米倉昌俊

 
米倉昌俊
時代 江戸時代後期
生誕 天明4年9月2日1784年10月15日
死没 文化9年4月18日1812年5月28日)?
改名 栄三郎(幼名)、昌俊
別名 右京(通称)、昌後
戒名 端道全義峻量院
官位 従五位下丹後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
武蔵金沢藩
氏族 水野氏(忠元流)米倉氏
父母 水野忠鼎
米倉昌由
兄弟 水野忠光内藤正国水野忠方
水野忠寛昌俊内藤政環
石川総師正室、水野貞利正室、
大岡忠正正室、水野忠純室ら
松平忠告娘・峻章院
昌寿
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米倉 昌俊(よねくら まさのり)は、江戸時代後期の大名武蔵国金沢藩6代藩主。六浦藩米倉家9代。官位従五位下丹後守

略歴

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天明4年(1784年)9月2日、肥前国唐津藩2代藩主・水野忠鼎の九男として誕生。正室は松平忠告の娘・峻章院。

享和3年(1803年)1月、5代藩主・米倉昌由の養子となり、5月に11代将軍・徳川家斉御目見する。6月15日に養父が病気により隠居したため家督を継ぎ、12月に叙任する。

日光祭礼奉行、半蔵口門番、田安門番、馬場先門番、大坂加番などを歴任するが、文化9年(1812年)4月18日、死去。享年29。

実子は無く、養子・昌寿朽木昌綱の三男)が跡を継いだ。

一説には文化8年(1811年)8月、大坂加番在任中に不手際を起こしたことを苦にして自殺したともいう。

系譜

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父母

正室

養子