麓純義
麓 純義(ふもと すみよし、元治3年8月28日[1](1864年9月28日) - 昭和10年(1935年)2月8日[1])は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、那覇市長。
経歴
[編集]大隅国大島郡笠利村[2](現在の鹿児島県奄美市)出身。東京法学院(現在の中央大学)に入学し、在学中の1889年(明治22年)に代言人試験に合格した。翌年に東京法学院を卒業し、弁護士を開業するが、1892年(明治25年)に那覇地方裁判所が開庁すると、那覇に移って弁護士業務に従事した。
1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第11回・第14回・第15回と4回当選を果たした。その間、1923年(大正12年)から1925年(大正14年)まで、那覇市長を務め、初等教育や社会教育に力を入れた。
その後、1933年(昭和8年)に那覇市会議員に選出され、議長に互選された。
著書
[編集]- 『聯盟脱退と南洋の委任統治』(新極東社、1934年)
脚注
[編集]- ^ a b 故麓純義位記追賜ノ件
- ^ 『衆議院要覧』より。『沖縄人事興信録』「故麓純義位記追賜ノ件」では本籍は名瀬町となっている。
参考文献
[編集]- 『沖縄人事興信録』大典記念沖縄県人事興信録編纂所、1929年。
- 『衆議院要覧(乙) 大正十三年十二月』衆議院事務局、1924年。
- 故麓純義位記追賜ノ件(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
公職 | ||
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先代 当間重慎 | 那覇市長 第2代:1923年-1925年 | 次代 岸本賀昌 |