道嶋嶋足

 
道嶋嶋足
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 延暦2年1月8日783年2月13日
官位 正四位上近衛中将
勲二等
主君 孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 丸子(無姓)→牡鹿→牡鹿宿禰道嶋宿禰
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道嶋 嶋足(みちしま の しまたり)は、奈良時代の武人・貴族氏姓は始め丸子(無姓)のち牡鹿連、牡鹿宿禰、道嶋宿禰官位正四位上近衛中将勲等は勲二等。

陸奥在地の豪族の中で唯一中央官僚として立身した。

出自

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嶋足の元の姓である丸子氏(無姓)は、上総国伊甚屯倉から大化年間(645年頃)に国家の政策によって移住した一族であると考えられている。移住初期のものと目される宮城県東松島市矢本横穴墓群では、伊甚屯倉のあった千葉県長生郡に多く見える高壇式横穴墓と同形式の横穴墓が確認されている。同族と思しき人物に、神亀元年(724年)3月の海道の蝦夷反乱の征討に活躍し、外従六位上に叙位された丸子大国や、天平勝宝5年(753年)6月に牡鹿連姓を賜った牡鹿郡人外正六位上・丸子牛麻呂や正七位上・丸子豊嶋ら24人がいる[1]

『甲斐国一之宮浅間神社誌』の「古屋家家譜」とその分析を行った溝口睦子は、丸子氏(無姓)はもともと伊甚屯倉で丸子連-丸子-丸子部の氏族の、丸子連の配下にあった有力農民層であったと推察している[1]

丸子・丸子部または丸子連を名乗る氏族は、奈良・平安時代において、陸奥国に最も多く分布し、常陸国上総国相模国などの東国に限られ、地名でも神奈川県の「上丸子」など、この地域に「丸子」が多い。このことは、丸子氏が東国に広く分布・居住していたことを指し示すものであるが、その氏族名が継体宣化敏達用明など6世紀の天皇の皇子の名と同音であり、これらの皇子の子代名代の系譜を引く氏族であることを示している[2]。もっとも、丸子一族をすべて同族とする説に対し[2][3]、丸子姓の人間が牡鹿郡の者が多く、このことから、丸子姓の氏族は7世紀前半頃に牡鹿の地に移住した新米集団であり、丸子部・丸子連とは別系統の氏族とする見解もある[4]

また、丸子氏と同じく上総国から移住した一族の末裔と考えられる人物に、『続日本紀神護景雲3年(769年)3月13日の条に見える、武射臣を与えられた陸奥国牡鹿郡の春日部奥麻呂がいる。

経歴

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陸奥国牡鹿郡の出身[5]

孝謙朝天平勝宝5年(753年大初位下の時丸子から牡鹿連に改賜姓される。天平宝字元年(757年橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵側となるのを防ぐために、賀茂角足が事前に武勇に優れた者を自邸に呼んで酒盛りをしたが、嶋足は高麗福信坂上苅田麻呂らの武人と共に招待されている[6]天平宝字年間に授刀衛将曹に任じられる。

天平宝字8年(764年)9月の藤原仲麻呂の乱において、藤原仲麻呂の子の訓儒麻呂勅使山村王を襲撃して御璽駅鈴を奪った際、嶋足は授刀衛少尉・坂上苅田麻呂と共に孝謙上皇勅命を受けて、訓儒麻呂を襲いこれを射殺した。乱における武功により従七位上から一足飛びに十一階昇進して従四位下に昇叙、宿禰姓を賜姓された。10月には授刀少将兼相模守に任ぜられ、天平神護元年(765年)に勳二等叙勲を受け、近衛員外中将に任じられる。こののち道嶋宿禰に改姓。

天平神護2年(766年)にも正四位下次いで正四位上に叙せられるなど、称徳朝にて地方豪族としては異例の昇進を遂げた。神護景雲元年(767年陸奥国大国造。この間近衛中将に任ぜられる。神護景雲4年(770年)8月蝦夷の首長である宇漢迷公宇屈波宇らが朝廷軍との関係を断ち、配下と共に朝廷の支配が及ばない地に引き上げ、反攻の姿勢を示した際、嶋足は事実関係の検問のために現地に派遣された(宇漢迷公宇屈波宇逃還事件[7]

光仁朝でも引き続き近衛中将(中衛中将)を務める傍ら、宝亀9年(778年下総守宝亀11年(780年播磨守といった地方官や、内厩頭を兼務した。

桓武朝延暦2年(783年)1月8日卒去

人物

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体軀や容貌が雄壮で士気に溢れ、生来より騎射に優れていたという[5]

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ a b 佐藤 敏幸「東北における古代城柵の造営過程――牡鹿柵・牡鹿郡家の造営過程とその背景を中心に――」『東北学院大学東北文化研究所紀要 53号』(東北学院大学東北文化研究所、2021年)
  2. ^ a b 井上光貞「陸奥の族長、道嶋宿禰について」『著作集』一
  3. ^ 高橋富雄「陸奥大国造」『古代の日本』8
  4. ^ 伊藤玄三「道嶋宿禰一族についての一考察」『東北古代史の研究』
  5. ^ a b 続日本紀』延暦2年正月8日条
  6. ^ 『続日本紀』天平宝字元年7月4日条
  7. ^ 『続日本紀』宝亀元年8月10日条

参考文献

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