憲宗 (唐)
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憲宗 李純 | |
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唐 | |
第14代皇帝 | |
王朝 | 唐 |
在位期間 | 永貞元年8月9日 - 元和15年1月27日 (805年9月5日 - 820年2月14日) |
都城 | 長安 |
姓・諱 | 李淳→李純 |
諡号 | 聖神章武孝皇帝 昭文章武大聖至神孝皇帝(宣宗による) |
廟号 | 憲宗 |
生年 | 大暦13年2月14日 (778年3月17日) |
没年 | 元和15年1月27日 (820年2月14日) |
父 | 順宗 |
母 | 王良娣 |
后妃 | なし |
陵墓 | 景陵 |
年号 | 元和 : 806年 - 820年 |
生涯
[編集]805年4月に立太子され、同年8月には順宗の病を理由にした譲位にともない即位した。
即位後は宦官の勢力に対抗するために杜黄裳を登用した。さらに地方の節度使勢力を抑制するため、817年(元和12年)には淮南西道節度使を討って地方の統制強化も実施している。対藩鎮勢力の施策としては、儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。さらに名臣と謳われた武元衡や李吉甫らにも恵まれ、軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
だが、太子に立てられた長男の鄧王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺するようになった。法門寺の仏舎利を長安に奉迎することを計画し、韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺された。