茨木司
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茨木 司(いばらき つかさ、生年不詳 - 慶応3年6月13日(1867年7月14日))は、新選組隊士。諱は信忠。
生涯
[編集]会津藩出身。慶応元年(1865年)の入隊とされる。尊皇攘夷思想が強く、慶応3年(1867年)3月に結成された伊東甲子太郎らの御陵衛士に参加を希望したが、その才を惜しんだ近藤勇によって新選組に残留した。一方で、伊東より間者(スパイ)を頼まれていたといわれる。これは御陵衛士との隊士の行き来を禁じられていたためであった。
同年6月に新選組の幕臣取り立てに反発し、会津藩京都守護職邸に抗議を行ったが受け入れられず、佐野七五三之助、中村五郎、富川十郎らと共に、同所で自刃した。
阿部十郎によれば剣術・柔術は免許以上であり、また多少の学問もあったという[1]。
脚注
[編集]- ^ 史談会 編『幕末動乱の記録:「史談会」速記録』桃源社〈桃源選書〉、1965年、160頁。「非常に勉強家でございまして、剣術も免許以上出来まして、柔術も免許以上を使いました。又少しく文字もございます。」