高柳儀八
高柳 儀八 | |
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生誕 | 1891年4月17日 日本 佐賀県 |
死没 | 1973年12月29日(82歳没) |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1913 - 1945 |
最終階級 | 海軍中将 |
高柳 儀八(たかやなぎ のりはち[1]、または たかやなぎ ぎはち、1891年(明治24年)4月17日 - 1973年(昭和48年)12月29日)は、日本の海軍軍人。戦艦「大和」第2代艦長。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]佐賀県出身。高柳米吉の息子として生れる。旧制佐賀中学卒を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、海軍兵学校(41期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1920年(大正9年)11月、海軍砲術学校高等科を卒業。戦艦「鹿島」分隊長、駆逐艦「海風」砲術長、砲術学校教官などを経て、1927年(昭和2年)11月、海軍大学校(甲種25期)を卒業した。
軽巡洋艦「名取」・海防艦「浅間」の各砲術長、呉海兵団、重巡洋艦「那智」砲術長、第1艦隊兼連合艦隊参謀、海軍省教育局員(第2課)などを歴任し、1936年(昭和11年)12月、海軍大佐に進級し横須賀鎮守府付となる。
1937年(昭和12年)4月、軽巡洋艦「龍田」艦長に就任し、砲術学校教頭、重巡洋艦「鈴谷」・戦艦「伊勢」の各艦長などを経て、1941年(昭和16年)9月、呉鎮守府付となる。同年11月、戦艦「大和」の第2代艦長に就任し太平洋戦争を迎えた。1943年(昭和18年)1月、第1艦隊参謀長に発令され、次いで海兵副校長兼教頭に就任した。1945年(昭和20年)5月、海軍中将に進み、同月、海軍省教育局長となる。終戦の詔勅発布後の1945年8月20日、自決した大西瀧治郎中将の後任として最後の軍令部次長に就任。同年10月、海軍省出仕となり、11月20日、予備役に編入された。後に公職追放となる[2]。