軍服 (中華民国)

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中華民国の軍服(ぐんぷく)とは、中華民国建国以降、中華民国軍で使用されている軍服である。

最初期の陸海軍軍官(1912年2月15日)
第二次世界大戦期の陸海空軍軍官(左から二人目のみイギリス海軍将官、1943年2月23日)
現在の陸軍海空軍軍官(2016年6月23日)

中華人民共和国の軍服については、こちらを参照。

概観

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中国の軍服は、列強諸国の進出により国土が租借地となったという複雑な背景を反映してか、様々な国の影響を受け独特の雰囲気を醸し出している。その中でも、特にイギリスやドイツ、そして良くも悪くも最も身近な列強国であった日本の影響が強く見られる。また、全体的に、国花であるを意匠に盛り込んでいることも大きな特徴である。

礼装は如何にも中国らしく装飾をふんだんにあしらった絢爛豪華なものである一方、常服は比較的シンプルであり、場合によっては階級章や兵科章一切を取り外すこともあった。

第二次大戦後は、周辺諸国同様、三軍共にアメリカの影響を受けたものとなった。

これらの軍装は多種多様な軍閥や気候に応じて多種に分かれ、中には規定上存在しないもの、また逆に規定上にはあるが戦乱で実物が確認できないものも少なくない。なお、これまで軍装の改正を行う際は陸海空各軍個別に制定を出していたが、2007年11月9日の「陸海空軍服制條例」より三軍纏めて通達を出す事となった。

前史

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当時の西洋の雑誌に描かれた礼装、常装の将校。ただし、徽章細部に誤りがある

清朝の洋務運動の折、袁世凱は西洋式軍隊である新建陸軍を設立した。新軍の軍服は当初、昔ながらの民族衣装である馬褂中国語版を西洋風にアレンジした半洋装の軍服であった。東洋の服飾の特徴である袖の裾は機能性重視のため絞り、洋服のシャツやズボンと同様の長さになった。

本格的な西洋式軍服が導入されたのは1905年であり、崩壊直前の1911年に再度改正がなされた。この時導入された制服の色は青灰色であり、以降1936年までの長らくの間中国の軍服の色にブルーグレーが使われるきっかけとなった。

洋装導入以前

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中国の洋式軍装は、1860年から64年までアメリカ人により編成された傭兵部隊の常勝軍に端を発する。彼ら中国人傭兵はアメリカ式の詰襟軍服に帕首(頭巾)を巻いていた。淮軍は常勝軍吸収の際これを参考にし、帕首と短衣(半洋装)からなる被服を導入、上衣前面の補子中国語版に所属等を書いた[1]。軍官は馬褂の前面に黒の唐草文様が入り、私物と思われるベルトやブーツ、サーベルなども取り入れられた。階級章は日本風、ドイツ風、フランス風など多種多様で、階級の特定は困難を極める。1905年1月の西洋式階級導入後は、37年戦時服の様な袖章と星章が確認される[2]

こうした半洋装の軍服は、青島租界警察や第3海兵大隊隷下の中国人中隊(Chinesenkompagnie)でも類似したものが使用された[3]

光緖31年(1905年)制式

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1903年3月から完全な洋装の導入を模索し[1]、1904年9月に制定された《練兵處奏定陸軍營制餉章》中にて「軍服制略」の一項を設置、「身体の形に合い、動きやすいものとしなければならない」と定義された[1]。同年12月、「另定新軍官制事宜」にて、八旗官員の制度を改め、階級を西洋式の三等九級制とした。

1905年3月の完全西洋式の階級と編成に合わせて同月から試製洋装を導入し、調整を経て翌月1905年4月ごろから正式導入された。

常装は、試製品では日本海軍の第一種のように前合わせがホック式の上衣で左右に各3つポケットがあるものであったが、正式導入では代わって日本陸軍の明治37年戦時服や、天津駐留の帝政ドイツ東アジア遠征軍団で使用された夏季野戦服の影響を受けたと思われる簡素なものへと変更された。布地は冬は藍色上衣の前あわせのボタンは露出、夏はカーキ色で上衣の前あわせが隠しボタンとなっている。階級は日本軍をベースとしており、袖に配された黒のパイピングとボタンで表された。

礼服は紺色で、上着はシングルブレストだが、日本やドイツ、ロシアのフロックコートダブルブレストの2種類が存在した。いずれもポケットはなく、直径2cmのボタンが7個[5]。17cmのサイドスリットが入る。肩章は長さ10.5cm、幅4.5cm、厚さ0.4cm[6]。襟には宝珠を持つ竜が配された。宝珠の色は上等官は赤、中等官は青、次等官は白。ズボンは黒で上等官は幅3cmの太線2本の間に0.2cm細線が入り、間隔は各0.3cm、中等官は3cmの太線が0.3cm間隔で2本、次等官は4.5cmの太線1本。

操帽(制帽)は調整期はケピ帽であったが、正式導入ではドイツ式の官帽に変更された。制帽は常装と同色の夏季・冬季の2種類があるが、礼装のものを平時に被る写真も多い。従来の清式のもの(寒帽)を被ることもある。 将校の帽章は、二匹のが中央の宝玉を囲む意匠となっている[7]。憲兵のみ帽章が異なる[8]

下士官兵の階級は礼装では袖口のパイピング、常服では上腕部にV字型の徽章。肩章には所属部隊を表記する。帽章は一匹の竜が前面を向いたデザイン。

宣統3年制式

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宣統3年(1911年)3月9日[8]、礼服・常服に関する改正が実施された。これまで地味だった常服は、この改正でより洗練されたものとなった。上衣は上下ともにポケットに雨蓋なし、生地の色はブルーグレー、ボタンは7つ。将校の場合、階級は襟と肩で表され、襟章は2.2cm六芒星であらわされた階級章と、その上部の兵科章で構成された。兵科章には、アラビア数字で連隊もしくは大隊番号を表した隊号章が付く。帽章はより簡略化され、黄、青、赤の直径2.4cmのコカルデとなった。士兵の肩章は紅色の台紙を0.4cmの金のパイピングで囲み(中小学堂生徒はなし)、士兵は中央に0.6cmの金パイピングが1本、軍士は2本入る。礼装はシングルブレストにエポレット、ピッケルハウベのものが制定されたとされるが[9]、写真は確認できない。

このわずか半年後に辛亥革命が起こったため全軍に普及出来なかったと思われ、この常服を写した画像は少ない。しかし、1912年1月1日の中華民国臨時政府成立後も2月に宣統帝が退位するまでの間はあくまで新軍は存在しており、また革命勢力の間でも新軍より寝返った者の中には新型軍服が導入・本格的な増産に至るまでの間、帽章を取り換えたのみで引き続き着用する者もいた。

禁衛軍

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『禁衛軍大臣奏訂禁衛軍服色章記摺』(宣統元年(1909年)閏2月7日制定)

清帝室の近衛兵たる禁衛軍には、独自の軍服が採用された。冬の軍衣の地質は同じく灰色、軍帽の鉢巻および襟は黒もしくは赤で、帽章・記章も独特の物であった。当時としては珍しい折り襟で、襟は黒。肩章は、通常部隊がドイツ式に対しロシア式であった。帽章は八鋭角形で中央に黄、赤、白、青の4色の琺瑯が配され、襟には蓮の花と満州族の象徴であるシロハヤブサが配された[10]

革命軍諸軍の軍装

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辛亥革命では第八鎮からの起義者で編成された革命軍の他にも、呉淞光復軍、上海光復軍など数々の民軍(革命軍)が編成され、戦闘に参加。その多くは独自の制服を用いた。しかし、南京臨時政府の成立後に解散させられた。

1月5日、南京臨時政府は「軍士制服令」「大総統陸軍服制」を制定、16日には「陸軍軍官佐士兵階級表」[11]。軍服の形状および階級章は日本陸軍の明治39年式軍衣に酷似しており、帽章は、武昌起義において湖北軍政府が掲げた「十八星旗(鉄血十八星旗、別名・九角十八星旗)」をベースとして制定された陸軍軍旗である「九角十九星旗」を反映している。襟章は日本軍の「鍬型」に酷似するが、切れ込みの湾曲がない。また、将官でも赤の襟章を付ける。 階級は軍官は肩章、兵は線で示す。肩章は赤を台紙とし、少尉~大尉は金線1本、少領~大領は2本。将官は台紙が金。二等兵は半生(0.5ミリ)の赤線1本、一等兵は2本。二等兵目は下部に3生(3センチ)、上部に半生の赤線が各1本、一等兵目は下部に3生1本、上に半生の赤線2本。 建国直後の混乱のためか、軍政府ごとのばらつきが多かった。

北京政府の軍服(1912~1928年)

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『陸軍官佐礼服制』『陸軍常服制』(1912年10月24日制定)

辛亥革命後の1912年(民国元年)5月12日、中華民国政府は北京に陸軍部を設置、10月24日に新たな軍服を制定した。常服の形状および階級章は南京臨時政府同様に日本陸軍の明治39年式軍衣に酷似しているが、生地の色・ボタンの数はともに清朝時代のものを踏襲している。また、礼装などドイツ色の強かった清代とは対照的にフランス式要素が強くなっている。

常服の上衣は日本の四五式同様、胸部物入は雨蓋付き、腰部物入は雨蓋無しだが、胸部物入はボタンが付かない。 また、上衣の袖および袴の外側には赤のパイピングが一本入る[12]

襟章は五角形で、将官は金色。襟の兵科章には、隊号章として下士官兵は左側がアラビア数字、右側がローマ数字、将校は両襟ともローマ数字で表記された金属章を付ける。また、各兵種に属する者は隊号章とともにその兵種の頭文字を漢字で表記した銅製の襟部徽章を[13]、参謀は2つの棒を交互に組み合わせた意匠の襟部徽章を左側に付けた。

階級章は、長さ10センチ、幅3センチで、下士官兵は赤の下地、将校は白地に金線。

軍帽は天井喰出に赤のパイピングが一本入る。鉢巻は軍衣の地質と同様だが、将官は鉢巻全体に金色のパイピングが入り、顎紐も金色となる。帽章は五色旗をモチーフとした黄・黒・白・青・赤で塗り分けられていたが袁世凱政権の前後に日本陸軍と同様の五芒星へと変更された。中華帝国崩壊後、再び五色星に喉された。

革命以前、被服廠は各地に分散されていた[14]。当初、北洋政府軍は被服廠というものを持っておらず、民間への大量発注という形を取っていたが[15]、これらの軍需工場を北京に集中させ、またドイツや日本から大量の製造機器を購入し、軍需工場の刷新を図った。まず、1912年9月、駐上海陸軍被服倉庫が設立。10月、清代の被服廠を解体・移転させて北京市内の米倉庫を接収し、11月、新たに被服廠を設立。また朝陽区老君堂と東城区灯市口にあった被服倉庫を合併し被服廠に併設させた。やや遅れて1914年(民国3年)4月に武昌南湖の旧軍の制革廠を受領、1915年(民国4年)11月、海淀区清河鎮にある旧軍の官営企業だった溥利呢革公司を受領し呢革廠を設置。同年、陸軍被服装具検査規則が制定され[16]、こうして軍服の製造システムが整えられた。

ベルトは第一次世界大戦ごろより欧州からサム・ブラウン・ベルトが観戦武官や軍事顧問を経由して持ち込まれたと思われ、やがて全土に普及した。

その後、北京政府は分裂し、軍閥割拠の時代へと突入した。ボタンやポケットの形状など、地域によって細部の差はあるが、全体的に似たり寄ったりで大きな変化はなかった。

ただし、奉天閥は1924年より[17]制帽の鉢巻をはじめ、袖や袴のパイピングを一切配したシンプルなデザインとなった。帽子のはみ出しは狭くなり、軍衣の胸と腰の物入れは貼り付け型が基本となる。同様の変化は山西派でも見受けられる。

また、国民軍や孫伝芳張宗昌連合軍(直魯連軍)では簡略化させ、階級のついた中折れ帽を被った「漁夫兵」[18]と呼ばれる独自の軍装が現れた。

やがて北伐完了により国民政府の折襟の軍服に取って代わられていくが、満州国陸軍がこれに酷似した軍装を継承していくことになる。

礼装

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北洋陸軍の礼装は、上衣は明るい水色でシングルの7つボタンにエポレットが付き、袖には柏葉型の装飾がつく。校官・尉官はエポレットの色が兵科色を表す。

袴は将官は上衣と同色、校官および尉官は黒で、いずれも側面に赤いパイピングが入る。

正帽は、将官はケピ帽、校官・尉官は黒のシャコー帽で、前立が付く。鉢巻部分の装飾は当初金色の草文様であったが、中華帝国崩壊後パイピングへと変更される。帽章は五色の星を菊花[19]が囲む。

国民革命軍の軍服(1924~1945)

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1924年、黄埔軍官学校の開校に伴い、制服として中山服が採用された。この学校自体、護法軍に変わり新たな軍隊を再編するためのものだったため、必然的にこの制服が国民革命軍の軍服へと発展していった。

もっとも、全国の中華民国軍で一律の服制が用いられていたわけではなく、各地の部隊(軍閥)によって軍服の形状の差異は残っていた(例えば、東北軍第29軍などで使用された防寒帽など)。

国民革命軍はソ連赤軍を手本としていたため、軍服も当初はどちらかといえばソ連の影響を受けていた。

色は北洋陸軍を継承して青灰色の軍服が導入されたが、のちにカーキに改められた。

階級章は当初左袖に配されていたが、北伐後の1929年の改正により襟に移動した。階級を三角星で表す(ソ連軍の下士官と同じ)、下地を兵科色によって分けることで兵科章と階級章を一体化させるなど、全体的に援助を受けたソ連軍の影響が強い意匠となっている。 これらのものは下士官兵はパレードなどの際を除いて普段着用することはなく、代わりに左胸の符号と右腕上腕部の師団章で所属を示した。符号では所属部隊および役職のほか、左側に階級章と同じ三角星を描く事で階級が識別できるようになっており、さらに士官用の部隊章は外枠の色が塗り分けられていた。青は尉官、黄色は校官(佐官に相当)、赤は将官である[20]

軍衣

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1924年~1929年(黄埔軍官学校時代~北伐)

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「陸軍服制暫行条例」1926年5月制定(軍事委員会令第2247号)

軍衣は「草青色」、ボタンは革製で同色、直径2cmと規定されたが、金属製で三つ巴のような形のボタンなど様々なものが好まれた。 帽子の頭頂部直径は25cmで、帽章は幅5cm。

階級は左袖に配し、青天白日章とともに付けた。階級の配列は北洋政府軍と同一と思われる。また、青天白日章の代わりに部署名が書かれたものも見られる。 1927年より武漢分校で集められた女性兵士は両袖にWomanの頭文字「W」の赤い刺繍を配した[21]

民国18年(1929年)制式

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「陸軍軍常服曁礼服暫行条例」1929年1月制定、5月10日公布[22]
『陸軍常服軍礼服条例』同年9月7日制定

易幟後、旧軍閥の被服統一を図る事を目的として「陸軍軍常服曁礼服暫行条例」(以下、便宜的に第1規定と称する)が公布された。軍衣に大きな変化はないが、階級章が襟に移行した。同年9月7日に「陸軍常服軍礼服条例」(同じく第2規定と称する)により階級章のサイズが定められたほか、デザインも第1規定とは大きく異なる。ショルダーループ型の肩章に金属製の部隊章を作る試みもあったようだが、この部隊章は1931年の《陸空軍軍官佐及士兵等級表》制定前後に廃止されたと思われ、第一次上海事変参加の軍官がわずかに付けているに留まる。

このように短期間のうちに次々改定を行ったため、しばらくは複数の軍装が混在した。当時の写真を見た限り、特に旧軍閥たる地方軍では最初の暫行条例の階級章が使用され続け、中央軍との差が明確となった。この階級章の使用は、後述の陸軍服制条例制定後の37年辺りまで確認できる。

色は深灰色。ただし中央各軍官学校、教導師、警衛旅などでは「草緑色」の軍服着用が容認されていたほか[23]、地方軍でも新編第36師のように特殊任務に就く部隊ではカーキ色を使用する事もあった[24]

階級章は第1規定では軍官は絹製、士兵は綿織物で、台紙は将官は赤、校官は藍色、尉官は白、士兵は黄色。縁取りは兵科で色分けされる[25]。第2規定ではサイズは4.5センチ×1.8センチと規定され[26]、軍官用階級章に金の横筋が入るようになり、日本陸軍のものに近いデザインとなった。 部隊章は襟章右側に示したが、後年俗に「符号」と呼ばれる名札が左胸に付けられるようになった。

また、この頃の軍官には襟を詰襟風に高く詰める、ポケットの雨蓋をとがらせる、軍帽の庇を急な傾斜にする、クラウンを高くするなど、日本の青年将校文化に比類する風潮があったことが写真よりうかがえる。

民国24年(1935年)制式

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陸軍服制条例(1935年12月13日制定、1936年1月20日公布)

北伐後2回目の改正。この改正で、いくつかの大きな変更点が成された。 まず、制帽が廃止され、オーストリア型の略帽(山岳帽)一本となった。 さらに、軍服の色が清朝からの伝統であった青灰色から、より目立ちにくい黄土色へと変更された。これは中独合作によって来中したドイツの軍事顧問の提案を受けてのことである[27]。 軍官用階級章には金の囲いが入るようになった。

士官の使用するサム・ブラウン・ベルトは、それまで各自の自費調達だったため形状にかなりばらつきがあったが、本条例ではベルトに関する規定も盛り込まれた。

軍官
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大礼服

国民革命軍の礼装である大礼服は、北洋政府時代を引き継いだフランス式となっているが、襟は詰襟から折襟となっており、あたかも規格帽に中山服の平常制服がそのまま豪華になったような印象を受ける。色合いは明るい水色に代わって、日本陸海軍の礼装同様より重厚感のある黒を基調としている。これらは同じく折襟で黒の礼装であったイタリア陸軍の影響も考えられる。

装飾は、清代が龍、北洋政府が菊であったのに対し、国花の梅を随所に盛り込んだものとなっている。これは戦後以降現在に至るまでのコンセプトを方向付けたといえる。

常礼服、軍常服

常礼服とは通常礼装の事であり、軍常服との明確な違いはない。常礼服や後方勤務者は短靴。乗馬ズボンは規定上乗馬本分者に限られているが、高級軍官の中には好んで着用している者もいる。

野戦では長靴ないし裏腿(ゲートル)を使用。裏腿は甲種(レギンス、革脚絆)と乙種(巻脚絆、巻きゲートル)の2種類があり、甲種は校官以上と定められている[28]

士兵
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帽子類

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正帽
略帽

ヘルメット

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防寒装備その他

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国共内戦~遷台後の軍服(1946~現在)

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1946年度3月改正

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第2次世界大戦後はアメリカやイギリスの軍事援助を受けたことから、米国の軍服やイギリスの軍服の影響を強く受けた軍装となった。

改正は空軍の軍服(後述)に引っ張られるような形である。階級章が肩へと移動し、代わって襟には兵科を表す徽章が配された。また階級章の意匠も大幅に変更され、従来の正三角形から梅へと変更された。

ただし、当初のころは肩章を付けたのみで襟章は従来のものを留めたものも多い。この時期は戦後の経済政策の失敗や国共内戦も相まって改正がままならず、中には独自の改造を施している者もいた。軍閥割拠以来、軍装が最も混乱していた時期といえよう。

1959年(民国48年)制式

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『陸軍服制條例』(改正)1959年3月13日制定、3月24日公布

本改正によりブレザー制服となり、完全にアメリカ化された。分類は礼服・晩礼服・軍常服・軍便服の4種類に細分化されている。

冬季礼服は黒で袖章が入る。夏季礼服は白のホワイトドレス。冬季晩礼服は黒、夏季晩礼服は白の燕尾服。冬季軍常服は茶緑色、夏季軍常服はカーキのブレザー。

2006年(民国95年)制式

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陸海空軍服制條例 (改正)(2006年1月3日制定、2007年11月7日公布)

現行では軍常服に夏季・冬季の区別は撤廃されている。軍便服は甲式・乙式・丙式の3種類があり、甲式は長袖シャツにネクタイ、乙式は長袖シャツ、丙式は半袖シャツ。

軍常服
軍便服
野戦服

戦時中より米英より供与された被服を戦闘時使用していたが、1946年に米軍チノ型の長袖および半袖の戦闘服を「軍便服」の名で導入、常服との違いが明文化された。遷台後はOD色、迷彩を経てデジタル迷彩を導入。

航空特殊戦指揮部

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空降特戦部隊

中華民国陸軍空挺特殊部隊

パイロット

海龍蛙兵

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陸軍第101両棲偵察大隊,海軍陸戦隊同様水着にゴーグルのみという姿で知られているが、赤い水着を着用している。

憲兵

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分類は陸軍に準じるが、軍常服に甲式、乙式の区分がある。乙式軍常服はジャンパー型の上着を着用。

海軍

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海軍は伝統的にイギリスの影響を強く受けている。

清代では当初、従来のいわゆる満州族の民族衣装にネイビーブルーの生地、袖章、短剣、ベルトというように英海軍の要素を取り入れた中洋折衷の軍服が使用された。日清戦争後、海軍も全面的な改正に乗り出し、将校・下士官に冬はダブルブレストの開襟フロックコート、夏は白い詰襟の軍服が、兵用にはセーラー服がそれぞれ採用された。帽章も英海軍のデザインを受け、碇の上に赤い宝玉と竜を描いた。民国成立後も基本的なコンセプトは引き継がれたが、夏衣はロシア海軍のものに近い意匠へと変更された。

北洋政府成立後、冬服に日本海軍とよく似た前合わせがホック留めの詰襟常服が採用された。戦後は再び開襟に戻り、現在に至る。また、軍官には米海軍のサービスドレス・カーキやワーキング・カーキ型の、水兵にはユーティリティ型の常勤服が着用されるようになる。

水兵は襟後部端に青天白日章がつく。

軍装近代化の試みは同治7年(1869年)に福州船政局が行っている。陸軍と同型の伝統的な「号衣」で、胸の補子の中には「○○輪船」と乗艦する艦名が書かれた[29]。光緒7年(1882年)に英国を参考に中洋折衷の軍服と階級を規定した「北洋水師号衣図説」が制定された[29]。軍服は、伝統的な水師服が近代艦船に不向きであったことから朝廷の同意で長袍を改良した短褂とし[30]、袖に階級や職種を示した花柄の図案を付けた。官弁(士官)の袖口の大きさは6寸、5寸。袖章は、官弁は宝珠を竜2匹が対に囲む意匠で、とぐろの往復する本数で階級を示す。宝珠の色は、提督~参将が赤、遊撃~守備は青、千総・把総は白。水手は、上衣中央に四角形の補子が付けられ、左襟に「北洋海軍」、右襟には艦艇名が書かれた[29]。日清戦争敗戦後の光緒24年(1898年)ごろ、夏服として肩に花紋の付いた白い短褂と「涼草帽」(麦わら帽子)が導入された。この涼草帽は高さ2.5寸、沿寛6寸とされる[30]

宣統元年(1909年)に陸軍の三等九級階級制を参考に海軍階級が制定され、同時に完全洋式の軍装が制定された[31]。大礼服・常礼服・常服などに分類される[31]

1913年1月19日に臨時大総統令により海軍服制が定められ、1918年10月21日に海軍部により「海軍服装規則」が制定された[32]

国民政府としての規定は1930年(民國19年)6月17日に制定された。大礼服、礼服、公服、常服、晩礼服、晩公服、晩常服の7種類に分類される。戦後1946年ごろから軍官冬常服が開襟型となり、1950年代にはアメリカ式の軍便服が導入されるようになる。軍官は長袖の「黄乙」と半袖の「黄丙」、水兵にはユーティリティ型の作訓服が着用された。

現行は礼服・晩礼服・軍常服・軍便服の4種類に分類されている。

上士以上の軍常服は冬季は一種類のみだが、夏季ではサービスドレス・ホワイトに相当する甲式、サービスドレス・カーキに相当する乙式、サマー・ホワイトに相当する丙式の三種類がある。軍便服ではネクタイを甲式、ノータイを乙式、半袖ギャリソンキャップを丙式と定義している。

海軍陸戦隊(海兵隊)

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海軍陸戦隊兵士の軍装は、迷彩柄のショートパンツスタイルの水着にゴーグルのみといったスタイルが広く知られているが、それ以外にも用途に応じて多様な軍装が使用されている。

空軍

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