佐竹義忠
ウィキペディアから無料の百科事典
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 享保15年9月15日(1730年10月26日) |
死没 | 天明7年9月24日(1787年11月3日) |
改名 | 富之助(幼名)、義忠 |
別名 | 多宮(通称) |
戒名 | 観量院法性賢融 |
墓所 | 東京都板橋区小豆沢の総泉寺 |
官位 | 従五位下・壱岐守、播磨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 出羽岩崎藩主 |
氏族 | 佐竹氏 |
父母 | 父:佐竹義道、母:佐竹義長の娘・昆 |
兄弟 | 義明、義敏、義忠、蜂須賀重喜、松平直道正室 |
妻 | 正室:なし |
子 | 義恭、春 養子:義祇 |
佐竹 義忠(さたけ よしただ)は、江戸時代中期の大名。出羽国岩崎藩の第3代藩主。佐竹壱岐守家3代当主。通称は多宮。官位は従五位下・壱岐守、播磨守。
略歴
[編集]第2代藩主・佐竹義道の三男。母は初代藩主・佐竹義長の娘・明鏡院。幼名は富之助。
長兄の義明が本家の藩主となり、次兄の義敏は早世したため、宝暦13年(1763年)3月29日に義道の嫡子になった。同年4月15日、10代将軍・徳川家治に御目見した。同年5月14日、父の隠居により跡を継いだ。同年12月9日、従五位下・壱岐守に叙任された。隠居後、播磨守に遷任された。安永9年(1780年)11月7日、養嗣子の義祇(義敏の子で甥にあたる)に家督を譲って隠居し、天明7年(1787年)9月24日に死去した。
系譜
[編集]父母
側室
- 川井氏
- 朝比奈氏
子女
養子