセラエレを、ベルギー軍はゾンネベーケ、ポールカッペル、シャープ・バイリー、ハウトルストの森を占領した。
戦線の南側面ではイギリス軍3個師団による小規模な攻勢が行われ、サン・イヴ、メシーヌ、そしてヴィッシェテからホレベーケまでの尾根に進軍した[11]。ドイツ軍の前線はディクスムイデからハウトハルト、ベツェラーレ、ザントフォールデ、ホレベーケまで続いていた[7]。
メシネス、テルハンド、ダディゼールは9月29日に陥落し、翌日には占領地は泥沼と化したものの、イーペル周辺の高地はすべて連合軍に占領された[12]。10月1日までにレイエ川左岸はコミネスまで占領され、ベルギー軍はムーズレーデからシュターデン、ディクスムイデに至る戦線の東側に展開していた。進軍は10月2日まで続けられたが、ドイツ軍の増援が到着し、更に補給も追いつかなくなっていたために攻撃は中止された。悪路のため、15,000食分の戦闘糧食がベルギーとイギリスの80機の航空機からパラシュートで投下された[13] 。
この戦闘で協商国軍は最大29km、戦線全体の平均で9.7km前進した。
余波
[編集]損害
[編集]イギリス軍は4685人、ベルギー軍は2000人の死者と約10000人の傷病者を出し[14]、ドイツ軍は約10000人の捕虜を出し、300丁の銃、900丁の機関銃を鹵獲された[15]。
その後の作戦
[編集]戦闘序列
[編集]協商国軍
[編集]フランダース軍集団 (司令官: アルベール1世 参謀長: ジャン・マリー・デグー)
- イギリス第2軍(ハーバート・プルーマー大将)
- 第17軍団(ビューヴォア・ド・ライル中将)
- 第10軍団 (レジナルド・ステファンズ中将)
- 第19軍団 (ハーバート・ワッツ中将)
- 第2軍団 (クラウド・ジェイコブ中将)
- ベルギー軍(アルベール1世)
- 南部集団(アロイス・ビービュイック中将)
- 第12師団
- 第8師団
- 第11師団
- 第6師団
- 中央集団(ジュール・ジャク・ド・ディズミュド中将)
- 第9師団
- 第3師団
- 第128師団 (フランス軍)
- 北部集団(ルイス・ベルンハイム中将)
- 第7師団
- 第1師団
- 第10師団
- 残りのベルギー軍部隊は、クレルケンから海岸線までのイーザー戦線を防衛した。
- 第4師団
- 第2師団
- 第5師団
- ベルギー騎兵師団
- 南部集団(アロイス・ビービュイック中将)
- フランス第6軍 - 予備部隊
- 第7軍団
- 第41師団
- 第164師団
- 第128師団
- 第34軍団
- 第5師団
- 第70師団
- 第77師団
- 第2騎兵軍団
- 第2騎兵師団
- 第4騎兵師団
- 第6騎兵師団
- 第7軍団
ドイツ軍
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ Nicholson 2007, p. 481.
- ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, p. 57.
- ^ Sheffield 2011, pp. 315–316.
- ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 2–3.
- ^ Harris & Barr 1998, p. 197.
- ^ Sonhaus 2011, p. 429.
- ^ a b Foerster 1956, p. 617.
- ^ AFGG 1928b, p. 15.
- ^ Boraston 1920, pp. 285–286.
- ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 65–73.
- ^ Boraston 1920, p. 286.
- ^ Sheffield 2011, p. 322.
- ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 74–94.
- ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, p. 92.
- ^ Marix Evans 2002, p. 211.
- ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 269–294.