貝島太助
貝島 太助(かいじま たすけ、弘化2年1月11日(1845年2月17日)- 大正5年(1916年)11月1日)は日本の実業家。筑豊御三家の一つである貝島財閥の創始者であり、筑豊炭田のうち貝島炭鉱を開発して「筑豊の炭坑王」「筑豊の石炭王」の異名を取った[1]。
経歴
[編集]筑前国鞍手郡直方町(現・福岡県直方市)の、行商もする貧農の家に生まれた。時は幕末動乱の真っ只中で、太助の幼少時代は黒船来航、大老・井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)、尊王攘夷思想の広まりとさまざまな出来事が相次いで起こり、激動の時代を迎えていた。8歳の頃から、生活のために父とともに石炭掘りの仕事を始めた。炭鉱夫として稼いだ資金を元手に[1]、明治3年(1870年)から炭鉱経営に従事した。明治10年(1877年)の西南戦争による価格の暴騰で巨利を得たこともあったが、炭鉱経営に三度失敗した末[1]、明治18年(1885年)に大之浦炭鉱(鞍手郡上大隈村代ノ浦、現・宮若市上大隈)を開坑した。
その後、次々と鉱区を拡大。明治政府の有力者だった井上馨との縁で、三井財閥からの支援も得た[1]。明治27年(1894年)の日清戦争による好況で更に事業を拡大し、明治31年(1898年)に貝島鉱業合名会社(後の貝島炭礦)を設立。明治42年(1909年)に株式会社に組織変更して石炭事業に専念した。 炭鉱では1909年に243人、1917年に361人といった多数の死者・行方不明者を出すガス爆発事故が発生した[2]が事業は拡大し続けた。
事業の傍ら社会貢献として、貝島私学と呼ばれた私立大之浦小学校(現・宮若市石炭記念館)、私立岩屋小学校なども設立した。大正5年(1916年)11月1日、71歳で死去。
貝島炭鉱はその後、四男の貝島太市が継いだ。家族主義経営を標榜して、従業員とその家族向けに上記の学校のほか病院を整備し、「御安全に」という現在も建設・製造現場で使われる事故防止の標語も掲げて、労働環境に気を配った。第二次世界大戦後、日本のエネルギーは石炭から石油への転換が進んだが、多角化を戒める『貝島家家憲』があったため乗り遅れ、1976年に会社更生法適用を申請して閉山した[1]。
家族
[編集]- 長男・貝島栄三郞(1913年没)[3][4]
- 二男・貝島栄四郞(1878-1947) - 貝島砿業社長[3][4]
- 三男・貝島健次(1880-1953) - 戸籍上は叔父・貝島嘉蔵の長男。貝島乾留社長。東京高等工業学校機械科卒業後、太市とともに米国留学[4][5]
- 四男・貝島太市(1880-1967) - 妻は鮎川義介の妹[6]
- 五男・貝島永二(1886-1926) - 貝島林業社長[3][4]
- 養女・千代(1896年生) - 岩村高俊の娘。永二の妻[3][4]
参考記事・文献
[編集]- ^ a b c d e 福田康生「筑豊石炭王の歴史掘る◇御三家の貝島財閥 創業者や子の伝記まとめる◇『日本経済新聞』朝刊2019年1月8日(文化面)2019年4月15日閲覧。
- ^ “2007年12月の周年災害”. 防災情報新聞. 2021年8月27日閲覧。
- ^ a b c d 貝島太助『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b c d e 地方財閥の形成者 : 貝島太助・太市と安川敬一郎・松本健次郎 宇田川勝、法政大学イノベーション・マネジメント研究センタ ー ワーキングペーパーシリーズ 巻115 2011-11-18
- ^ 貝島健次『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 貝島太市『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- 福田康生『筑豊の炭坑王・貝島太助の物語』自分史図書館刊、2003年。
関連項目
[編集]外部リンク
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