趙嬰
趙 嬰(ちょう えい、生没年不詳)は、春秋晋の人物。趙嬰斉とも。楼の地を封地として与えられ、それを氏としたことから、楼嬰とも称される。
生涯
[編集]紀元前597年に荘王率いる楚軍が鄭を包囲し、鄭の襄公は晋に助けを求めた。趙嬰も中軍大夫として鄭への援軍に赴いた。邲の戦いで晋軍が楚軍に大敗を喫すると、趙嬰は前もって部下に黄河を渡る船を用意させていたため、敗戦後すぐに渡河することができた[2]。
紀元前587年、甥の趙朔の妻であった趙荘姫(成公の娘)と私通した[3]ため、翌紀元前586年に同母兄の趙同と趙括によって斉に放逐された。
紀元前583年、趙嬰が放逐されたことを恨んでいた趙荘姫は、趙同と趙括が謀反を企んでいると兄の景公に讒言し、趙同と趙括は殺害されて晋の趙氏は一度滅んだ(下宮の乱)。『史記』によると趙嬰もこの時に屠岸賈によって殺害されたとする[4][5]が、楊秋梅『趙氏孤児本事考』と郝良真・孫継民『趙氏孤児考弁』では『史記』の記述は虚構が多く、事実ではないとしている。
出典
[編集]参考書籍
[編集]- 御橋悳言『平治物語注解』八木書店〈御橋悳言著作集2〉、1981年。ISBN 978-4797105346。