藤原恒佐
時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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生誕 | 元慶3年(879年) |
死没 | 承平8年5月5日(938年6月5日) |
別名 | 一条右大臣、土御門右大臣 |
官位 | 正三位、右大臣、贈正二位 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇 |
氏族 | 藤原北家 |
父母 | 父:藤原良世、母:紀勢子(紀豊春の娘) |
兄弟 | 佐命、時佐、有佐、清真、邦基、公忠、恒佐、意住子 |
妻 | 源定有の娘、藤原清貫の娘 |
子 | 有相、有時、有章、真忠、陳忠、則忠、懐忠、国忠、常明親王妃、真忠妹 |
藤原 恒佐(ふじわら の つねすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原良世の七男。官位は正三位・右大臣、贈正二位。一條右大臣または土御門右大臣と号す。
経歴
[編集]左近衛将監・六位蔵人を経て、宇多朝末の寛平8年(896年)父の左大臣・藤原良世が致仕してまもなく従五位下に叙爵する。
醍醐朝に入り、右馬助・右兵衛佐・左近衛少将と武官を歴任する一方、延喜10年(910年)五位蔵人、延喜11年(911年)春宮亮と醍醐天皇と皇太子・保明親王に身近に仕える。のち、延喜12年(912年)従四位下・蔵人頭、延喜13年(913年)右近権中将、延喜14年(914年)左近衛中将と、武官を務めながら順調に昇進し、延喜15年(915年)参議に任じられ公卿に列す。これは、文章生から文官を歴任した6歳年上の兄・邦基より6年早い公卿昇格であった。
その後も、議政官として左近衛中将・衛門督と武官を務める一方、延喜17年(917年)従四位上、延喜23年(923年)従三位・権中納言、延長5年(927年)中納言、承平2年(932年)正三位、承平3年(933年)大納言と醍醐朝後半から朱雀朝にかけても順調に昇進する。承平6年(936年)には上席の大納言・藤原保忠の薨去により、太政官において藤原北家嫡流の忠平・仲平兄弟に次ぐ席次を占め、同年右近衛大将を兼ね、翌承平7年(937年)には右大臣に至った。承平8年(938年)5月5日薨去。享年60。最終官位は右大臣正三位兼行右近衛大将。没後まもなく正二位の贈位を受けた。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 寛平6年(894年) 正月15日:左近衛将監
- 寛平8年(896年) 12月28日:従五位下
- 寛平10年(898年) 正月29日:信濃権介。5月10日:右馬助
- 昌泰2年(899年) 4月2日:右兵衛佐
- 延喜6年(906年) 正月7日:従五位上。9月17日:左近衛少将
- 延喜7年(907年) 正月13日:兼近江介
- 延喜8年(908年) 正月19日:昇殿。3月5日:見右衛門権佐[1]
- 延喜10年(910年) 正月7日:正五位下。正月21日:五位蔵人
- 延喜11年(911年) 4月28日:兼春宮亮
- 延喜12年(912年) 正月7日:従四位下。正月15日:兼伊予権守。正月20日:蔵人頭
- 延喜13年(913年) 正月28日:右近衛権中将。亮守等如元。4月15日:兼讃岐権守
- 延喜14年(914年) 4月22日:右近衛中将
- 延喜15年(915年) 6月25日:参議、右中将讃岐権守等如元
- 延喜17年(917年) 正月7日:従四位上。正月29日:兼備前権守
- 延喜20年(920年) 正月20日:兼左近衛中将
- 延喜21年(921年) 正月30日:兼右衛門督。2月14日:兼検非違使別当
- 延喜22年(922年) 正月30日:兼播磨守
- 延喜23年(923年) 正月22日:従三位、権中納言、右衛門督使別当如元
- 延長5年(927年) 正月12日:中納言、右衛門督使別当如元
- 延長8年(930年) 12月17日:左衛門督、使別当如元
- 承平2年(932年) 正月7日:正三位
- 承平3年(933年) 2月13日:大納言
- 承平6年(936年) 8月15日:兼右近衛大将
- 承平7年(937年) 正月22日:右大臣、右大将如元
- 承平8年(938年) 5月5日:薨去(右大臣正三位兼行右近衛大将)。5月19日:贈正二位
系譜
[編集]注記のないものは『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]出典
[編集]公職 | ||
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先代 藤原仲平 | 右大臣 937 - 938 | 次代 藤原実頼 |
軍職 | ||
先代 藤原保忠 | 右近衛大将 936 - 938 | 次代 藤原実頼 |
先代 藤原保忠 | 左衛門督 931 - 933 | 次代 橘公頼 |
先代 源当時 | 右衛門督 921 - 931 | 次代 藤原兼輔 |