物部長鉾

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物部 長鉾
生誕 1892年12月26日
日本の旗 日本 秋田県
死没 (1967-02-26) 1967年2月26日(74歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1914 - 1945
最終階級 陸軍中将
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物部 長鉾(もののべ ながほこ、1892年12月26日 - 1967年2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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秋田県出身。出羽物部氏の家系である唐松神社の生まれ。

1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、陸軍輜重兵少尉任官。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。

1934年(昭和9年)8月、参謀本部員兼陸大教官に就任。1937年(昭和12年)10月、中支那碇泊場監部参謀に就任し日中戦争に出征。同年11月、輜重兵大佐に昇進。1938年(昭和13年)2月、中支那派遣軍兵站参謀となり、1940年(昭和15年)8月、陸軍少将に進級し第11野戦輸送司令官に就任。

1941年(昭和16年)10月、陸軍輜重兵学校長に異動。1942年(昭和17年)7月、船舶参謀長に発令され太平洋戦争に出征。1943年(昭和18年)2月、船舶練習部長に転じ、さらに船舶兵団長に移り、同年10月、陸軍中将に進む。1944年(昭和19年)4月、輜重兵監に就任し、留守近衛第2師団長に異動。

1945年(昭和20年)4月1日に第140師団長となり、鎌倉で対着上陸作戦準備中に終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

1948年(昭和23年)7月、南方から捕虜を輸送した際の虐待(いわゆる地獄船)に関与した容疑で逮捕、B級戦犯として裁判にかけられた[2]

親族

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脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。
  2. ^ 「地獄船でB級公判」『朝日新聞』昭和28年7月28日.2面
  3. ^ a b 物部長穗 (男性)」人事興信録データベース第8版 [昭和3(1928)年7月](名古屋大学大学院法学研究科

参考文献

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  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

関連項目

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