紀元前297年
世紀 | 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀 |
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十年紀 | 前310年代 前300年代 前290年代 前280年代 前270年代 |
年 | 前300年 前299年 前298年 紀元前297年 前296年 前295年 前294年 |
紀元前297年(きげんぜん297ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルッリアヌスとプブリウス・デキウス・ムスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元457年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前297年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]共和政ローマ
[編集]- クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルッリアヌスが4度目の執政官に就任した。彼は、ティフェルヌム近郊の戦いでサムニウムを破った。
ギリシア
[編集]- カッサンドロスが病死し、長男のピリッポス4世が後を継いでマケドニア王となった。しかしその直後、ピリッポス4世は消耗性疾患にかかって死去した。そこで、次男のアンティパトロス2世が弟のアレクサンドロス5世と共同統治を行った。
- デメトリオス1世がマケドニアの王位を狙ってギリシアに戻ったが、その留守中にリュシマコスが小アジアにおける彼の財産を奪った。
- プトレマイオス1世は、王国を取り戻そうとするピュロスを支援することを決めた。最初、ピュロスは縁戚のネオプトレモス2世と共同統治を行ったが、すぐに彼を暗殺した。
インド
[編集]中国
[編集]- 韓と魏の連合軍が秦の函谷関を攻撃した。
- 楚の懐王が秦の咸陽から脱走した。秦が楚に向かう道を封鎖したため、懐王は間道を通って趙に逃れようとした。しかし趙の主父が代にいて不在だったため、趙は懐王を受け入れようとしなかった。そこで懐王は魏に逃げようとして、秦の追っ手に捕らえられ、連れ戻された。
- 趙の主父が新領土を巡行し、代にいたった。楼煩王と西河で会見してその兵を麾下に加えた。
誕生
[編集]死去
[編集]脚注
[編集]注釈
出典