菩提
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仏教用語 菩提, ボーディ | |
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パーリ語 | Bodhi |
サンスクリット語 | बोधि |
中国語 | 覺 |
日本語 | 菩提 , 悟り (ローマ字: Bodai) |
英語 | enlightenment |
菩提(ぼだい、梵: बोधि; bodhi、巴: bodhi)とは、サンスクリット語・パーリ語のボーディ(bodhi)の音写であり[1]、仏の正覚の智、さとり[2]、仏の悟りの境地[2][3]、極楽往生して成仏すること[3]、悟りの智慧[1]などを意味する仏教用語[注釈 1]。bodhiの漢訳は智、道、覚[1][2][注釈 2]。
菩提を得た者が仏であり、これを目指す衆生を菩薩という[1]。声聞菩提・独覚菩提・仏菩提の3種の菩提のうち、仏菩提は至高であるため無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)とも呼ばれる[1][6][7]。
俗に冥福の意味にも用いる[2][8](#菩提を弔うを参照)。
初期仏教
[編集]ブッダの悟りの内容は、初期仏教においては四諦として体系化された[9]。実践の面では八正道や三学(戒・定・慧)が説かれた[9]。悟りは、言語化されて理解される知的側面だけではなく、八正道や三学に示されるような実践を通じて初めて体得できるとされる[9]。
初期の悟りについて
[編集]初期に作成された経典において、ゴータマ・シッダッタの悟りの内容が異なった伝わり方をしていて、はっきりと定まっていないのは、ゴータマ自身が自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁や相手に応じ異なった説き方をしたためで[10]、歴史的人物としてのゴータマは、臨終に際しても仏教というものを説かなかったとされている。また、彼が明示したのは、八正道の実践をする人を「道の人」と呼び、その道はいかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道であり、それはこれまでのインド社会に現れたブッダたちの歩んできた道であったということともされている[11]。原始仏典の古い詩句では、古来言い伝えられた七人の仙人という観念を受け、ブッダのことを第七の仙人としていた[注釈 3]。
初期の悟りにおける仏教の位置づけ
[編集]初期においては、ゴータマが説法することを「梵輪をまわす」と呼んでいた。これは古ウパニシャッドからきており、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があるとされる[注釈 4]。
ウパニシャッドでは、「解脱」とは宇宙原理たるブラフマンと自己との合一を意味していた[13]。しかし、初期仏教では人間の理法を体得して、安心立命の境地に至ることが悟りであるとされている[10]。梵我一如を体得した古仙人たちの歩んできた道を歩んだとされるゴータマには、宇宙の真理を悟った人が説法をするという自覚があったが、その悟りの内容は、四諦という言葉によって体系化されているという状況にあることが示され[14]、大乗仏教に至ると、宇宙の真理(法)と一体になることを悟りとする宗派が生まれてきた[15]。
ウパニシャドでは、ブラフマンとは宇宙の最高原理とみなされており、この最高原理が人格的に表象されたものがブラフマーであり、創造神とされていた。善い行いをした人が死後天上界に行くとした場合や、自島明におけるなんらかの主体性などの教説から、自然の中には還元しきれない何ものかを仮定している[16]。梵天勧請の経文には、最高原理の人格的な表象として、この世の主ブラフマー神というものが出てくるので、ゴータマの悟達の境地と宇宙の最高原理を悟るということには、何らかの関係があると見ることができる。また、人格的な表象としての梵天による勧請の一段は、後世の追加とする見解もある[17]。ここにあげられている古い詩句は、心の中での出来事を現わしたものとされ、散文の説明は明らかに後世のものであるとされている[18]。
ウパニシャッドの哲学の梵我一如の悟達とゴータマの悟達が大きく異なる点は、梵我一如におけるアートマンの存在が存在しないということである。しかし、この点についても初期の仏教には不確かな部分があり、「アートマン」は存在しないとは説いていないとされている。これは、アートマンを実体視しているウパニシャッドの哲学に対して仏教の側が反対しただけの教説にすぎない、というのがその理由となっている。ゴータマの悟りの内容に関しては、アートマンが存在するかどうかについての返答をゴータマが与えなかったものであるとされている[注釈 5]。
涅槃について
[編集]涅槃については、無我的な無余涅槃をしりぞけ、たましいの最上の境地としての有余の涅槃にとどまって、活動してゆくことが目的であるとしていたとされる。小乗仏教の伝統説では無余涅槃に入ることが修行の目的であったが、ゴータマは無余涅槃に入るという見解は偏見であるとして排斥した。「たましい(霊)の最上の清浄の境地」のうちにあって、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、清浄な行いを存続してゆくことが目的であるとした[注釈 6]。
初期仏教における真人となった我とは
[編集]ゴータマの説法を「梵輪をまわす」と言うときは、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があり、「梵」という語と「ブラフマン」という語は深い関りがあるとされる[21]。ヒンドゥーにおいて世界創造神とされていたブラフマンというのは、当時最高の神と考えられていた。そして、梵天勧請の経文では、その神様がゴータマに説法を始めたとされる。ブラフマンとは、絶対原理であり、宇宙の根本原理のことであるけれども、一般の民衆にはなかなか理解しにくいから、それを人格神(世界の主である梵天)と考えたとする見解もある[22]。また、ブラフマンは大宇宙的概念であり、アートマンは小宇宙的概念とする見方もある[16]ので、後代になって、アートマンの小宇宙的概念が否定されるようになると、真理(ブラフマン)における大宇宙的概念も不明確なものとなったようである。
「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている[23]。
ゴータマが実践していたのは、「つとめはげむ道」といって、自己を制することにつとめはげんだこととされている。ただ、それによってさとりを得たとかそういうことは書いてなく、自己を制することのうちにさとりがあるとしていたとされる[24]。人が佛となった転換点は、古来から言われている梵我一如の境地として、問われた時には意識にのぼる程度の通過点にすぎないとみなされていたようだ。自己を調御し、悪魔を寄せ付けず、清浄な行いを久しくし続けるということが、さとり「つとめはげむ道」(さとりの道)であるとされた。
初期の悟りの内容
[編集]あるバラモンに語ったとされる経文には、四種の禅定を完成して、明知が生まれたことが記されている。第四禅を成就したままにて生じた第一の明知においては、この宇宙が生成と消滅の幾多の宇宙期の過去を有しているものであることまでを知ることに至った。その第一の明知によって、無明が滅び、暗黒は消滅して、光明が生じたとされている。第四禅を成就したままにて生じた第二の明知においては、超人的な天眼を用いることが出来るようになり、この世界に生存するすべての衆生が死にまた生まれる様を見ることが出来るようになり、それぞれの生存者の業(内面的な部分)についても明らかに知ることが出来るようになったとされる。さらに、諸々の汚れを滅する智に心を向けたが、その内容については説かれていないとされる[注釈 7]。そして、第四禅を成就したままにて生じた第三の明知においては、「解脱した(悟った)」という智が起こったが、単なる自覚ではなく、第三の明知とされている。また、過去現在未来にわたる阿羅漢(等正覚者と同じ)については、心に関して、心でもって知ることが出来るとされている[25]。
悟りと慈悲
[編集]苦行の7年間慈心を修したという詩句が残されているので、慈悲の体現は当初よりゴータマの修行の中心的位置を占めていたとする見解もある[26]。
カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められているとされたという[27]。『原始仏典II 相応部経典第2巻』 第5篇には、カッサパはアーナンダに対して自らの悟りの内容について確認をしている。そこには、空間の無限性や意識の無限性を超越した境地や、宇宙期、他心通、心の解脱と智慧による解脱とを達成したことが記されている。カッサパはバラモン出身で、ゴータマと出会ってから八日目に開悟したとされる[28]。仏教教団が定住生活に移行した後も、林野に住み、厳しい修行生活(頭陀行)を送っていたとされる。[注釈 8]。
自覚としての悟りのいろいろ
[編集]サーリプッタが解脱をしたときに、ゴータマが「再びこの存在に戻ることはないと開悟したことを明言したのか」と問うたとき、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる[29]。
聖者ごとに解脱の内容がいろいろであり、聖者ごとに解脱の内容はいろいろで、複数あったとされる[30]。ゴーダマが到達したさとりの境地は深遠で、弟子には到達しがたいという反省から、滅後弟子たちの時代になると、さとりの深浅に応じて四向四果の段階が考えられた[31]。
在家信者においても師の話を聞いただけで悟ったという経文は多数あり、その中のある女性は、ある遊園に行った帰りに、ゴータマと出会い、「大いなる仙人のことばを聞いて、真実に通達し、まさにその場で、汚れのない真理の教え、不死の境地を体得しました。」と語ったとされる[32]。
悟りと大悟について
[編集]ゴータマは、自然の中にて行っていた禅定中に、ブッダとなったとされている。そのときの悟りの自覚としては、「わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、頼って暮らすことにした」とされている。この場合の悟りとは、諸仏よりも上位に位置する最高原理(ダルマ)について悟ったということになる[33]。「悟り」に最も近いサンスクリットの原意は、「目覚めたるもの」という名詞であるとされるが、その反対語としては、「目覚めていない状態のもの」という語が考えられる。一般に、目覚めていない状態とは、肉体の目は開いていても、眠っているために、心の働きが外界の動きに反応しない状況であると考えられる。何ものかに覚醒することとなったゴータマの悟りは、それまでは見えていなかった諸仏よりも上位に位置する最高原理の働きを、眼前の風景の中や己自身のうちに感得することができるようになった、ということができる。
人格的な面を持つダルマについて悟ったことを大悟であるとするならば、理法を尊び、敬い、頼って暮らすことは、日常的なさとりの道を歩むことであるとみることができる[注釈 9][注釈 10][注釈 11]。
修行過程における大悟の時期については、空無辺(物質宇宙空間の無限性や宇宙期の把握)や、意識無辺(過去現在未来の全体における無限の意識主体の総和の認識)の解脱を達成したあたりであると思われる。悟りに対する解釈がさまざまに異なるのは、無余涅槃を求めるグループと有余涅槃のうちにとどまるグループとに「大悟」と呼ばれる悟りが共通している感覚であるためであると思われる。
悟りと解脱について
[編集]暫時の解脱とは、世間的な禅定という意味を持つとされる。それを得た時に、一時的に諸々の煩悩から解放されているので、このように言う [34]。 解脱には、一時的な煩悩からの解放という面がある。『スッタニパータ』の例としては、1084~1087において、ある者には解脱を求めよと説いている。この部分の解釈によれば、解脱には修行の目的となる場合がある、ということができる。また、ある者には1088~1091において、解脱というものはないと説いている。この部分の解釈によれば、解脱には修行の目的とはならないという面がある、ということができる[35]。
ゴータマが無余涅槃(肉体の死)に入るときに、第一禅から第四禅を2回繰り返したところを見ると、悟った後の毎日の心の状態を浄化するために、第一禅から第四禅の解脱の段階が用いられたとみることができる。そのため、第一禅から第四禅までの解脱は、個別的な修行者のさとりの段階を表すと同時に、より高度な解脱に心を変化させるための調心の作用を持つ禅定ということができる。このように、初期の経典においては、解脱というものに関しては、さまざまな用いられ方がなされている。
解脱を求める心の段階について
[編集]撒餌経(中部経典第25経)では、第一禅から第四禅にいたり、そののち、まだいくつかの解脱の実現があり、九段階目で想受滅の境地にいたるとされている。他の経文において悟りについて述べた部分では、おおよそ、第四段階の禅定ののちに第三の明知に目覚め、悟りに至るとされている。しかし、この経では、第三の明知についてまでは言及されておらず、第四段階の禅定ののちに、さらに四つの解脱の段階を経たのちに想受滅に至る、というところで終わっている[注釈 12]。
解脱の各段階においてゴータマは、いずれの段階も、マーラを盲目にし、マーラの眼を根絶し、悪魔が見えないところに行った修行僧の住するところであるとしている。
- 第一禅(初禅) - 双考経においてゴータマは、在家の当時、苦行の修行をする以前に、菩薩としての修行を始めていたことが語られている。出家してから、苦行しかしていないと思われがちであるが、ゴータマの意識の中では、菩薩として修行をしていたとされている。ゴータマは、菩薩としての修行中に、人間の中に常に湧き上がってくる思念について、善なる思いと悪なる思いのあるという観点から、対策を講じたとされている[36]。ゴータマは出家する前にすでに初禅の境地を体得していたとされている[37]。これは、初禅の段階にて、止観によって、善なる思いと悪なる思いを弁別し、正見のありかたを育んだということのようである。禅定によって心を統一した状態で、全体的で粗大な考察方法と、内面的で微細な考察方法を用いた止観を成就したことが記されている。初禅の心境としては、欲望から遠離しており、善悪を見極め、不善のことがらを離れた、喜ばしい心境に到達したとされる[38]。
- 第二禅 - 禅定によって心を統一した状態で、全体的で粗大な考察方法と、内面的で微細な考察方法を用いた止観という心の働きをとどめる。善悪についての考察を離れるので、内心が静安となっってゆく[39]。
- 第三禅 - 禅定によって心を統一した状態で、喜びと憂いの心の作用を捨てる。バラモン教の聖者が、「平静であり、念あり、安楽にとどまっている」とする心境に到達する。
- 第四禅 - 禅定によって心を統一した状態で、苦楽の心の作用を捨てる。平静と念によって清められている、という心境に達する。
- 第五段階 空無辺処の境地 あまねく外界の想念を超え、内界の想念をなくし、さまざまな想念を思うことがないゆえに、空間は無限であるという境地を実現して住む。外界から内界に向かってゆく想念と、内界から外界に向かってゆく想念とがあり、その想念の動きを超えたり、止めたりするところに、空間(物質的な宇宙)の無限を体感し、そこに住する境地に至ることができるとされている[40]。 ウパニシャッドの哲人の場合は、教えを受けるのにふさわしいと思える相手にのみ、こうした教えを説いたとされる[41][注釈 13]。
- 第六段階 - 識無辺処の境地 あまねく空無辺処を超えて、意識は無限である識無辺処の境地を実現して住む。物質的な宇宙の無限を体感する境地を越えて、意識の無限(過去現在未来にわたるすべての衆生の総和としての無限と思われる)を体感できる境地に到達するとされている[42]。
- 第七段階 無所有処の境地 あまねく識無辺処を超えて、無所有処を実現して住む[注釈 14]。
- 第八段階 非想非非想の境地 あまねく無所有処を超えて、非想非非想処の境地を実現して住む[注釈 15]。
- 最後の段階 最後に想受滅という境地に至るとされているが、これは無余の涅槃に近い境地のようである。 想受滅の境地というのは、執着を渡り超えた境地であるとされる。修行者は、あまねく非想非非想処を超えて、想受滅の境地を実現して住む。智慧によって見、かれの煩悩は滅尽している、とされている[43]。そこには、衆生も如来も慈悲も無いようであるから、マーラの眼を根絶し、悪魔が見ないところの究極であると思われる[注釈 16]。
- 死を願う心の段階 - 想受滅の境地に到達したゴータマは、しばらくして死を願う心の段階に進んだとされる[注釈 17]。
ゴータマ自身の回想として、七回の宇宙期の間、わたしはこの世に戻ってこなかった、世界が成立しつつあるとき、極光浄天に生まれ、世界が破壊しつつあるときは、空虚なる梵天の世界に生まれた。それから、7度大梵天として生まれ、三十六度神々の王であった、とされている[44]。無余涅槃で考えられるニルバーナの世界は、世界が破壊しつつあるときの涅槃と考えられるので、想受滅の解脱の行きつく先は、空虚なる梵天の世界と同質の世界とみることができる[注釈 18]。
無余涅槃を求める出家者に対して、「ニルバーナ」に入り、この世に戻ってくることはない、としている経文がある[注釈 19]。 このことは、想受滅から無余涅槃を目指す今生のみの大悟の道と、声聞から諸仏の悟りを目指す何転生かのさとりの道とを区別していた、ということを示していると見ることができる。また、無余涅槃を目指す修行者の転生の仕方は特殊で、死んだ後にあの世に行くことなく、ひとりでにこの世に生まれ変わる、とされている[45][注釈 20]。
ゴータマの求めた道のすべてであると位置づけられている「清らかな行い(清浄行)」には、安らぎ(消滅的心境)に帰する清らかな行いと、生存の根源を残しての安らぎ(他の存在を救い続ける平静的心境)に帰する清らかな行いとがあるとされている[注釈 21]。
悟りと悟りの道について
[編集]ゴータマ・ブッダの場合は、悟った後に世界の主とされる霊的存在が、教えを説くことと遊行とを勧めたとされている。それは、過去七仏とされる大仙人のように、悪魔の手のとどかない消滅の次元に悟りを進めるのではなく、衆生済度という有余の次元に身を置くことを選択した、ということを意味している。また、この世の衆生済度につとめることは、同時に、悪魔の手のとどく世界に留まりつづける、ということでもあった。仏典によれば、修行完成者とされる悟った人でも、誘惑は止まない、とされている[46][47]ので、人間の生き方に関して言うと、悟ることは、正しい生き方にとってあまり重要ではない、ということにつながっているといえる[注釈 22] 。20年以上ブッダの遊行の秘書をしていたとされるアーナンダが、霊的能力を伴う悟りを開いていなかったことは、重要なことであるとされている。
ゴータマが実践していたのは、生涯にわたって衆生済度に「つとめはげむ道」であった。それは各人の苦集滅道による自力救済の道であり、自己を制することのうちにさとりがあるとしていたとされる。そのため、大悟という面からみると、ゴータマの宗教活動の目的は、己がさとり、ニルバーナのうちに想受ともに消滅してゆくのではなくて、苦しんでいる衆生を救済してゆくことにあったとみることができる。仏は、人々を救済することができないとされていた[49]。ゴータマは、各人がさとりを求める自力救済により、人類全体が清らかな行いにつとめはげみ、協和の精神が広がってゆくことを、遊行の目的としていたようである[50]。かつ、その、さとりを求める修行の全体が、善友を作ることであるとしていた[51]。このことは、悟った後で、悪魔の誘惑に負けて、地獄で修行の修正をするようになった悟達者であっても、ゴータマは、その人が立ち直れるように、善友として指導してゆきますよ、ということであるようだ。
最初期の仏教は、教義を信じるという意味での「信仰」なるものは説かなかった。教えを聞いて心が澄むという意味での「信」を説いていたとされる[52]。そのため、仏を信じたから救われる、という見方はしていない。たとえ自分が仏を裏切ったとしても、善友となった仏のほうで、友を見捨てないという見方をしているようだ。(出典蛇喩経)。
諸仏の悟りについて
[編集]ブッダの教えの特徴としては協和の精神があげられる。社会的には共同体を和の精神をもって運営してゆくことをはじめとして、生き物を殺さないという観点からは、他民族との平和というものが念頭にあったことが考えられる。人間の守るべき理法は永遠のものであり、それは諸仏の教えとしてすでに往時から実践的に体得されてきたとされている。したがって、宗教に関しても、ブッダは、仏教というものを説かず、いかなる宗教をも容認し、その生涯のほとんどを、遊行により、衆生の苦集滅道に務めたとされる[50]。特定の宗教を立てず、いかなる宗教をも容認するということは、いかなる宗教も、人格的な理法の働きかけの面を有しているとして、世界を協和の精神で満たすこと(滅)に努めることにつながっている。
アーナンダは、ブッダの臨終のときに、無余涅槃にお入りくださいといった。しかしこれは、修行完成者に対する罪であったとされている。このことは、真の修行完成者にとっては、自己消滅することではなく、肉体が自然の中に還元された後も、指導的な霊として世界の協和に務めてゆくことが目的であることを示している。
ゴータマは悟った後に、何もする気がなくなったとされている。その微妙な心の動きを感じ取って、それと呼応するかのように瞬間的に、「世界の主」とされる存在が、出現したとされる[53][注釈 23]。このときは、「世界の主」は、衆生に法を説くように指導しただけで、いなくなったようである。
この出来事は、六神通により開いていた「清浄で超越的な天眼[54]」による指導的な霊的存在との遭遇であると見ることができる。ゴータマの回想からすると、7回の転生の経験がある大梵天は、成立した世界に後から生まれる「この世の指導霊の中心的存在」といったところである。また、世界の主がこの世の創造神ではないとした場合、世界の主は、万古不滅の法・諸仏の悟りに住した存在であると言い換えることができそうである。世界の主は、ゴータマのことを「隊商の主」と語ったとされているが、この場合の「主」が、同じ使われ方をしているようであるので、世界の主とは、この世を全体として目的に導いている中心的存在とみることができる。
それから5週間ほどして、説法に関して、長上として道を説くことはやり切れないと、ゴータマが考えた時のことである。まだ自分は完全な悟りを開いてはいないと、ゴータマ自身は考えていたようであり、このときも世界の主は、瞬間的に心を読み取って、出現したようである。自分以上に、戒律(八聖道と止観)・禅定・智慧・解脱の体系を完全に実施している境地を持った存在や、われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直感)の体系を完全に実施している境地を持った存在がいることについての認識が示されている[55]。ただ、この場合のゴータマが「諸仏」と考えられている存在は、バラモン教等の「大仙人」「過去七仏(ブッダたち)」とされるものであり、同じ語句を使ってはいるが、「世界の主」の唱えたとされる詩句に出てくる「諸仏」とは異なっていると言うことができる[56][注釈 24]。
ゴータマは、自分以上に理法を悟ったブッタたちの存在について語った。そのことは、ブッタたちの悟りにも段階があることを示している。そこでゴータマは、そうするよりもむしろ、この理法(実在)を尊び、敬い、頼って暮らすこと(正命と解釈できる)にしたとされている。全体として見ると、「ブッタたち」よりも上位に「最高原理(ダルマ)」が位置しており、有余の「諸仏」はダルマに頼って生きてきた、ということが示されている[57]。そういうふうに見ると、諸仏の悟りの段階と、最高原理を頼って生きる心の段階とには、大きな関連があると見ることができる。「頼って生きる」とは、最高原理の人格的な面の守り育てる意志というものが前提とされていると考えられ、そのことを悟った覚者が、ダルマの意志の導きのままに生きることを意味していると見ることができる。
初期の経典では、人格的な面を有する最高原理と関連して、神の存在についても、その存在が確認されている。ゴータマは、人格的な面を有する最高原理とは、悟りを得た者にとって、直感的に「神はある」として感得されうるものである、と説いている[58]。智者によって一方的に「神はいる」と感得されるとは、「第四段階の禅定ののちの第三の明知を有する者」等によって、直感的に理解される事柄であるということができる[注釈 25]。
仏弟子のことばに、「理法(ダンマ)は、実に、理法を実践する人を護る。理法をよく実践するならば、幸せをもたらす」(テーラガーター 303)の句がある。ここでは、理法(ダンマ)がほとんど人格視されているとされる[注釈 26]。 これは、ダンミカ長老の実践からくる信念とされている。ダンミカ長老の告白以外に理法の持つ人格的な面について言及している弟子の存在については見当たらない。しかし、最後の旅で語ったとされる、「自らをたよりとし、法をよりどころとする(法島明)」という言葉には、「理法(ダンマ)は、実に、理法を実践する人を護る」という言葉に通じるものがあるとみることができる。
諸仏は、世の人々を憐れみたもう方々であるとされている[59]。このことは、諸仏には、人々を憐れむという想念があることを示している。 また、世界の主とされる存在は、有余涅槃に留まる諸仏の存在のきまりについても言及した。「世界の主」は、その詩句の中で、ダルマに頼って生きるという心の境地は、諸仏とされる存在にとって不可欠な条件であることを教示している。真理、ダルマに頼ることは、過去・現在・未来の仏にとって、正しい教えを重んずることであるとされる[60]。それ故に「この世においてためになることを達成しようとする偉大な境地を望む人は、仏の教えを憶念して、正しい教えを尊重する。それが諸仏にとってのきまりである」とされている。この個所で世界の主が語った「仏の教え」とは、諸仏の教えを指していると考えられる。
この世においてためになることを達成しようとする偉大な境地の段階があるということは、有余涅槃に止まる諸仏においては、偉大な境地に向かう悟りの段階があるということを示している。
悟りの修行を阻害された心の段階について
[編集]マーラは、祭祀などによって、地位や名誉などによる世間的な利益を得て、煩悩を増大させるものである。それは、五つの欲望の対象であるとされている。マーラの目的とするのは、修行者を支配することによって、自分の支配欲等を満たすことであるとされている[注釈 27]。そのように、この世にて、自らの修行を全うしようとする者には、マーラの支配のわなが付きまとっているということが説かれている。
双考経では、初禅において止観されたのは、内側から悪い道に行こうとする心の傾向であるといえる。その悪い道は、外側にも存在し、それは、邪悪な見方、邪悪な思い、邪悪な言葉、邪悪な業務、邪悪な生活、邪悪な励み、邪悪な思念、邪悪な精神統一(定)であるとされている[61]。悟る直前に為された第一禅には述べられていないが、いわばその前提として、第一禅の境地の体得には、マラーのわなについての考察が不可欠であったと言うことができる。[注釈 28]
撒餌経によると、マーラのわなは、外界と内界の両方にあるといえる。想念には外界にあまねく存在するものと、内界の様々な想念があるとしている。内界の想念にしかけられた悪魔のわなは、その人の心から出てくる煩悩とは見分けのつかないことが多いようだ。また、悪魔のことを夜叉と言うときがある。初期には、悪魔は特別な存在ではなく、死んだ人と、悪魔とを同一視している場合もある[62]。最初期の教えでは、地獄はこの世にみられるものであった。この世のよこしまな生活やそのもととなる妄執をさしている[63]。そのため、地獄はどこか遠くに見られるものではなく、この世を起点とした、自らの内的世界の通じる妄執の世界と考えられていたと見ることができる。
悟った後も、わなは無くなることはないので、悟る前の人間は、世間の中で暮らしていると、自然に、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四つの落ち行くところにいきつくとされていた。また、それよりはましな人間界と天界の二つの境界は、なんとかして得ることができる[64]と考えられていたが、天界と人間界との迷いの欲望をすべて絶つことは、むつかしいとされていた[65]。
世の中の何ものにも執着しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る[66]、愛執と嫌悪と貪欲とは悪魔より来るわなである、とされている[67][68]。邪魔[69]、恐怖[70]、などもあるとされる。
また、煩悩と関係が深いと思われる無明というものに関して、世間的な煩悩の増大からは解脱していると思われる梵天の世界においても、無明にとらわれる梵天がある[71]とされている。そのため、無明は必ずしも肉体の次元やマーラのわな等にのみ関わるものではないといえる。
地獄・餓鬼・畜生・修羅の、それらの落ちゆくところに生まれたものたちが、もろもろの地獄において、出家することはできないとされた[64]。地獄に落ちた修行者たちには、苦痛の衝撃が絶え間なく続くので、長い年月の間、彼らは、悟りの道に帰ることができない状況に追い込まれている、ということができる。
- 兜率天(天界)での迷妄
兜率天にいる霊でも、恐怖心から、いきなり地獄に堕ちる時があるとされる[72]。
- 人間の世界での迷妄、執着の巣窟
執着の巣窟に導かれる人もいる[73]とされ、窟(身体)のうちにとどまり、執着し、多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに沈没している人もいる[74]とされている。生存の快楽や世間の不正などにより、世の中にありながら、欲望を捨て去ることは、容易ではない[75]とされている。
- 修羅
修羅の心で代表的なものは、争いに突入するときの心であるといえる。 鋸喩経 では、ゴータマ・ブッダは、この経において、出家したものは、在家的な欲望や、在家的な思いを捨てるべきである、ということを説いた。その喩として、ゴータマは、盗賊に手足を切り落とされた時であっても、心を乱すことなく、怒りのこころを抱かないように実践せよ、と説いたとされている。ブッダの教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、内にも外にも争いの世界に堕することが無いようにせよ、としている[76]。
外的なものとしては、阿修羅は神々の敵であり、ときどき神々と戦闘を交えるという神話がある[77]。
- 畜生
- 餓鬼
- 地獄
古い詩句では、天も地獄も単数で表されている[78]ので、地獄の世界の中に、地獄・餓鬼・畜生・修羅の心のありさまが通じるそれぞれの世界があるようだ。「わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところ(地獄)に堕することもない。・・・わたしは必ずさとりを究める者である[79]」、とされている。
地獄に行っても、時が来れば梵天の世界に生まれて、仏弟子となるとされている。地獄では仏弟子にはなれないとされているので、自覚するまでに、長い年月がかかると見ることができる[80]。
大乗仏教
[編集]大乗仏教においては、上述のような初期仏教の悟りの観念は小乗的として退けられた[9]。大乗仏教の実践者(菩薩)が求める悟りは、部派仏教の教学で固定化した悟りを根源的に捉え直すものであるとされる[9]。大乗仏教における悟りは、そのようなブッダの絶対的な境地に到達することから、成仏ともいわれる[9]。ブッダの悟りに向かおうという菩薩の志向を菩提心という[9]。
大乗仏教における悟りに到達するためには六波羅蜜の実践が必要とされ、自利のみでなく利他の精神も説かれた[9]。初期仏教以来の禅定を超える様々な三昧も実践された[9]。
大乗起信論
[編集]中国撰述とされる論書、『大乗起信論 』では、阿頼耶識(あらやしき)に不覚と覚の二義があるとし、覚をさらに始覚(しかく)と本覚(ほんがく)とに分けて説明する。我々の心性(しんしょう)は、現実には無明(むみょう)に覆われ、妄念にとらわれているから不覚であるが、この無明が止滅して妄念を離れた状態が「覚」であるという。無明は無始以来のものであるから、それに依拠する不覚に対しては「始覚」といわれるが、われわれの心性の根源は本来清浄な覚りそのもの(「本覚」)であって、それがたまたま無明に覆われているから、始覚といってもそれは本覚と別のものではなく、始覚によって本覚に帰一するに過ぎない、と説明し、誰にでも覚りに至る道は開けており、それに向かっての修行が必要なことを説いている。さらに、覚りは清浄なものであることも説明されている。
煩悩即菩提
[編集]煩悩とは主に欲望であるが、人々は欲望により悩まされることを主に煩悩というが、実は煩悩自体は、善も悪もないと言うことが仏の悟りに至る時にわかる。そして、その煩悩は、悩みにもなるのだが、その煩悩を上手く考えることで、考えようによってそのことが三世の生命(過去現在未来を永遠に生きる仏の悟り、{変わり続ける流れを、至福の安らぎで感じること})に変わるということであると知るのである。
即身成仏
[編集]生きながらにして成仏を遂げるとする密教的な思想にそって、空海は即身成仏を果たしたとされる[81]。
菩提に関する語句
[編集]菩提心
[編集]菩提心(ぼだいしん、梵: bodhi-citta)とは、さとりを求める心のこと[2][82]。阿耨多羅三藐三菩提心の略であり[2][83]、菩薩においては四弘誓願(しぐせいがん)にあたる[83]。
菩提心を起こすことを発菩提心(ほつぼだいしん)という[84]。悟りを求めようと決心することであり、発心のことである[84]。
菩提を弔う
[編集]日本では、死者の冥福を祈ることを俗に「菩提を弔う」という[1][8][注釈 29]。
菩提寺
[編集]一家が先祖代々、その寺の宗旨に帰依して、その寺に墓所を定め、葬式や追善供養を営んで死者の菩提を弔う寺のことを菩提寺という[1]。
菩提薩埵・菩薩
[編集]菩提薩埵(ぼだいさった)は、ボーディ・サットヴァ(梵: बोधिसत्त्व, bodhisattva, 巴: bodhisatta) の音写であり、菩提を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する。これを略して菩薩(ぼさつ)という。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ bodhi の漢訳に"悟"という訳語はない[1][4]。
- ^ 漢訳で「菩提」ではなく「覚」と意訳する新訳も出現した[5][要検証 ]。ただし、「覚」と訳出された他のサンスクリット語は十種類以上ある[5][要検証 ]。
- ^ 過去七仏の観念があらわれ、第七人目の仏がゴータマであるとするようになったのは、後代になってからとされる。[12]
- ^ ウパニシャッドの言葉であっても、現存パーリ仏典よりも内容や言葉はかなり古いものをうけている(中村元 1958, p. 136)
- ^ 無我とは、アートマンが存在しないのではなく、我でもないものを我とみなしてはならないという考え方であり、「われという観念」、「わがものという観念」を排除しようとしたのであるとされる。[19]
- ^ ゴータマは無余涅槃を排斥したとされる。[20]
- ^ ここで四諦に関連して書いてあることは、後世の付加であるとされている。(中村元 1958, p. 105)
- ^ カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められた開悟者とされたが、対機説法においては、対機した幾人かの比丘尼が還俗したりしたことが記されており、慈悲という面では、及ばないところがあったようである。 [27]
- ^ 「たましい(霊)の最上の清浄の境地」のうちにあって、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、清浄な行いを存続してゆくことが目的であるとされている。『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書 1984年 P395の注875 中村元
- ^ 禅宗などにおいては、根本的な悟りを得ることを大悟するという宗派もあれば、大吾を否定し、日常修行そのものが大悟であるとする宗派もある。(出典『岩波仏教辞典』1989年 P657)
- ^ 撒餌経(中部経典第25経)によると、無余涅槃を目的とするグループに対してのみ、無余涅槃について説くことがあった、とみることができる。
- ^ 無所有処や非想非非想の思想については、他の仙人が説いた教えではなく、もともとは仏説であった、とする見解がある。(出典『原始仏典第4巻 中部経典 I』 P723 第36経の注4 春秋社2004年 中村元監修)
- ^ マハーカッサバは、比丘が衆人と交わるのを戒めた。ゴータマは、衆人済度のために遊行を何十年もしたが、マハーカッサバは、岩登りをしていたとされる。『仏弟子の告白』岩波書店 1982年 P284 1058の注
- ^ これは、「なにも持たない」ということであるとする経文もある。「なにも持たない」ということは、煩悩を滅することと関係があると思われるので、これは、もろもろの汚れを滅ぼす智に関係があると思われる。
- ^ これは、「生は尽きはてた」という言葉に関係があるようである。「闇黒は消滅して、光明が生じた」というブッダの言葉から推察すると、非想非非想の状態に、光明のみが感じられるということのようである。
- ^ 第85経や聖求経には、想受滅と思われる境地に至り、教えを説く意欲の亡くなったゴータマに、世界の主であるブラフマー神が、慈悲利他の境地に誘ったことが伝えられている。世界の主は、このままだと世界は滅びる方向に向かってしまう、と言ったとされている。考えてみると、無余の涅槃にとっては、宇宙には生成する時期もあれば、滅びる時期もある訳であるから、それはどちらでもいいわけである。世界の主の放った言葉のうちには、想受滅の解脱とは異なった次元に、諸仏の慈悲を衆生に説く境地があったことがうかがえる。
- ^ 『原始仏典第4巻 中部経典 I』 第25経は、無余涅槃を求める出家者に対して解かれた経文のようで、「闇黒は消滅して、光明が生じる」等の、梵天勧請以後の境地について、欠落している。想受滅の状態で考えられる心境は、光を受信する心の働きをも滅した闇の感覚や、光を感じる光明の感覚、この世の主などの霊的存在を感じる光明の感覚、などである。
- ^ 無余涅槃を求める初期の修行者にとっては、「もはや輪廻の範囲に戻ってくることのない境地」というのは、理想の境地とされていた。これは後代においての不還とは異なっている(中村元 1986, P257の注3)。これに対して、世界が成立しつつあるときの極光浄天というのは、有余涅槃で考えられるニルバーナの世界と同質の世界であると思われる。
- ^ 在家信者に対しては、「さとりを達成する」「さとりを究める」と説いている。これは、一旦梵天の世界に入り、何転生かの後に、さとりを達成する、という意味である。
- ^ 初期の仏典には、教えを聞く人と、静かな林内で独りになって悟る人と、教えを聞きあの世に帰ってブッダをたずねてくる人と、悟ってあの世に帰って、消滅する人などについての記述がある
- ^ ここには、有余涅槃の萌芽があるとされている。(出典『仏弟子の告白』岩波書店 1982年 P292 の注 中村元)
- ^ 解脱していると思われる修行僧が、悪口を言ったために地獄に落ちた、という話がある。ここから見えることは、「ニルバーナ」を目指す者は、たとえ大悟を果たしたものであっても、努めはげんでいないと、悪魔の誘惑に負けた者は、悟りの境地から、外れてしまうことがあることを示唆している[48]
- ^ 当時の人々は、梵天を、世界を創造した主神と考えて尊崇していたとされるので、この現実世界の主宰神とする見方もある。(出典『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波書店 1978年 P95の注中村元
- ^ 過去七仏はすでに消滅の内に没入し、真理そのものとなったと認識されていたようだ。(出典『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店 1982年 P111 中村元)。六神通に通じた人は、自らの分身をつくりだす自己変化の能力があったとされることから類推すると、当時の悟達者は想受滅に至り、自らの存在を消し、真理そのものとなる能力があったということが考えられる。
- ^ 悟りの内容の最後の方に、第三の明知が生じた後、無明と闇黒が滅び、光明が生じた、とある(中村元 1958, p. 107)
- ^ 後代の仏教(アッサムやスリランカ)で、ダルマが人格神のように見なされるに至った源泉にこの詩句があるとされている『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店1982年 P252注303 中村元
- ^ ゴータマが悟る直前にマーラの誘惑や、攻撃を受けたとされるのも、ゴータマが悟って、教えを説いてしまうと、人間をだまして支配することがやりずらくなってしまうからだとされている(出典『原始仏典第4巻 中部経典 I』 第19経 二種の思いー双考経 P292 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳)
- ^ 最初の時期には五下分結についての解釈は一定しておらず、死後に四悪道のいずれかにおもむかせる五つの束縛という解釈もされていた。三界説はダンマパダやスッタニパータの中にも出ていないが、五下分結、五上分結の観念はおそらく成立していたと考えられている。三界説が成立したのは、かなり遅れてのことであるとされている。(出典『ブッダ 神々との対話』岩波書店 1986年 P228 中村元)
- ^ 『ブリタニカ・オンライン・ジャパン 小項目事典』によれば、菩提とは「サンスクリット語 bodhi の音写で,智,道,覚と訳される。仏陀の悟り,完全な開悟,涅槃の境地をなす智慧のことで,そこでは煩悩は断たれている。したがって俗に冥福の意味でも用いられるようになった。」
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、923頁。
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- ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。
- ^ 水野弘元 『仏教用語の基礎知識』 春秋社、2006年、p.82「(3)正徧知」。
- ^ 多屋頼俊、横超慧日・舟橋一哉 編 『仏教学辞典』 法藏館、1995年、新版、p.410「菩提」。
- ^ a b “菩提(ぼだい)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月22日閲覧。
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- ^ a b 『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』中公バックス 昭和54年 P22 インド思想の潮流の項目 長尾正人 服部正明
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- ^ 中村元 1958, p. 104.
- ^ 正見というものから離れるので、諸仏の教えというものからも、離れてゆくようである。
- ^ これは、宇宙期についての明知にあたるようだ。
- ^ 中村元 1958, p. 120.
- ^ これは、諸々の衆生意識についての明知にあたるようだ。
- ^ 『原始仏典第4巻 中部経典 I』 第25経 猟師と鹿の群れ-猟師経 P379 春秋社 2004年 中村元監修 羽矢辰夫訳
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- ^ 中村元 1986b, P306の注.
- ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P113 中村元
- ^ 中村元 1984, p. 144.
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- ^ a b 『ブッダ最後の旅』岩波文庫 2001年 P197の注15 中村元
- ^ 原始仏典II 相応部第一巻P137第三篇第二章第8節 中村元ほか
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- ^ 「世界の主」という語は、西洋的には訳しにくい語であるとされていて、「この現実世界の主」という意味を持っている。(中村元 1986b, P340の注)
- ^ 中村元 1958, p. 106.
- ^ 中村元 1986b, P339の注と、P88.
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- ^ 中村元 1986b, P88 と、P339 の注.
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- ^ 中村元 1984, p. 340の注.
- ^ (出典『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P373 の注 中村元)無明と六道輪廻とが関係しているとするならば、内的世界においても、六道輪廻の現象が起こっているといえる。
- ^ a b 『尼僧の告白』岩波書店 1982年 P89 中村元
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- ^ a b 菩提心とは - マイペディア/コトバンク
- ^ a b “発菩提心(ほつぼだいしん)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月23日閲覧。
参考文献
[編集]- 中村元『ゴータマブッダ: 釈尊伝』法蔵館、1958年。ISBN 978-4831873514。
- 中村元『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店、1984年。ISBN 9784003330111。
- 中村元『ブッダ神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ I』岩波書店、1986年。ISBN 978-4003332917。
- 中村元『ブッダ悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ II』岩波書店、1986年。ISBN 978-4003332924。