閑院宮直仁親王
閑院宮直仁親王 | |
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閑院宮 | |
続柄 | 東山天皇第六皇子 |
称号 | 准三宮 |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 | 1704年10月7日 (宝永元年9月9日) |
死去 | 1753年7月3日(48歳没) (宝暦3年6月3日) |
埋葬 | 1753年7月21日 (宝暦3年6月21日) 直仁親王墓 廬山寺陵域内 |
配偶者 | (妃)近衛脩子 |
(女房)左衛門佐讃岐 | |
(女房)中野さち | |
子女 | 始宮 梅芳院 蓮香院 俊宮 寿宮 尊信女王 格宮 幾宮 五十宮 淳宮 八千宮 |
父親 | 東山天皇 |
母親 | 櫛笥賀子 |
役職 | 弾正尹 |
サイン |
閑院宮直仁親王(かんいんのみや なおひとしんのう、宝永元年9月9日(1704年10月7日) - 宝暦3年6月3日(1753年7月3日))は、江戸時代の皇族。父親は東山天皇。弾正尹。准三宮。幼名は秀宮。宝永7年(1710年)に世襲親王家の閑院宮を創設する。
孫に光格天皇がいるため、光格天皇以降の歴代天皇は全員直仁親王の子孫である。
略歴
[編集]東山天皇の第六皇子として生まれる。同母兄に中御門天皇がいる。
当時、既にあった宮家(伏見宮・有栖川宮・桂宮)は何れも天皇とは遠縁であった。以前に後光明天皇の急な崩御で有栖川宮から新帝を出すという経験から、皇統の断絶を危惧するも即位となれば天皇の近親者が相応しいとの考えから、新井白石は新宮家の創設を希望していた。宝永7年(1710年)8月10日、新井白石の建議により当時在位中の中御門天皇の弟宮である直仁親王を当主にすることが決定し、閑院宮が創設された。享保3年(1718年)、霊元上皇より直仁親王へ閑院宮の家号と所領1000石が下賜された。伏見宮・有栖川宮・桂宮・閑院宮を合わせて4宮家(四親王家)という。
閑院宮邸は京都・公家町南西にあり、明治に入り閑院宮家が東京に移ってからは宮内省京都支庁・厚生省管理事務所などを経て近年は環境庁京都御苑管理事務所として利用されていた。
系譜
[編集]閑院宮直仁親王の系譜 |
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系図
[編集]天皇家系図
[編集]113 東山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
閑院宮系図
[編集]東山天皇 | |||||||||||||||||||||||||
直仁親王 1 | |||||||||||||||||||||||||
典仁親王 2 | 鷹司輔平 (鷹司家継承) | 倫子女王 (五十宮・徳川家治室) | |||||||||||||||||||||||
美仁親王 3 | 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||
孝仁親王 4 | 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||
愛仁親王 5 | 孝明天皇 | ||||||||||||||||||||||||
載仁親王 6 (伏見宮邦家親王王子) | 明治天皇 | ||||||||||||||||||||||||
春仁王 7 [皇籍離脱] | 大正天皇 | ||||||||||||||||||||||||
妃・王子女
[編集]東山天皇の第六皇子。母は内大臣従一位櫛笥隆賀の女の賀子(新崇賢門院)。中御門天皇の同母弟。御息所は関白近衛基熙の女の脩子(八百君)。光格天皇の祖父。